トップページへ
目次選択へ
投稿日:2025年12月31日
随分と長い時間、身を丸めてじっとしていたが、いつまで経っても、地面に叩きつけられる感覚は襲ってこなかった。
それどころか、ふと気がつくと、奇妙な浮遊感が全身を包んでいる。
音のない、生温い水中のような空間を、シャルシスはしばらく、フワフワと漂っていたのであった。
やがて、そっと地面の上に降ろされて、シャルシスは、ゆっくりと目を開けた。
てっきり、バルコニーの下に広がる庭園に着地したのかと思ったが、そうではない。
シャルシスが蹲っていたのは、暗くて湿っぽい、見知らぬ石室の中であった。
しばらくは目が慣れず、ぼーっとしていたシャルシスであったが、不意に、傍らでルーフェンが身じろぐと、はっと我に返った。
慌てて腕の中から這い出し、側に落ちていた装飾杖を拾い上げると、それをルーフェンに向ける。
魔術はあまり得意ではなかったが、今ある武器は、杖の他になかった。
「こ、ここはどこだ!」
震える声で尋ねると、ルーフェンが、微かに息をつく音がした。
暗くてよく見えないが、彼は、石室の壁にもたれて座っているようだ。
幸いなことに、今すぐ襲いかかってくるような気配はない。
少し間を置いて、ルーフェンから返事が聞こえてきた。
「……裏口近くの地下道ですよ。移動陣の間って、聞いたことくらいはあるでしょう?」
それを聞いて、シャルシスは首を巡らせた。
石壁に設置された古い燭台と、石床に展開された巨大な魔法陣。
鼻をつく黴臭さは、長らくここに人が立ち入っていないことを証明している。
魔導師でも滅多に使わないので、実際に来たのは初めてであったが、確かに聞いたことはあった。
ここは、勅令でも下りない限り誰も近寄らない、シュベルテに三ヶ所ある移動陣の内の一つである。
(そうか……移動陣を使ったのか。だから、飛び降りても無事でいられたのだな……)
納得したように、ほっと息をついて、シャルシスは足下の陣に見入る。
一方のルーフェンは、どこか疲れた様子でぼやいた。
「予定としては、一気にシュベルテの外まで出るつもりだったんですがね。……ったく、敵に回すと面倒臭いんだから」
血の止まらない肩を押さえて、ルーフェンは、宮廷魔導師たちの顔を思い浮かべる。
そう、本当は一気に南方まで飛んで、そのまま行方を眩ませるつもりだった。
だが、あのギールという男が放った"何か"のせいで、長距離の瞬間移動が叶わなかった。
彼の一撃が腕を掠った瞬間、急激に魔力が吸い取られて、思いがけない魔力不足に陥ったのだ。
(あいつ……確かトワと一緒にいた、新人だとかなんとか……。レドクイーン家の生き残りだったんだな)
ふと、十四年前の記憶が蘇る。
ルーフェンも、最初は気づいていなかったが、叙任式で名前を呼ばれた際に、彼の姓がレドクイーンであることを知った。
レドクイーン家の名は、ルーフェンにとっても馴染み深いものである。
彼らは、リオット族を王都に引き入れた際、ルーフェンと契約を交わした武器商家の一つだ。
アーベリトの陥落時に、全員亡くなったかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
魔術による攻撃であれば、発せられる魔力から、それがどんなものなのかおおよそ検討がつく。
だがギールからは、そういった予備動作が一切見られなかったので、あれは魔術ではなかったのだろう。
だから、彼がどのような絡繰で、魔力を吸収するような手段を得たのかは、考えたところで推測の域を出ない。
ただ一つ、明らかなのは、ギールがルーフェンに対し、明確な殺意を持っていたということだ。
でなければ、シャルシスにも当たるかもしれない状況で、撃つことなどできなかったはずだ。
移動陣を使う時に攻撃されては敵わないからと、一時的にシャルシスを人質にとったのだが、まさかあの場で、ギールが打って出るとは予想外であった。
正直なところ、厄介なのはジークハルトくらいだと思っていたので、その他は計算に入れていなかった。
実際、王宮の人間からすれば、何より優先すべきは、たった一人しかいない王位継承者のシャルシスだろう。
だが、それを無視して攻撃してきたギールが、ルーフェンを恨んでいるであろう、アーベリト陥落の被害者であったと思うと、あの殺意を剥き出した態度にも合点がいった。
今後どう逃げるかを思案していると、どこからか、切迫した鐘の音が聞こえてきた。
緊急事態と、臨時招集を知らせる合図である。
同時に、王宮の方から魔力の波動が広がり、王都全体を包む強固な結界が形成されていく。
これは、かつてルーフェンが、アーベリトで張っていたものと同じだ。
検問を通過する以外、街への出入りが一切できなくなるため、シュベルテでは非常時にのみに展開するものであった。
ルーフェンは、やれやれと嘆息した。
結界により街が封鎖されたということは、ジークハルトたちは、まだルーフェンが王都内にいると確信しているということだ。
しかも、庭園で移動陣を使うところは見られているので、シュベルテ内の他の移動先にも、すぐに追っ手を回してくるだろう。
結界を張られた以上、シュベルテの外へ出る方法は、また別に考える必要があるが、今はとにかく、王宮からの脱出が優先だ。
魔力が回復し次第、外郭内にある西門へと移動しなければならない。
召喚術を使えば、新たに移動陣を敷くことも可能だが、その方法は最終手段だ。
なぜなら、それには"目印"が必要となるし、あまり時間をかけて複雑な操作をしていると、逆に魔力を追跡されて、居場所を割り出される可能性があるためである。
石壁を支えに立ち上がると、ルーフェンが動いたことに驚いたのか、シャルシスが飛び退いた。
まるで剣を構えるように装飾杖を持ち変えて、シャルシスは、ルーフェンを睨みつけてくる。
その怯えように苦笑すると、ルーフェンは言った。
「もう逃げていいですよ。一時的にですが、魔導師連中は撒けたので、人質の役割は終わりです。怖い思いをさせて、すみませんでしたね」
「え……」
存外に優しい声音で言われて、シャルシスは戸惑った。
召喚師と二人きりになった今、自分も命をかけて戦うしかないと覚悟していただけに、こうもあっさり解放されると、なんだか拍子抜けしてしまう。
石壁に並ぶ燭台を宙でなぞり、炎を灯すと、ルーフェンは、明るくなった通路を示した。
「一本道なので迷わないと思いますけど、ここを真っ直ぐ行って、階段を上がれば出口です。王宮の裏口からの戻り方は、分かりますね? まあ、分からなくなっても、その辺をうろうろしていれば、俺を探す騎士なり魔導師なりが保護してくれるでしょう」
「…………」
ルーフェンの口ぶりから、本当に自分を逃すつもりなのだと悟ると、シャルシスは、ふうっと肩の力を抜いた。
まだ安心するには早いと諫めるものの、思考とは裏腹に、勝手に筋肉の強張りが解けていく。
長時間の緊張状態が続いて、身体が限界を訴えているようであった。
構えていた装飾杖を下ろしたシャルシスは、ふと、自分の手を見てぎょっとした。
燭台に照らされた掌に、べったりと血が付いている。
よく見ると、手だけではなく、胴回りの衣服や至る所に、鮮血が染み込んでいた。
「う、うわぁ!」
思わず飛び退いたシャルシスは、その場で足がもつれて、尻もちをついた。
だが、この出血量の割に身体は痛まないし、袖を捲ってみても、皮膚に傷は見当たらない。
どうやらこの血は、自分のものではないようであった。
シャルシスは、恐る恐る顔を上げると、壁に寄りかかるルーフェンを見つめた。
「……そ、そなた……大丈夫なのか? 血が……」
想像した痛みに顔を歪めながら、シャルシスは、ルーフェンの全身を眺めた。
右肩から溢れた血が、衣服をぐっしょりと濡らし、足元にまで達している。
加えて、ポタポタと床に滴る血は、割れた窓硝子で切った傷から、新しく溢れたもののようであった。
ルーフェンは、おかしそうに微笑んだ。
「この期に及んで誘拐犯の心配とは、案外肝が据わってるんですね。うちの王子様は」
「…………」
茶化すようなルーフェンの態度に、シャルシスは、顔を曇らせる。
言葉を聞く限りは大丈夫そうだが、改めてルーフェンの姿を確認すると、やはり、立っているのがやっとの状態に見えた。
思えば、この場に到着した時だって、もうシャルシスを人質として利用する気がなかったのなら、さっさと自分だけ逃げれば良かったはずである。
それなのに、今も残っているということは、ルーフェンは、実のところ動くのも辛い状況なのではなかろうか。
そう思うと、急に考える余裕が出てきた。
シャルシスは、膝を払って立ち上がった。
「……ルーフェン、そなた、これからどうするつもりなのだ。そのような大怪我で……」
ルーフェンは、移動陣の方を一瞥した。
「どうって、逃げるに決まってるでしょう。捕まったら、きつーいお仕置きをされそうなんでね」
痛いのは御免です、と付け加えて、ルーフェンは、移動陣の方に足を向ける。
すると、シャルシスが行手に立ち塞がった。
「だ、駄目だ! この場で投降しろ! そうしたら、減刑するように余が取り計らってやる」
はたと立ち止まったルーフェンが、目を丸くする。
真剣な表情で見つめてくるシャルシスに、ルーフェンは、ぶっと吹き出した。
「な、なにがおかしい!」
突然笑われて、シャルシスが憤慨する。
しかし、まともに受け答えする気がないのか、ルーフェンは、くすくすと笑い続けている。
ひとしきり笑い終えると、ルーフェンは、ようやく答えた。
「何を言い出すかと思ったら……。無理無理、反逆罪に加えて、王子を人質にとった挙げ句誘拐したんですよ? どう考えても、極刑は免れませんって」
「……そなた、何故そのように悠長なのだ……」
まるで笑い話のように語るルーフェンに、シャルシスが顔を引き攣らせる。
死の淵に立たされているというのに、呑気に笑っているルーフェンが、信じられなかった。
ルーフェンは、はぁ、と息を吐き出すと、何かを振り切ったかのように、砕けた口調になった。
「お別れついでに忠告しておきますけど、王族とはいえ、あまり下手なことはしない方がいいですよ。俺のことは、血迷った罪人としてさっさと忘れるべきです。召喚師だからといって庇い立てすると、君の立場が悪くなる」
シャルシスは、弾かれたように顔を上げると、目を大きく見開いた。
ルーフェンの言葉にひどく驚いているような、困惑しているような、そんな表情であった。
少しの間、シャルシスは、ルーフェンのことを探るように見ていたが、ややあって俯くと、ぼそっと呟いた。
「……心配するフリなどするな。余の立場がどうなろうと、そなたには関係なかろう……」
聞き取りづらい、くぐもった声に、ルーフェンが顔を寄せる。
「関係ない?」と聞き返すと、シャルシスが、いきなり大声を出した。
「わ、分かっておるのだぞ! どうせ余のことなど、お飾りの次期国王としか思っていないのだろう! そなたも、モルティスも……!」
思った以上に声が響いたので、ルーフェンはドキッとして、通路の方を見やった。
幸い、誰かが入ってくる気配はないが、聞きつけられてもおかしくない声量である。
そんなルーフェンには構わず、シャルシスは言い募った。
「面と向かっては体の良いことを並び立てていても、裏ではお祖母様や余の悪口を言っていること、知っているんだからな! 目先の権力欲しさに擦り寄ってきおって……皆、皆、大っ嫌いだ!」
「ちょっ、声が大きい……!」
口に手を当ててきたルーフェンを振り払い、シャルシスが、唸り声をあげる。
気が緩んだのか、にじんできた涙を乱暴に拭うと、シャルシスは、声量を落として続けた。
「皆、嫌いだ……。そういう連中にまんまと利用されて、抵抗できない未熟な自分も……。もっと強くなりたいし、賢くなりたい。そう思って、稽古も座学も、日頃から一生懸命やっているのに、いざとなると、どうすれば良いのか分からなくなる……。こんなに情けないから、お祖母様も、余のことが嫌いなのだ……」
耳を塞ごうとしていたルーフェンは、意表を突かれて、ぱちぱちと瞬いた。
今まで気に留めていなかったが、シャルシスがそんな風に感じていたとは、知らなかった。
シャルシスの祖母バジレットは、孫が成人するまでの間、なんとかカーライル家の地位を守ろうと、その身を張って王座に踏み留まってきた女だ。
そんな彼女が、孫を嫌っている訳がないし、むしろルーフェンは、溺愛しすぎて過保護なくらいだと思っている。
けれども、言われてみれば、思い当たる節はあった。
バジレット、ひいてはその息子エルディオも、基本的には厳しい人柄で、笑ったところなど見たことがなかった。
もしバジレットが、孫に対してもそういう一面しか見せていなかったのだとしたら、嫌われていると思われても、仕方がなかったのかもしれない。
シャルシスは、ぐっと唇を噛んだ。
「……ルーフェン、そなたのことだって、嫌いだ。余を人質にとって騒ぎおって、本来であれば、然るべき処罰をくれてやるところだ。……だが、召喚師がいなくなったら、余はどうすれば良い? このまま戻って、嘘つきの中から、摂政役を選べばいいのか? それとも、余一人で、サーフェリアを守っていけと言うのか……? 無理だ……今の余では。父上のようにはなれない……」
上着の裾をぎゅっと握ると、シャルシスは、それきり黙りこんでしまった。
正直、こんな愚痴を聞いている場合ではないのだが、なんとなく耳を傾けている自分がいる。
それは、自分だけが政界から逃げ出そうとしている罪悪感からなのか、それとも、シャルシスが一人きりになってしまった原因が、前召喚師シルヴィアにあるからなのか。
はっきりとした理由は、ルーフェン自身にも分からなかった。
「俺がいなくなっても……」
一旦言葉を切って、目を伏せる。
少し間を開けてから、ルーフェンは、諦めたように言った。
「俺がいなくなっても、大丈夫ですよ。むしろその方が、色々とうまく行くでしょう。……俺個人の意見ですが、摂政役を立てるなら、やはりリラード卿が適任です。けれども彼は、軍事には精通していませんから、そこを補うような形で、バーンズ卿が立つことになるかと」
「……ジークハルト・バーンズか?」
問い返してきたシャルシスに、ルーフェンは頷いた。
「そうです。さっき真っ先に飛び出してきた、目付きの悪い黒髪ですよ。……まあ確かに、王宮には信用ならない輩も多いですが、彼は信用できます。そんでもって、彼が統率する宮廷魔導師もね。だから殿下は、彼らと協力して、召喚師一族のいない国を作ってください」
「…………」
すんすんと鼻をすすりながら、シャルシスは、ルーフェンの言葉を不思議な気持ちで聞いていた。
一年も隠蔽していた罪を告発され、今まさに、国から追いやられようとしているのに、ルーフェンの表情からは、焦りや不安などが感じられない。
それどころか、長年の柵から解放されたような、清々しささえあるような気がした。
乾いてきた目元を再度拭うと、シャルシスは、ぽつりと尋ねた。
「……ルーフェン、そなた、本当に国家転覆など企んでおるのか?」
「…………」
ルーフェンは、眉を上げただけで、何も答えない。
シャルシスは、もう一度尋ねた。
「獣人の次期召喚師を、秘密裏に生かして逃した件。そなたは、ミストリアに恩を売るためだと言った。だがモルティスは、それは嘘で、そなたを他国の通ずる売国奴だと言った。……どちらが本当なのだ?」
ルーフェンは、それでも答えず、しばらく黙っていた。
しかし、不意に唇に笑みを刻むと、試すような口調で言った。
「……さあ? どちらだと思います?」
答えに迷ったシャルシスが、逡巡の末、口を開く。
だが、声に出す前に、ルーフェンはシャルシスの背中を叩いた。
「ほら、そろそろ行って。なに能天気に誘拐犯とおしゃべりしてるんですか。今逃げないと、俺の気が変わって、また人質にされるかもしれませんよ」
改めて出口を指し示し、ルーフェンは、しっしと虫でも払うかのように手を振ってくる。
シャルシスは、重い足取りで通路の方に歩いて行ったが、やがて、足を止めると、何か言いたげに振り返った。
もごもごと口を動かしながら、シャルシスは、ルーフェンのことをじっと見ている。
その目を見つめ返して、ルーフェンは、呆れたように促した。
「ほら、早く」
「…………」
さっさと行け、と目で示すも、シャルシスは動かない。
彼は、何か迷った様子で俯いていたが、やがて、決意したように息を吸うと、ぼそぼそとか細い声で告げた。
「……てくれ」
「……はい?」
「人質でいいから、余も連れて行ってくれ……」
- 11 -
🔖しおりを挟む
👏拍手を送る
前ページへ 次ページへ
目次選択へ
(総ページ数102)