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投稿日:2025年12月31日
地下通路を抜け、出口から主塔の外に飛び出そうとしたところで、シャルシスは踏み止まった。
冬夜の山中で、夜は越せない。
この古城の居住区や他の主塔には、おそらく別の見張りがいる。
残された逃げ道は、一つしかなかった。
シャルシスは、迷ったように後ろを振り返った。
背後から、男たちの怒声と足音が迫ってくる。
覚悟を決めると、シャルシスは、今いる主塔の螺旋階段を駆け上がっていった。
主塔の地下室と食堂は毎日出入りしていたが、上層階に足を踏み入れるのは、初めてであった。
内部構造を把握できているわけではないが、主塔というのは、物見の役割を備えた高い砦である。
おおよその間取りは予測できるし、上層階には、地上を監視できる物見窓が設置されているはずであった。
三階層ほど上っていくと、予想通り、石壁に物見窓が現れた。
再び後ろを振り返り、男たちが追いかけてきていないことを確認する。
彼らは、シャルシスが同じ主塔内に逃げたとは思わず、外を探しにいったようだ。
シャルシスは、腰にかけていた狩用の投げ縄を手に取ると、物見窓から上半身を出して、主塔の頂上を見上げた。
主塔や城壁の上部を囲う胸壁は、地上の敵の動向を窺いながらも、遠距離攻撃を避けられるよう、縁が凹凸になっている。
暗くて距離を目測しづらいが、投げ縄の先端の輪を凸部分に引っ掛ければ、主塔の頂上までよじ登ることが出来るだろう。
頂上まで登れば、まず下からは姿が見えない。
それに、頑丈な石壁があるので、寒さはあっても、吹雪は防げる。
城壁の上や屋根を伝って、他の場所に移動することも可能になるし、厨房や暖炉に繋がる煙突のそばにいれば、暖を取ることもできるかもしれない。
足を滑らせたら落下する、気の抜けない状況に置かれることにはなるが、今思いつく限りでは、屋根上が最善の隠れ場所であるように思えた。
シャルシスは、小石が括り付けてある縄の先端を、主塔の頂上めがけて高く放った。
カツン、と小石が壁に弾かれる音がして、縄が落ちてくる。
暗い中で何度も試み、十数回目で、ようやく縄の輪が、胸壁の凸部分と思しき箇所に掛かった感覚があった。
ぐいぐいと引っ張って強度を確かめてから、縄を腰に巻き付け、物見窓の縁に足をかける。
外に身を乗り出し、改めて主塔の高さを感じると、途端に恐怖心が湧き上がってきた。
だが、きっと大丈夫だと己に言い聞かせながら、シャルシスは上を向いた。
何せ自分は、この主塔より更に高い物見塔の胸壁から、民家の屋根に飛び移り、最終的には、大勢の追手を撒いてシュベルテから脱出するという荒業を、すでに成し遂げているのだから。
石壁のわずかな窪みに爪先をかけ、慎重に縄を手繰りながら、上へ上へと登っていく。
凍てつく風が吹いて、ユラユラと縄が揺れる。
──と、次の瞬間。細かな礫が降ってきたかと思うと、ズルッと胸壁にかかっていた縄が外れた。
「──……っ⁉︎」
あっと思う間もなく、シャルシスの身体が落下する。
咄嗟に物見窓の縁──張り出した壁石を右手で掴み、事なきを得たが、落ちた衝撃が響き、肩に激痛が走った。
「──……っ」
痛む片腕だけでは、全体重を支え続けることはできない。
しかし、必死に伸ばした左腕は、ギリギリのところで壁石に届かなかった。
次第に、右手が痺れてきて、壁石を掴む指先が震え始める。
落ちれば死ぬ、という焦燥感が、息苦しいほどに鼓動が逸らせた。
その時、石階段を踏む足音が近づいてきて、シャルシスは身を凍らせた。
外に出ていた盗賊たちが戻ってきて、主塔の上層階を捜索しにきたのか。
物見窓さえ覗かれなければ見つからないだろうが、彼らが去るまで壁石にぶら下がり続けるには、もう腕が限界であった。
「……誰? 誰かいるの……?」
物見窓から、ほのかな灯りが漏れる。
聞こえてきたのは、予想外にも女の声であった。
『蛇の毒牙』の盗賊の中に、女はいないはずだ。
となると、居住区に囚われているという、奴隷の一人だろうか。
つかの間悩んでから、シャルシスは意を決して、「窓の外だ……」と声を出した。
奴隷ならば、助けてくれる可能性があると思ったからだ。
ほどなくして、女が物見窓から顔を出した。
白髪混じりの茶髪を後ろでまとめた、四十ほどに見える、壮年の女である。
「大変……! 早く! 早くこれに掴まりなさい!」
女は、今にも落ちそうなシャルシスの姿を認めると、一旦手燭を置き、羽織っていた分厚い毛織の肩掛けを取って、窓から垂らしてきた。
シャルシスは、それを空いている左手で掴んだ。
そして、両手に渾身の力をこめ、ぐっと窓枠に身を乗り上げる。
華奢な腕で肩掛けを引っ張ってくれた女の助力もあり、シャルシスは、どうにか主塔の中に戻ることができたのであった。
石階段にへたりこむと、女に礼を言う間も無く、階下からまた足音と怒声が響いてきた。
今度こそは盗賊たちだと確信できる、乱暴で慌ただしい気配であった。
強張ったシャルシスの表情を見て、おおよその事態を察したのだろう。
女は、シャルシスの腕を掴み、階段を駆け上がり出した。
「私に着いてきなさい。追われているのでしょう?」
シャルシスは頷いて、女に手を引かれるまま走り出した。
女の正体は分からなかったが、どうしてか、彼女は信頼して良いような気がした。
屋根登りに失敗して、他に逃げ場がないという状況だったこともあるが、この女の凛とした所作には、どことなく既視感があったからだ。
女に案内されて入ったのは、主塔の五階層にある、こじんまりとした石室であった。
石室といっても、シャルシスが寝起きしていた、地下の石室とはまるで違う。
燭台や暖炉が設置され、床には分厚い敷物が敷かれた、明るく暖かい部屋であった。
おそらく、元は物見兵の休憩室にでも使われていたのだろう。
寝台や食卓などの最低限必要な家財もそろっており、食事や水も届けられているようだったので、多少の不便はあれど、数月程度ならここだけで暮らせそうな様相であった。
シャルシスの視線が、卓上のスープとパンに注がれていることに気づいたのだろう。
女は扉を閉め、食卓につくと、立ち尽くしているシャルシスに、手で向かいの席を示した。
「心配せずとも、あの男たちはこの部屋には入ってこないわ。……もしお腹が空いているのなら、お上がりなさい。冷めているけれど、私は口をつけていないから」
「…………」
シャルシスは、腰に着けたままであった投げ縄や橇を床に下ろすと、女から視線を外さないようにしながら、おずおずと示された席に着いた。
昼にユキウサギを食べたし、別に食べ物が欲しくて食卓を凝視していたわけではなかったのだが、いざ食事を目の前にすると、ぐうう、と腹が鳴った。
卓上に置かれていたのは、この古城生活でシャルシスたちが口にしてきたものとは比べ物にならないほど豪勢な、肉や芋などの具が沢山入ったスープだったからだ。
シャルシスは、一瞬警戒心を忘れて、女に勧められるまま匙を取った。
真っ先に口に入れたスープの肉は、シャルシスたちが獲ってきたものではない。
塩漬けにして保存されていた、豚の肉のようであった。
空腹に苛ついていた盗賊たちの態度が、演技でなかったのであれば、この古城に保存されている貴重な食料は、この女に優先的に使われていたらしい。
つまり彼女は、盗賊たちよりも優遇される立場の人間、ということになる。
ごくりと肉を飲み込んでから、シャルシスは、急に不安になってきた。
なんとなく信頼できそうだと思って着いてきてしまったが、まさか目の前の女は、盗賊たちの上に立つ者──マイゼン家に縁のある者だろうか。
もしそうなら、こんな主塔内で生活していることにも、シャルシスを助けたことにも説明がつかないが、何分彼女は、ただの女奴隷とは思えない厚待遇を受けている。
先程、物見窓から垂らしてくれた肩掛けだって、改めて見ると、上質な毛織物のようだ。
顔はやつれているが、表情や振る舞いからは、少し話しただけでも感じ取れるほど、貴人らしい上品さが滲み出ている。
少なくとも、何か特別な立場にある女なのだろう、ということは、明らかであった。
スープをすくう手を止めて、シャルシスは、ちらりと女の方を見た。
「……その、礼を言うのが遅れて、申し訳ない。さっきは、危ないところを助けてくれてありがとう」
いきなり露骨に正体を探るような言動は取るまいと、ひとまず礼を言って、頭を下げる。
女は、小さく微笑んでから、哀れむような目をシャルシスに向けた。
「いいのよ、気にしないでちょうだい。……貴方のような子供が自ら命を絶つところなんて、見過ごせるわけがないもの」
どうやら女は、シャルシスが主塔から飛び降りようとしていたのだと、勘違いしているらしい。
シャルシスは、慌てて首を振った。
「あ、いや、別に自害しようとしていたわけではない。縄で主塔の頂上まで登って、男たちから隠れようとしていたんだ。……死ぬ覚悟で選んだ逃げ道ではあったが、本当に死ぬわけにはいかなかったから、貴女が手を貸してくれて命拾いした」
女は、シャルシスが床に置いた投げ縄を一瞥してから、安堵したように目元を和らげた。
「……そうだったの。では、私が聞いたコツコツという音は、貴方が壁に縄を投げつけていた音だったのね。……てっきり、あの男たちに追い詰められて、身投げしようとしたのかと……」
それから女は、つっと顔を歪め、深いため息をこぼした。
「……貴方、この塔の地下に囚われている、攫われてきた少年兵でしょう? 全員で何人くらいいるの?」
何を意図した質問なのだろうと訝しみながらも、シャルシスは答えた。
「……この古城にいるのは、俺を含めて二十人。東のスタン平野に送られた子達も含めると、合計で二百人近く。道中で死んだ者も数えれば、攫われた総数は、もっと多いな」
「……そう。そんなにいるの……」
女は、血の気の失せた顔で俯き、再びため息をついた。
その細い肩が、小さく震えている。
シャルシスは、問われたから答えただけであって、責めているつもりはなかったのだが、女は、まるで糾弾された罪人のように萎縮していた。
彼女の反応を見て、シャルシスは、膨れ上がっていた不安が、わずかに軽くなるのを感じた。
女は、今起こっていることの仔細を把握しているようだが、口振りからして、その首魁であるマイゼン家の者ではなさそうだし、その支持者というわけでもなさそうだ。
むしろ、攫われた孤児たちが、少年兵として理不尽な扱いを受けていることに、ひどく心を痛めている様子である。
女がこの主塔にいる理由は分からないが、彼女が盗賊たちの支配を受けない立場で、かつ現状を憂いているならば、この巡り合いは、シャルシスにとって幸運なことであった。
味方になってくれる可能性があるならと、シャルシスは、思い切って尋ねた。
「俺の名は、シャル・チェスコットという。……貴女の名前を、聞いても良いだろうか。高貴な出自と見受けるが、どうしてこんなところに?」
女は、つかの間口ごもってから、ゆっくりと顔を上げた。
「……私の名前は、ゼナマリアよ。……色々と事情があって、一時的に身を置いているの。でも、自分の意思で幽閉されているわけではないし、誓ってあの男たちの一味ではないわ。そこは信じて」
(……ゼナマリア……?)
シャルシスは目を伏せて、遠い記憶を掘り起こそうとした。
助けられた時にも感じたことだが、やはりゼナマリアとは、どこかで会ったことがあるような気がする。
といっても、王都シュベルテを出てからは、貴族との関わりなどなかったし、王宮での記憶を遡っても、すぐには思い出せないから、知り合いだとするならば、会ったのはきっと昔のことだ。
姓を名乗ってくれれば家名が分かるのだが、あえて名乗らなかったということは、ゼナマリア自身も身分を隠しておきたいのだろう。
彼女にも自分は王族であると明かして、無理矢理に聞き出す手はあったが、それをしたところで、大した利はないように思えた。
なぜなら、意に反してこの主塔に閉じ込められている時点で、ゼナマリアは、盗賊たちには意見できる立場でも、マイゼン家には抗えない身分にある、ということだからだ。
首魁を射抜けるほどの一手にならないのであれば、ゼナマリアの安全のためにも、シャルシス自身の秘密を守るためにも、強引な問いただしはせず、可能な範囲の協力を快くしてもらったほうが得策だろう。
黙って考え込むシャルシスに、何かを感じ取ったのか。
それ以上の追及を避けるように、ゼナマリアは話を戻した。
「とにかくシャル、貴方だけでも助けられて良かった。さっきも言った通り、私の許可がない限り、あの男たちはこの部屋には入ってきません。しばらく匿ってあげるから、安心して休みなさい。……できることなら、全員を助け出してあげたいところだけれど……ごめんなさいね。今の私には、これくらいしか出来なくて……」
シャルシスは、曖昧に首を振って、もう一度ゼナマリアに礼を述べた。
これからどうやってナジムたちを助けるか、どのようにして古城から逃げるか。
そして、北都ウェーリンの宣戦布告を、どうにか防ぐ手立てはないものか。
ゼナマリアの素性以外にも、考えねばならぬことは山程あったが、何にせよ、まずは盗賊たちから隠れられる場所を見つけなければならなかったので、彼女の申し出は素直に有り難い。
ゼナマリアに促されるまま、スープを飲み干すと、シャルシスは暖炉の前に座って、火に当たった。
身体を暖まってくると、今頃になって、ナジムと殺し合うように命じられたことや、主塔から落ちそうになって死にかけた事実が、恐ろしく思えてきた。
マイゼン家や『蛇の毒牙』たちに対する殺意も憎悪も、強く残っている。
だが、死に際に追い詰められていた緊張が緩んでくると、心の底に潜んでいた恐怖や不安が、急速に頭をもたげ始めた。
囚われても仕方のない焦燥感に打ちひしがれながら、暖炉の前で震えていると、ゼナマリアが、寝台に敷いていた毛布を肩にかけてくれた。
地下で使っていたものとは違う、肌触りの良い上質な毛布だ。
それにくるまると、途端、猛烈な眠気が襲ってきた。
シャルシスは、必死に目を瞬かせて、重い瞼を持ち上げた。
ナジムたちを置いて逃げてきたのは、あくまでこの窮地を脱するための策を立てるためであり、こんなところで、自分だけが呑気に寝こけるためではない。
ゼナマリアは、しばらく匿ってくれると言ったが、何日も隠れていては、ナジムたちが盗賊たちに何をされるか分からないのだ。
目下、考えるべきことは、盗賊たちに対し、明日どのように打って出るかである。
そう思うのに、自然と身体が傾き、視界が暗くなっていく。
いつの間にか、暖炉の前に横たわって、シャルシスは、眠りの世界へと吸い込まれていった。
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