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投稿日:2025年12月31日





 深い眠りの底で、シャルシスは、幼い頃の夢を見ていた。
誰かが、そっと頭を撫でてくれている。
自分は寝台の上で微睡んでいて、意識が朧げだったが、その手の温もりと優しさだけは、はっきりと感じていた。

 不意に、手が遠ざかったかと思うと、扉を叩く音がした。
寝台の横にいた誰かが立ち上がって、入れ、と厳しい声で応ずる。
──祖母の声だ。
自分は未だ目を閉じたままで、姿は見られなかったが、頭を撫でてくれていたのは、祖母王バジレットのようであった。

 入室してきたらしい女が、恐る恐るといった様子で、口を開いた。

「も、申し訳ございません、陛下。確認しましたところ、本日は、シャルシス殿下が腹痛を訴えていらしたとのことで、魔術のお稽古は取り止めになったそうです」

「…………」

 バジレットが、小さく吐息をついた。
シャルシスの苦手な、呆れを含んだような、祖母のため息だ。

 少しの沈黙の後、バジレットが尋ねた。

「宮廷医師には、診せたのか」

「は、はい! 勿論でございます」

「……なんと?」

「……えっと、発熱等の症状はなく、その、お、お疲れだったのではないかと……」

「…………」

 重苦しい静寂が、その場に漂う。
耐えきれなくなったように、女が付け加えた。

「……あ、あの、恐れながら、殿下はいつも、大変熱心にお稽古事に励んでいらっしゃると、私の夫が申しておりました。ですから、お疲れが出たというのは、嘘ではないと思います。どうか、殿下をお叱りにならないで下さいませ」

「…………」

 バジレットは、再び嘆息した。
それから、寝台横の椅子に腰を戻し、淡々と言った。

「……そなたの夫は、確かラッツェル・ストンフリーだったな。宮廷魔導師、ヴァレイの弟の」

「あ、はい! 夫の名を覚えていて下さるなんて、身に余る光栄でございます」

「……そなた自身の名は、なんという」

 問われて、女は驚いたように言葉を詰まらせた。
一拍置いて、女は嬉しげに答えた。

「私の名は、ゼナマリア・ストンフリーと申します……!」



──ガバッと毛布を跳ね除け、シャルシスは飛び起きた。
一体、どれほど眠ってしまっていたのだろう。
窓のない石室内では、今が朝なのか、夜なのかも分からない。
けれども、室内の様子を見る限り、それなりに長い時間が経っていそうだった。
寝る前は煌々と燃えていた暖炉の炎が、今はすっかり熾火おきびに変わり、仄赤く光っている。

 傍らで、ゼナマリアが驚いたように身を引いた。

「……か、勝手に触ってしまって、ごめんなさいね。泣いているようだったから、悲しい夢でも見ているのかと思って……」

 シャルシスも驚いて、自身の濡れた目元を拭った。
決して悲しい夢を見ていたわけではなかったのだが、思いがけず懐かしい記憶に触れて、涙が出ていたらしい。
額には、まだ人の手の温もりが残っている。
夢の中ではバジレットが、現実ではゼナマリアが、頭を撫でてくれていたようだった。

 記憶より年を取って、少しやつれたゼナマリアの顔を、シャルシスはまじまじと見つめた。

「……ゼナマリア……その名前、思い出したぞ。いや、今は、ストンフリー夫人と呼ぶべきか……」

「えっ……?」

 目を見張ったゼナマリアが、何を言われたのか理解できない、といった顔で、シャルシスを見つめ返してくる。
至近距離で見ても、ゼナマリアは、まだ"シャル"の正体が誰なのか、分かっていない様子だ。
少し寂しかったが、仕方のないことであった。
かつて、王族付きの侍女であったゼナマリアが、名門ストンフリー家に嫁ぎ、後に懐妊して王宮を去ったのは、シャルシスがたったの六歳だった時のことだ。
成長し、『蛇の毒牙』に攫われてからは痩せこけ、髪も伸びっぱなしの、薄汚い格好をした今の十五歳のシャルシスに、昔の面影を見つけることは難しいだろう。

 眉を下げて、シャルシスは、長くなった前髪をかき上げた。

「王宮にいた頃、そなたは、余の仮病に気づいていたであろうお祖母様を、なだめてくれたことがあったな。もう十年近くも前のことだから、覚えていないかもしれないが……」

 ゼナマリアの顔から、さっと血の気が失せる。
よろよろと後ずさると、彼女は唇を震わせた。

「……そ……そんな、まさか……シャ、シャルシス殿下……?」

 深く頷くと、ゼナマリアはその場に崩れ落ちた。

「う、嘘……! な、何故? 何故、殿下がこのようなところにいらっしゃるのです……⁉︎」

「それは、だな……」

 返答に迷って、シャルシスは言葉を詰まらせた。
ゼナマリアは、魔導師の家系に嫁いだ元侍女というだけで、魔導師団に所属している軍部関係者というわけではない。
公に触れが出された、召喚師ルーフェンの死については知っていても、そのルーフェンに着いて王子シャルシスまで失踪していたことは、おそらく聞かされていないだろう。
シャルシスがここに至る経緯を話すならば、ルーフェンが実はまだ生きていることも明かさなければならない。
しかし、独断でそんなことをして良いのか、今のシャルシスには判断できなかった。
ルーフェンはきっと、世間に亡き者と扱われて行方を眩ませることを望んでいるのだろうが、なぜ彼がそこまでして地位を捨てたいのか、その真意を、シャルシスは未だによく知らないからだ。

 悩んだ末に、シャルシスは、ぼかした説明をした。

「……忍んでカルガンの金穀祭に出ていたところ、護衛の者とはぐれて、盗賊たちに捕まってしまったのだ。航路で北部に渡り、この古城に連れて来られたのが、今から二月ほど前のこと。なんとか脱走しようと、他の捕まった子供達とも協力して試行錯誤してきたのだが、そう上手くはいかなくてな。盗賊たちがマイゼン伯に雇われていて、シュベルテとの開戦を目論んでいることは分かっていたから、いっそ余が王族であると明かしたら事態が変わるかもしれないと思い、一か八かで『これ以上罪を重ねるなら大逆罪に問うぞ』と脅してみたのだが、余の顔を知らぬ彼らは、半信半疑といった反応だった。だが、信じられずとも、王族だと明かした以上は、捕虜のような身の上でいるわけにもいかない。もし再び捕まって、自分がシュベルテへの脅迫材料になるようなら、舌を噛み切って死ぬ、という覚悟で地下から逃げ出して……思いがけず、そなたと再会した」

 自分も驚いている、という風に、ゼナマリアを見遣る。
ゼナマリアはつかの間、動揺に打ち震えていたが、突然、何かを思い出したように立ち上がると、食卓に放置していたスープの深皿をとってきて、シャルシスの前に出した。

「も、もしや……木皿に『助けて』と古語で彫っていたのは、殿下ですか? 少し前のことでしたが……」

 はっと目を見開き、シャルシスは頷いた。
脱走計画を練り始めたばかりの頃に、シャルシスは、居住区に収容されているのだという雑用係の奴隷に、自分たちが少年兵として囚われていることを、古語で皿に彫って伝えようとした。
盗賊たちに勘付かれないよう、分かりづらい記し方にしたし、古語が読める奴隷などまずいないだろうから、成功する望みは薄い作戦だと期待していなかったのだが、奇しくもゼナマリアの目に留まっていたらしい。
彼女の生家には詳しくないが、元・王族付きの侍女で、魔導師を多く輩出する名家に嫁ぐくらいだから、それ相応の家の出身のはずだ。
食事の作法などは熟知しているだろうし、当然、古語も学んでいるだろう。

 シャルシスは、出された皿を手に取った。

「この深皿は、こちらに出されていた皿とは違うようだが……。兵や奴隷が触れるような食器が、そなたにも使い回されていたのか?」

 ゼナマリアは、首を横に振った。

「……いいえ。私に同行していた侍女が、密かに教えてくれました。彼女は今、殿下と同じようにあの男たちに捕えられて、この古城で奴隷として下働きをさせられています。私が彼女以外を部屋に入れたくないと言ったので、私の食事の世話などをしてくれているのも、その侍女なのですが……。ある時、空の皿を下げに来た彼女が、言い出したのです。片付けている食器の中に、何やら文字の彫られたものがある、と。私は、その古語を繋ぎ合わせて読んで、初めて、徴兵され労働させられている子供たちが、各地で誘拐されてきた孤児なのだと知りました……」

 話している内に、ゼナマリアの目から、みるみる涙が溢れ出す。
白を通り越し、真っ青な顔色になると、ゼナマリアは突然、額を床につけるように深々と土下座をした。

「申し訳ありません、申し訳ありません……! 殿下、全て、私のせいなのです。私、まさか、こんなことになるなんて思っていなくて……!」

 いきなり謝罪をされて、シャルシスは眉を寄せた。

「私のせい? どういうことだ? というか、そなたこそ何故こんなところにいるのだ。ストンフリー家の屋敷は、シュベルテだろう。卿はどうした?」

 彼女の肩に手を置き、頭を上げさせる。
ゼナマリアは、顔を手で覆って泣き始めたが、ややあって、歯を食いしばると、無理に吐き出したような掠れ声で言った。

「夫は……ラッツェル・ストンフリーは、殺されました。モルティス・リラードの命で騎士団によって捕えられ、火刑に処されて……」

「か、火刑⁉︎ 一体なんの罪で?」

 シャルシスは、思わず裏返った声で叫んだ。
ラッツェル・ストンフリーは、ストンフリー家の当主で、高齢を理由に第一線からは退いていたものの、軍部の中核を担っていた高位の魔導師の一人である。
魔導師団一強だった時代からの古参の魔導師であり、昨今の教会の台頭を快く思わない反教主義者であったから、大司祭モルティスとの間に、少なからず軋轢あつれきはあっただろう。
しかし、どんな理由があったにせよ、教会には、王族の許可もなく政敵を断罪する権利などないはずだ。

 ゼナマリアの瞳に、不安定な光が浮かんだ。

「……いわれのない罪です。召喚師様が王宮を去ってから、モルティスは、表立って魔導師たちを教会側に引き入れるようになり、イシュカル神の名を冠す新興魔導師団の設立を公言するようになりました。勿論、夫ラッツェルは反対の立場を取り、モルティスのことを、私心によって世を乱す狂信者であると批難しました。……そんな折、私たちの暮らすストンフリー家の屋敷に、いきなり修道騎士会の騎士たちが押し入ってきたのです。私は運良く、侍女と地下道を使って逃げ延びることができましたが、夫は捕らえられ、邪教徒として罪人扱いされて……」

「じゃ、邪教徒、って……宮廷魔導師たちは? 反教主義の高位の魔導師は、他にも大勢いるだろう。ストンフリー卿がそのような理由で排されたとなれば、卿の派閥の魔導師たちが黙っていないはずだ」

 ゼナマリアは、小さく首を振った。

「その時は、召喚師様を追って、バーンズ卿を含む多くの宮廷魔導師たちが王都に不在でした。夫に近い世代の魔導師たちは、大半が反教主義ですが、公に教会を批判していた者たちは皆、同じくモルティスの命で捕えられたと思います。
今はどうなっているのか分かりませんが、こうも立て続けに高名の魔導師たちが失脚させられて、現役の者たちは、声を挙げづらい状況に置かれていることでしょう。召喚師様を討って帰城したバーンズ卿が、七年前の政変時と同じように、モルティスの愚行を止めて下さっていれば良いのですが……」

「…………」

 シャルシスは、ぎゅっと拳を握った。
思えば、モルティスは以前も、ミストリアからの獣人を独断で公開し、城下の広場で火刑に処したことがある。
その件に関して、彼はバジレットとルーフェンに咎められ、結果、バジレットが教会側の意見を聞き入れず、獣人たちの処遇をルーフェンに一任する、という形で事態は収められたが、今のシュベルテには、その国王も召喚師もいない。
おまけに、ルーフェンに代わる政敵となっていたはずのジークハルトら宮廷魔導師も長期不在となり、残る教会にとっての反対勢力は、一線を退いた古参魔導師たちのみ。
それらを排したことで、今の王宮は、いよいよモルティスの一人舞台となっているわけだ。


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