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投稿日:2026年01月06日
長い坂を登り切って、やっと追いついてきたゼナマリアに、トワリスは革の水筒を渡した。
何かを答える余裕もなく、ゼナマリアは水筒を受け取り、水を飲み始める。
初春の朝の空気は冷たく、谷道を抜ける風は強かったが、ゼナマリアの頰は不自然なほど赤らみ、呼吸は上がり、額には汗がびっしりと浮かんでいる。
トワリスは、明るい青空を見上げてから、背負っていた荷を下ろした。
「……少し休みましょう。暗くなるまでには、まだ時間があります」
言いながら、ゼナマリアの隣に腰掛ける。
水筒から口を離して、ゼナマリアは、表情を曇らせた。
「どうか、私のことは気になさらないで。……お水を頂きましたから、もう大丈夫です。行きましょう」
トワリスに水筒を返すと、ゼナマリアは、スカートと外套の裾をたくし上げて、次の登り坂へと足をかけた。
だが、思うように足が動かないらしく、よろめいて地面に手をついた。
トワリスが駆け寄って、転びかけた細い身体を支えると、ゼナマリアは渋々といった様子で、近くの岩棚に座った。
「ごめんなさい、私が足手纏いになっていますね……」
脚をさすりながら、ゼナマリアが嘆息する。
その近くに座り直して、トワリスは首を振った。
「いえ、私も疲れましたから。……無理をして倒れでもしたら、結局足を止めることになります。休める時は、ちゃんと休まないと」
「そんな方便を仰らないでください。今は、一刻だって休める時ではないのに……」
「…………」
静かな崖間に、風音が唸り、木々の枝葉をざわざわと揺らす。
疲れ切っているはずなのに、目だけは爛々と光らせているゼナマリアの顔つきを見て、トワリスは黙り込んだ。
共に北領を出た頃から、ゼナマリアは、ずっとこんな調子だ。
時折我に返ったように、穏やかで理知的な以前の彼女に戻るが、基本的には苛立っていて、放っておくと夜通し歩いてでも先に進もうとする。
休んでいる時間もあまり眠れていないようで、疲労から寝入ることはできても、悪夢に魘されてすぐに飛び起きている。
このままでは、急いだところで、ハーフェルンに到着する前に、彼女は倒れてしまうだろう。
俯き、口の中でぶつぶつと何かを呟いているゼナマリアに、トワリスは思わず尋ねた。
「……ゼナマリアさん。本当にハーフェルンに行って、マルカン侯に謁見を申し込むつもりなんですか? 正直、あのマルカン侯が、シュベルテを敵に回すような判断をするとは思えません。仮に助力を得られたとしても、対するイシュカル教会が武力行使に出れば、ハーフェルンでは太刀打ちできません。反教主義の魔導師たちで抵抗軍を組織すれば、あるいは、修道騎士会や新興魔導師団の勢力を抑えられるかもしれませんが、もしシュベルテの軍部内で本格的に内乱が起きれば、王都は戦場になるでしょう。……本当に、それで良いんですか? 敗れれば、発起人の貴女は、ストンフリー卿と同じ……いや、それ以上の罪に問われることになりますよ」
トワリスは、言いづらそうに口ごもりつつも、はっきりと警告した。
だが、ゼナマリアの目には、一片の恐怖も浮かばなかった。
どんな惨い結末も受け入れようとしている、既に痛覚を無くしてしまったような暗い表情で、ゼナマリアが答える。
「ではトワリスさんは、このまま泣き寝入りしろと仰るの? ……今更、死など恐れてはいません。私が北領の情勢を深く考えず、イヨルド・マイゼンにシュベルテの状況を話してしまったせいで、多くのウェーリン兵や、身寄りのない子供達が犠牲になりました。私はその業を背負い、けれども懲りずに、今度はハーフェルンまで巻き込んで、教会の罪を告発しようと目論んでいます。
避けたいことではありますが、王都が戦場になれば、民間にも被害が出ましょう。それを分かった上で引かない私は、結末がどうなろうとも、きっと楽には死ねない。覚悟は、とうにできています。むしろ、自らの死を以て教会の暴挙を世に知らしめ、殺された夫や子供たちの元へ逝けるなら、私は本望です」
トワリスは、痛ましげに顔を歪めた。
「そんなこと……亡くなった卿やお子さんたちは、望んでいないのではないでしょうか。付き添っていた侍女の皆さんも、主人であるゼナマリアさん一人に復讐を押し付けるために、ウェーリンで別れたわけではないと思います。焦って事を進めるよりも、少し休んで落ち着いてから、改めてどうするべきかを模索した方が良いのではありませんか?」
「悠長にしていては、モルティスら司祭の権力が市政にまで及んでしまいます。落ち着いて考えたところで、私のやるべきことは変わりません」
「……そうやって、焦るお気持ちは分かりますが──」
「──分かる? トワリスさんに、私の何が分かると言うのです? この国に親類の一人もいない貴女に、夫と子を殺された私の絶望と屈辱が、分かるはずありません」
「…………」
ゼナマリアは、怒気のこもった声で、トワリスの言葉を遮った。
トワリスは、何も言い返せず、口を閉じた。
自暴自棄になっているようにも見えるゼナマリアの身を案じていることも、その気持ちが分かるという言葉も、決して嘘ではない。
だが、今の発言が、本当にゼナマリアの気持ちを理解して、寄り添ったものだったのかは、確かに分からなかった。
もしかしたら自分は、ゼナマリアに生き残る道を選択させることで、ルーフェンに最期まで同行することを選べなかった己を、正当化したいだけなのかもしれない。
黙り込んでしまったトワリスを見て、我に返ったのだろう。
はっと唇を震わせて、ゼナマリアは、口元を手で覆った。
「……も、申し訳ありません……。私の方こそ、トワリスさんの苦労を知りもしないで……。何の返礼もできない私を助け、護衛までして下さっている恩人に、大変失礼なことを申しました……」
「……気にしないで下さい。私も、無神経なことを言いました」
縮こまっているゼナマリアに、トワリスは、努めて穏やかな口調で返した。
このサーフェリアにおいて、半獣人が孤独な身上であることは事実だし、別にトワリスは、言い争ってゼナマリアを追い詰めたいわけではない。
それにゼナマリアは、トワリスに恩を返せないことを申し訳なく思っているようであったが、今のトワリスにとっては、礼など護衛に集中させてくれることだけで十分であった。
こうして何かに没頭していなければ、トワリスの思考は、ルーフェンを一人で行かせたくはなかったという悲しみと後悔に食い潰されて、まともな精神状態を保ってはいられなかっただろう。
トワリスの静かな横顔を見て、何を感じたのか。
腕をさすりながら、ゼナマリアが再び口を開いた。
「……私は、冷静ではないのでしょうね。トワリスさんや、司祭らに騙されている一般民のイシュカル教徒たちからすれば、私の方が、復讐心に取り憑かれて騒擾を起こそうとしている、愚かな狂信者のように見えるのでしょう」
否定しようとしたトワリスを制し、ゼナマリアは続けた。
「しかし、私の中にも、大義はございます。……ストンフリー家は、古くからカーライル王家に仕え、武勇と忠義、礼節を重んじてきた魔導師一族です。人心を惑わし、従来の召喚師制を否定し、姑息なやり口で台頭してきたイシュカル教会とは、長らく対立してきました。七年前のセントランスの襲撃により、前当主ヴァレイ様が殉職され、その跡を継いだ私の夫ラッツェルも殺された今、当家は力を失いました。ですが、一族に嫁いだ私にも、当主の意思を継ぐことはできます。復讐心を抜きにしても、私は、亡きラッツェルの妻として、教会の放逸な振る舞いを、これ以上許すわけにはいかないのです。……召喚師制が廃されたとはいえ、元召喚師派の宮廷魔導師として、この思いには、トワリスさんも賛同して下さるでしょう?」
「…………」
反応に困って、トワリスは返答を詰まらせた。
ストンフリー家当主の妻といっても、ゼナマリアは軍部所属の魔導師ではないので、トワリスが召喚師を追って王都を出たことなどは、知らないはずだ。
ルーフェンの存在を悟られてはいけないので、トワリスも、魔導師団を退団したという、最低限の説明しかしていなかった。
故にゼナマリアは、トワリスの退団理由を、教会の弾圧から逃れるためだったと考えているのだろう。
実際、彼女によれば、今のシュベルテで反教主義を宣言する魔導師は、ストンフリー家同様に、有無を言わせず背信の罪に問われる状況なのだという。
おそらくゼナマリアは、トワリスにも反教派になって、教会への復讐に加担してほしいのだろう。
しかし、彼女のすがるような眼差しを受けて、トワリスは不意に、心がすうっと冷めていくのを感じた。
ゼナマリアを救ってあげたい気持ちや、近々王都に戻るであろうシャルシスを心配に思う気持ちはある。
けれども、シュベルテ内の不毛な権力争いのことは、正直、もうどうでもよかった。
ゼナマリアは、トワリスを"元召喚師派の宮廷魔導師"だと言ったが、トワリスは、自身が召喚師制を支持する召喚師派であると宣言したことなど、一度もなかった。
かといって、召喚師制の廃止を訴えてきたわけでもないのだが、ルーフェンやファフリの苦悩を目の当たりにしてきた身としては、どちらかというと、反召喚師派に近いだろう。
だが、言わずもがな、教会のやり方には賛同できない。
強いて言うならば、反教派を謳いながらも中立的に魔導師団の地位を守ってきた、宮廷魔導師の立場が自分には合っていたように感じるが、今になって、ジークハルトの元に戻ろうとも思えない。
彼の立ち位置や責任の重さ、主張も理解はできるが、それでも、旧王都アーベリトで起こった出来事を知りながら、ルーフェンを討つ方向に舵を切った宮廷魔導師団には、二度と属したくはなかった。
自分はただ、ルーフェンのそばで、彼を支えられる存在になりたかっただけだ。
敵か否かも分からない多くの人間に囲まれて、一人でいる時にしか息をつけなかったルーフェンに、自分は絶対に味方だから信じてほしいと言って、安心させられる魔導師になりたかった。
幼かったトワリスやリオット族の居場所を作ったのも、行き場をなくしたファフリたちを逃す手助けをしてくれたのも、サーフェリアという国ではなく、ルーフェン個人だ。
だから、彼の関わらない国内での内乱のことなど、知ったことではない。
あの夜ルーフェンは、「君は全てを見捨てて逃げようとは思えていない」だなんて言っていたが、そんなことは、ない。
──本当に、絶対、そんなことはないのだ。
教会も、魔導師団も、サーフェリアに安寧をもたらすという共通の目的を持ちながら、権力闘争に目が眩み、互いを敵だと罵り合い続けている。
そんな不毛な内乱、今更トワリスが何かしたところで、治まることはないだろう。
もし手を出すとするならば、どの派閥に加担するわけでもなく、「内輪揉めなどしている場合ではない」と、王宮に怒鳴り込んでやりたかった。
そして、トワリスが知っている召喚師一族に関することを、アルファノルの召喚師の存在についても、全部洗いざらいぶちまけてしまいたい。
その後、召喚術の真実を知ったサーフェリアの人々がどうなるかなんてどうでも良いから、ルーフェンに対する誤解を解いて、「敵を見誤るな」と言ってやりたかった。
無論、それは絶対にやってはならないことで、全てを話してくれた彼の信頼を裏切ることだと、頭では分かっている。
分かっているからこそ、身動きできないことが悔しくて、鉄鎖に繋がれていた幼少の頃のような息苦しさが、ぎりぎりと身を縛っていた。
ルーフェンを想い、その意思を守りたいのであればこそ、トワリスはもう、何もするべきではないのだ。
「──私、は……」
長い沈黙の末、ゼナマリアに返事をしようとした時。
ふと、崖に聳り立つ木々がざわめいたのを感じて、トワリスは、反射的に双剣の柄を握った。
何事かと身構えたゼナマリアが、目だけで周囲を見回す。
辺りの気配を探りながら、トワリスは、小声で囁いた。
「……ゼナマリアさん、休憩は終わりです。歩けますか?」
「……どうしたのですか?」
下ろしていた荷を手早く背負い直し、トワリスは立ち上がった。
「囲まれています。大した人数ではなさそうですが……」
「え……⁉︎」
戸惑っているゼナマリアの手を引いて、トワリスは足早に谷道を歩き出した。
街道に検問が敷かれ、道行く商人たちを待ち伏せできなくなった賊どもが考えることは、トワリスたちと同じである。
人が寄り付かず、潜伏できる岩穴や窪みが多いこの谷道に、追いやられた無法者が潜んでいる可能性は想定していた。
襲撃してくるならば、もちろん返り討ちにするつもりでもある。
だが、ゼナマリアを連れている以上、遭遇しないに越したことはない。
トワリスは、隠れられる茂みや窪地のない、見晴らしの良い岩場まで出ようと、足を速めた。
しかし、視界が開けてきたところで、突然身を翻し、ゼナマリアに覆い被さって伏せた。
頭上に茂っている崖藪の間から、矢が飛んできたからだ。
「──きゃぁあっ⁉︎」
思わず悲鳴を上げたゼナマリアの足元に、ヒュッと矢が刺さる。
トワリスは、すぐさま身を起こして、懐から抜いた小刀を、崖藪めがけて投げつけた。
ウッと呻き声が上がり、藪から落ちた射手が、血まみれの顔面を抑えながら岩壁を転がっていく。
後方の岩穴の方から、高い指笛の音が響いた。
それを合図に、両側の崖上のあちこちから、複数の矢が放たれた。
蹲るゼナマリアの前に立ち、双剣を抜刀したトワリスが、素早く刃を振って矢を弾く。
全ての矢を落とすと、一瞬、不気味な静寂が訪れた。
賊たちは、こちらが戦えると分かって、出方を窺っているのだろう。
隙を見てゼナマリアを立たせたトワリスは、再び彼女の手を引いて走り出した。
──が、間もなく、前方の岩屋から、顔に蛇の刺青を彫った男たちが三人出てきて、二人の前に立ちはだかった。
随分と長く、この谷道に隠れ棲んでいる盗賊たちなのだろう。
身につけている毛皮や装飾品はどれも汚れ切っていて、体格の割にこけた顔は、ボサボサに伸びた髪と髭に埋もれている。
立ち止まったトワリスたちを見下ろして、男の一人が言った。
「おい女ども。死にたくなきゃ、剣を捨てて膝をつきな」
「…………」
トワリスは応じず、わずかに視線を上げた。
崖上には、まだ数人の射手の気配が潜んでいる。
目の前で剣を抜き放った男たちよりも、射手の存在が厄介であった。
トワリス一人なら、矢の届かない位置を経由した立ち回りができるのだが、今はゼナマリアを守らなければならないので、彼女の傍から離れられない。
この場から動かず、男三人を相手にしていては、矢の恰好の的になってしまうだろう。
万が一にも近くに魔導師がいて、魔力を感知されては困るのだが、仕方ない。
魔術を使うか、とトワリスが双剣を構えた──次の瞬間。
突然、背後から、ビュンッと大気の裂ける音が迫ってきた。
その正体が、飛来した魔槍が風を切る音だと気づいた時には、目前の男が腕から血を噴き出し、剣を放り出して絶叫していた。
魔槍は独りでに跳ね上がり、日の光を弾いて、青白く煌めいた。
そして、宙を旋回し、すくんだ他二人の男たちも深く斬り付けると、やがて、自我を失ったかのように、地面に突き刺さった。
ほとんど同時に、パンッと空気の爆ぜるような音が、連続で響き渡った。
崖上にいた射手たちが、ぼたりぼたりと、射落とされた鳥の如く落下してくる。
ゼナマリアは、倒れ伏した盗賊たちを愕然と見つめていたが、トワリスの意識は、もはや彼らには向いていなかった。
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