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投稿日:2026年01月06日
カラカラと回る車輪の音が、振動として背に伝わってくる。
揺り起こされたトワリスは、つかの間、なぜ自分が藁の上に寝転がっているのか分からず、眼前を流れていく澄んだ青空を、ぼうっと眺めていた。
時折、道端の小石を踏むと、木製の荷台が、ガタンッと大きく揺れる。
身体の芯に残る鈍痛に耐えながら、ゆっくりと頭を巡らせると、御者台で二頭の農耕馬を操っている、見知らぬ老爺と目が合った。
「おや、あんた、目が覚めたかい」
のんびりとした声で言って、老爺は再び前を向く。
トワリスは驚いて、藁を跳ねのけ飛び起きた。
咄嗟に双剣の柄を握り、頭巾を被り直そうとするが、身につけていたはずの外套がない。
代わりに、トワリスの頭は、目出し帽のように布で覆われており、耳は隠れていた。
巻かれていたのは、ゼナマリアが羽織っていた、分厚い肩掛けであった。
「あ……あの、どちら様ですか?」
ジークハルトとギールの顔を思い浮かべながら、谷道での記憶を辿り、トワリスは問いかけた。
すると老爺は、面倒臭そうに眉を寄せて、藁の絡まった口髭をもごもごと動かした。
「どちら様って、そらぁ、この先のラント村のもんだけど。……そんなことより、あんた、身体は大丈夫なのかい。テウレア渓谷で、野盗に襲われたんだろ?」
「野盗……?」
瞠目して聞き返すと、老爺は小首を傾げた。
「あれぇ、覚えとらんのか。あんたを預けてきた旅商の三人組は、そう言っておったがねぇ。……まあ、とにかく、金をもらっちまったから、ラント村までは乗せていってあげるさ。けど、村に医者はおらんから、どこか悪いんなら、自力でカルガンまで行きなあね。
大体、なんであんなとこ、一人でおったかね? あの旅商さんが見つけてくんなきゃ、あんた今頃死んどるか、どこぞに売り飛ばされてたろうよ。テウレア渓谷は、野党の巣窟さ。魔導師さんや兵士さんも連れんと、のこのこ近づくもんじゃないよう」
老爺の小言を聞きながら、トワリスは、荷台の上から周辺を見回した。
辺り一面、麦穂の揺れる田園風景が、遠くまで広がっている。
ラント村は、産業都市カルガンの周辺に点在する、小さな農村の一つだ。
ジークハルトたちは、あの谷道を抜けた後、通りがかったこの農夫に気絶したトワリスを預けて、どこでも良いから運んでやってくれ、とでも頼んだのだろう。
トワリスは、藁の山を掻き分けて、ガッと勢いよく御者台の縁を掴んだ。
「あの! その三人組の旅商とやらに会ったのは、いつの話ですか?」
「でぇっ……⁉︎」
トワリスが、いきなり前に乗り出してきたので、驚いたのだろう。
ブルブルと鼻を鳴らして止まった馬たちを、どうどうと宥めながら、老爺は迷惑そうに身を引いた。
「いつって、ええっと……農場への行きがかりだったから、二刻くらい前かね」
(二刻前……)
次いでトワリスは、眩しさに目を細め、天高くに鎮座する陽の位置を確認した。
過酷な谷道を抜けたとはいえ、ゼナマリアが同行しているなら、ジークハルトたちも、まだそんなに遠くへは行っていないはずだ。
今から馬を駆れば、追いつけるかもしれない。
トワリスは、ガサゴソと懐を漁って、剣帯についていた装飾用の金具を取り外すと、それを老爺に握らせた。
そして、唖然と装飾具を見つめている老爺の手から手綱を奪い、鞍もつけていない農耕馬の片方に飛び乗ると、馬具と荷車を繋ぐ綱を剣で断ち切った。
「──えっ、ちょっと! あんた、何してるんだい⁉︎」
慌てた老爺が、腰を浮かせて叫ぶ。
トワリスは、暴れる馬をなんとか制御しながら、老爺の方を一瞥した。
「本当にごめんなさい! この馬、一頭売ってください……!」
「はぁっ⁉︎ あっ、こら待ちな! 困るよぉ……‼︎」
引き止めようと御者台から降りてきた老爺に構わず、トワリスは、馬の腹を蹴った。
嘶いた馬が、田園の中を通る田舎道を走り出す。
その背が揺れる度、振動が全身に響いて、頭や肩がズキズキと痛んだ。
少しでも気を緩めると、落馬してしまいそうなほどの痛みだったが、トワリスは、しっかりと手綱を握り込み、前を見据えた。
全速力で馬を走らせながら、トワリスは必死に、ジークハルトがどこへ向かったのかを考えた。
ゼナマリアがどうなったのかも気になったが、おそらく彼女は、ギールに付いて、シュベルテの王宮を目指したのだろう。
ギールがゼナマリアに危害を加えるとも思えないし、あの二人を追ったところで、今のトワリスの身分では、王都内を自由に動けない。
まずは、移動陣を探しに行ったのであろうジークハルトを止める方が、先決であるように思えた。
田園地帯を抜けると、トワリスは、カルガン近くの迂回路へと続く、南西の方角に馬を向けた。
以前、シャルシスたちと金穀祭に行く道程で、同じ迂回路を使った時に、ルーフェンが、野営中に度々姿を消していたことを思い出したからだ。
偵察と称して夜間に出歩いていたルーフェンが、あの山中に移動陣を敷いていた、という裏付けがあるわけではない。
だが、日中は基本的に一緒だったことを考えると、他に彼が移動陣を展開できる時間はなかっただろう。
ジークハルトが設置場所を知っているのは、南方ノーラデュースの地下にある移動陣のみだ。
しかし、この西方の農村部からノーラデュースに辿り着くには、どれだけ急いでも、一月以上はかかる。
谷道では、移動陣を破壊する、というようなことを言っていたジークハルトだが、果たしてこの急場に、往復二月もかけて、複数ある移動陣の内の一つしかないノーラデュースに向かうだろうか。
トワリスには、ジークハルトが、そんな悠長な動き方をするようには思えなかった。
それよりは、明確な場所は分からずとも、まずは近場から──この西部一帯から探っていくべきだと考えるだろう。
ジークハルトはトワリスと違い、移動陣に関する手がかりを一切持っていないはずだが、それでも、南方の設置場所を見つけたのだ。
ルーフェンが通ったと予想される道のりで、人目がなく、巨大な樹根が突き出しても気づかれない場所、と限定していけば、いずれは探し当ててしまうのかもしれない。
昼も夜も関係なく、意識が続く限り、トワリスは、ひたすらに進み続けた。
やがて、疲弊し切った馬が言うことを聞かなくなると、馬は乗り捨て、今度は自分の脚で走り始めた。
目的地である山道の入り口に到着した頃には、もはや時間の感覚もなく、自分が農夫の老爺と別れて、一体何日が経ったのかすら、よく分からなくなっていた。
シャルシスたちと共に巡った旅路の記憶を、懸命に思い返しながら、トワリスは、山中を彷徨い歩いた。
今、盗賊や気の立った獣に出会したら、自分はあっさり殺されるだろう。
そう思うほどに心身は弱り、限界を訴えていたが、トワリスは、足を止めなかった。
自分がジークハルトたちと遭遇してしまったせいで、ルーフェンの計画が覆ったらと思うと、不安で、とても休む気にはなれなかったのだ。
伸び切った下草を掻き分け、見覚えのある開けた空間に出ると、トワリスは、屈んで地面を見回した。
もう焚き火の跡は残っていないが、ここは確かに、ルーフェンとシャルシスと、三人で野宿をした場所だ。
木立の間から、「……起こした?」と申し訳なさそうに微笑んで現れた、ルーフェンの姿を思い浮かべながら、トワリスは、更に森の奥へと入っていった。
荒く息を吐き、重い四肢を持ち上げて、藪を乗り越えようとした時。
蔦が爪先に引っかかって、トワリスは、勢いよく斜面を転がり落ちた。
四方から飛び出している枝葉や木根が、細かい刃となって、全身をかすっていく。
身を丸め、受け身の姿勢をとりながら、トワリスは、手を伸ばして掴めるものを探した。
そして、斜面の底で待ち構えていた巨石に激突する寸前に、指先に触れた太い木の根を掴んで、なんとか事なきを得た。
切れた頰の血を拭い、捉えた根にしがみついて、なんとか斜面上に身を起こす。
眩暈がして、すぐには動けなかったが、きつく目を閉じて深呼吸を繰り返していると、やがて、回っていた視界が定まってきた。
しっかりと掴み直した根を伝い、ゆっくり斜面を降りて行こうとしたトワリスは、しかし、次の瞬間、驚いて手を離してしまった。
しがみついていた根が、ほんのりと紫白色に光っていたからだ。
(──葬樹……⁉︎)
ぐらりと身体が傾き、トワリスは結局、斜面の底まで滑り落ちた。
巨石に背を打ちつけ、嫌な咳が出る。
だが、のろのろと起き上がると、トワリスは、痛めた片足を引きずるようにして、葬樹の根の発生源へと歩いていった。
周辺の木々に絡みつくように伸びていた葬樹の根は、広範囲に広がっていたが、斜面の岩場に施された発生源──移動陣は、露出した状態で、簡単に見つかった。
ノーラデュースとは違い、ここは狭い地下ではないので、樹根が移動陣の全面を覆いはしなかったのだろう。
幸いというべきか、当てが外れたと考えるべきか、移動陣が傷つけられた様子はなく、周囲に人の気配もなかった。
どうやらジークハルトは、まだこの場所を見つけられていないか、他領へと渡ったらしい。
とりあえず、この移動陣は無事であると悟ると、トワリスは、はぁっと深いため息をついて、草地にへたり込んだ。
張り詰めていた緊張の糸が切れた途端、急に脚の力が抜け、絶えず感じていた身体の鈍痛が、鮮烈な激痛に変わった。
血まみれの全身を見やって、特に目立つ切り傷だけ止血すると、トワリスは、その場に座り込み、近くの巨石に寄りかかってじっとしていた。
身体中、どこもかしこも痛かったが、右肩の古傷が、特に痛んだ。
知らぬ間に新しく怪我を負っていたのか、あるいは、疲労でエイリーンに負わされた古傷が疼いているのか。
まるで、焼鏝を押し付けられているような、熱くて身悶えするような痛みが、絶えず続いている。
しばらく休んでいると、耳鳴りや眩暈が消え、頭痛も軽くなってきた。
だが、もう一度立ち上がって、すぐ別の移動陣の元に行こう、という気にはなれなかった。
ジークハルトが移動陣を破壊したらどうしよう、という焦燥感はあったが、それを打ち消すほどの絶望感と虚しさが、重い枷のように四肢を縛り付けていたのだ。
(……私、何のために、こんなに必死になってるんだろう……)
不意に、よぎった考えが、ぎゅっと胸を締め付ける。
ルーフェンの力になるため、その思いを守るために、一心不乱に走ってきた。
それが、彼を殺す選択でもあると分かっていて、どうして自分は、こんなに必死になっているのだろう。
ゼナマリアとの旅道中に、毎晩 魘されるほど悩んでいたことが、再び脳内に渦巻き出した。
ルーフェンの意志を尊重することが、召喚師一族の真実の秘匿に繋がり、また、エイリーンという脅威を遠ざけることにも繋がる。
無論、降りかかる災厄から人々を救い、サーフェリアの安寧を保ち続けることは、元魔導師としては、何より優先すべきことだと思う。
だが、トワリス個人にとっては、ルーフェンの犠牲の上に成り立つ平穏など、意味がないのに──。
いつの間にか、静かな森中は、夕闇に沈み始めていた。
淡く輝く葬樹の樹根の周りを、蛍のような光が、ふわふわと舞っている。
顔を上げると、トワリスは、樹根の大元にわずかに覗く、移動陣の一端を見た。
ジークハルトには何も言わなかったが、本当は、トワリスは、人数を動員して移動陣の破壊などせずとも、ルーフェンの策を覆せる方法を知っていた。
術式の逆展開は、魔語の反転によって起こるものだ。
トワリスは魔語が読めないが、かつて、ルーフェンに嵌められたサイが、腕に刻んだ魔語の配列を覚えているので、なんとなく、どこに刻まれた魔語がどんな役割を持つのかは、推測できる。
術の効果を表す術式の根幹部分は、陣の中心部にある。
すなわち、既にルーフェンによって反転されているであろう中心部さえ書き換えれば、おそらくだが、移動陣の跳ね返しは起こらなくなる──。
吸い寄せられるように、トワリスは手を伸ばして、移動陣の端に触れた。
術式の根幹部分は、樹根に覆われていて見えない。
しかし、破壊するわけではなく、書き換えるべき魔語を確認するだけなら、一瞬、根を切り払うだけでも可能なのではないか。
もし、それができたなら、術式の逆展開を阻止して、ルーフェンに術が跳ね返ることを防げるのではないか。
トワリスは、震える指先を、移動陣から双剣の柄へと移した。
──分かっている。
そんなことをしたって、既に致命傷を負っているルーフェンが、確実に助かる保証はない。
それどころか、跳ね返しが起こらなければ、エイリーンは万全の状態で、このサーフェリアを襲撃することになる。
あんな人智の及ばない存在に、何の策も講じず抗えば、それこそルーフェンの命が危険だ。
仮にルーフェンが倒れれば、エイリーンに対抗できる者は、他にはいないだろう。
そうなれば、サーフェリアの人々は、エイリーンの魔手にかかることになる。
それでも──例えば、ジークハルトたちの防護結界が各領を守り通し、ルーフェンが跳ね返しを受けず、生きて真っ向からエイリーンを打ち倒す──そのような奇跡が、起こるのならば……。
いや、自分は、そんな一縷の可能性に賭けて移動陣を書き換え、サーフェリアを危険に晒そうというのだろうか。
トワリスは、目前に立っている、己の愚かさを見つめた。
ジークハルトたちを、あんな風に引き留めようとしたくせに、自分は今、彼ら以上に感情的で、無謀なことをしようとしている。
ふと脳裏に、「絶対に帰ってきてね」と言っていた、リリアナとカイルの顔が思い浮かんだ。
それから、ハインツやアレクシア、ジークハルトやギール、シャルシス、今までサーフェリアで出会ってきたあらゆる人々の顔が、次々に心に浮かんだ。
最後に、「嘘」だと言って微笑む、ルーフェンの声が聞こえた気がした。
「全てを見捨てて逃げようとだなんて、心の底では思えていないのに」という、心を見透かしたような、あの時の声が──。
「…………」
双剣から手を離すと、トワリスは、再びその場にうずくまった。
そして、ズキズキと熱を持つ右肩の古傷を、ぎゅっと左手で掴んだ。
(……痛い……)
この激しい痛みは、なんなのだろう。
現状に対する嘆きなのか、絶望なのか。
あるいは、苦しみなのか、悲しみなのか、憎しみなのか。
濁流の如く胸の底から溢れ出してくる、この激しい感情たちの本質がどれなのか、トワリスには、もう判別がつかない。
ぎりぎりと歯を食いしばり、今度こそ抜刀すると、トワリスは、込み上がってきた衝動のまま、葬樹の樹根を斬りつけた。
もはや、移動陣を書き換えようというつもりはなかったが、それでもトワリスは、無茶苦茶に剣を振るって、葬樹の根を刺し、抉り、ひたすら斬り続けた。
これは、怒りだ。
そもそもエイリーンがサーフェリアを狙わなければ、こんなことにはならなかったのにという、目が眩むほどの、激しい怒り。
ぼたっ、ぼたっと、斬り払われた葬樹の木片が落ちると、辺りを漂っていた小さな光が、驚いたように舞い上がった。
光は散り散りになり、トワリスの刃から逃れるように、樹根の隙間へと入り込んでいく。
森の中は暗かったが、葬樹の周りだけは、光が集まって、真昼のように明るかった。
幻想的で美しくも、不気味で悍ましくも見える、奇妙な光景であった。
その静謐な空気に晒されている内に、身を蝕んでいた怒りが収まっていき、やがて、どうしようもない虚しさだけが、心の底に残った。
やるせなくて、悔しくて、無意識の内に、血が滲むほど強く唇を噛みしめていた。
まだ痛む肩を上下させながら、トワリスは剣を下ろした。
緩慢な動きで刃を納めると、上に逃げていた光が、ゆっくりと降りてきた。
蛍か何かだと思っていたそれは、近くでよく見てみると、目玉模様の入った二対の翅を持っていた。
(……蝶……?)
見たことも聞いたこともない、翅が透き通った、美しい蝶であった。
前にこの山中に来た時は、こんな蝶はいなかった。
思わず手の中に閉じ込めたくなるような、柔らかで温かな光を放っている。
きっと、創世の御伽噺に出てくる【導き蝶】が実在したら、こんな神秘的な見た目をしているのだろう。
蝶たちは、ゆらめくように踊りながら、空中と、散らばった葬樹の木片との間を、行ったり来たりしていた。
その時になって、トワリスは、あることに気がついた。
斬り捨てた葬樹の樹根が、未だに再生していないのだ。
確かジークハルトたちは、斬り刻んでも、焼き払っても、葬樹の根はすぐ元通りに再生した、と言っていた。
しかし、この場に根差している葬樹は、一切再生してない。
トワリスが斬り払った根の欠片は、地面に散らばったままだし、刺したり抉ったりした傷口もそのままだ。
さあっと夜風が吹き抜け、葉擦れの音が響く。
妙な胸騒ぎに誘われて、トワリスは再度、樹根の大元──移動陣を見上げた。
この移動陣は、エイリーンにとって攻撃の拡散手段であり、サーフェリアに渡るための足がかりだ。
ということは、この移動陣は、アルファノルにいるらしいエイリーンの実体とも繋がっているのだろうか。
(……理由は分からないけど、私が斬ったら、葬樹は再生しない……?)
トワリスは、移動陣のほうに向き直った。
発動させる方法も、ミストリアに渡った時に教わったので、知っている。
意を決して、トワリスは、移動陣に手を伸ばした。
すると、触れた瞬間、水面に飲み込まれるように、指先が陣の中に沈んだ。
「──……!」
移動陣が輝きを放って、また蝶が舞い上がった。
今になって、「君は絶対に葬樹に触らないで」と言っていた、ルーフェンの言葉を思い出したが、トワリスは引かなかった。
指先から腕、踏み出した足、そして体全体を、陣の光が包んでいく。
あまりの眩しさに、目を瞑りながらも、トワリスは光を掻き分け、前へ前へ進んでいった。
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