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投稿日:2026年01月06日







   ⁂   ⁂   ⁂


 誰かに呼ばれた気がして、トワリスは、はっと目を開いた。
けれども、光によって白んでいた視界は、まだぼんやりと濁ったままだ。
目前に見えるのは、紗幕しゃまくを通したようなもやがかった景色だけで、自分がどこにいるのかは分からない。

 息を吸うと、湿った土の匂いがした。
辺りは静かだったが、耳を澄ませると、時折さざ波が立つような、微かな水音が聞こえる。
いつの間に倒れ込んでいたのか、トワリスは、濡れた草の上に仰向けに寝転んでいるようであった。

 不意に、草を踏む音が近づいてきて、誰かが、寝ているトワリスの顔を、上から覗き込んだ。

「……起きて。そろそろ行かないと、暗くなってしまう」

 さらさらと、長い黒髪が、天蓋のように幕を下ろす。
至近距離で見下ろしてきた、その中性的な目鼻立ちが分かって、トワリスは、心臓が止まりそうになった。
声をかけてきたのは、灰色の肌と橙黄の瞳をした、黒髪の闇精霊だったからだ。

(──エイリーン……⁉︎)

 トワリスは起き上がって、すかさず抜刀しようとした。
──が、上体を起こすことも、手足を動かすこともできない。
それどころか、声を上げることすらできなかった。
もしかして、移動陣を使った時に、自分が保持している以上の魔力を消費したので、肉体に異常が出たのだろうか。
移動陣は本来、並の魔導師であれば、数十人分の魔力を合わせて、やっと発動できるものだ。
魔力量の少ない自分一人で無理矢理に行使すれば、発動に失敗して別の場所に飛ばされるとか、成功しても命を削ることになるとか、何かしらの問題は起こるだろう、という懸念はあった。
しかし、その問題が、エイリーンを前にした今、こんな形で現れるなんて──。

 なんとか動こうと悶えていると、ややあって、身体が起き上がった。
しかしそれは、トワリスの意思には反した、緩慢でのんびりとした動きであった。

 勝手に起きた身体が、勝手に歩き、目前に広がっていた湖の前に屈み込む。
どうやらここは、霧深い湖畔こはんのようだった。
鏡のように滑らかな湖面には、ほとりに並び立つ木々の朧な影が、ゆらゆらと映っている。

 トワリスの手は、湖の水をすくいとり、それを口元へと持っていった。
冷たい甘露のような水が、喉から全身に染み渡っていく。
だんだん、この身体は自分のものではない、と分かってきて、トワリスは愕然とした。
透き通った湖面に映りこむ、自分の姿もまた、記憶にあるエイリーンと同じ、闇精霊の形をしていたのだ。

 水を飲み終わり、ゆらりと立ち上がった身体が、もう一人の闇精霊に向き直った。

「……行きたくない、まだ眠い。……お前は元気だな、セルーシャ」

 気だるげな、とろんとした声が、ひとりでに口からこぼれ出る。
トワリスには、この場にいる二人が、全く同じ容姿、同じ声をした同一の闇精霊に見えたが、相手の方は、セルーシャという名前のようであった。

 セルーシャが、口元で小さく弧を描く。

「エイリーン、君、昨日の朝もそう言っていたよ。まだ慣れないのかい、この身体」

「……慣れない。脚が痛くて、すぐに疲れる。起きて出歩くのは、好きではない」

 ゆったりとした衣の裾を持ち上げ、白木を削って作ったような、ざらついた脚を見下ろす。
セルーシャは、棒立ちしたまま動こうとしないエイリーンの手を取って、湖を囲む森の方を指差した。

葬樹</rb><rp>(</rp><rt>そうじゅ</rt><rp>)</rp></ruby>そうじゅの森に帰れたら、また好きなだけ眠れるよ。でも今は、その暮らしを取り戻すために、古代樹の元へ行かないと」

 セルーシャに手を引かれるまま、エイリーンは、渋々といった様子で、森の中へ入っていった。
トワリスもまた、困惑するほかに成す術なく、エイリーンの視界を介して、ただセルーシャの後ろ姿を見ていることしかできなかった。

 ここはアルファノルなのか、それとも、どこか別の場所なのか。
そもそもこの光景は現実なのか、あるいは幻影なのか。
一切何も分からなかったが、どうやらトワリスの意識は、移動陣を通じて、エイリーンの中に宿ってしまったようであった。



 濃霧が立ちこめる、静かで薄暗い森の中を、エイリーンとセルーシャは、ぎこちない足運びでのろのろと進んでいった。
二人とも裸足だったが、苔むした地面はふかふかと柔らかかったので、足裏が傷つくことはなかった。

 辺りには、太く高い巨木たちが、幽寂ゆうじゃくに佇んでいた。
幹を内側に曲げ、まるで屈み込む人のように首を傾げて、こちらをじっと俯瞰ふかんしている。
枝が揺れると、隙間から淡い日の光が差し込んで、青白い葉の表面を照らし出した。
時折響いてくる風音と木々のざわめきが、何かの囁き声に聞こえるのは、この森の特徴なのか、それともエイリーンの耳だからそう感じるのか、トワリスには分からなかった。

 二人は、随分と長い間、勾配のない緩やかな道のりを歩いていた。
この暗い森は、一体どこまで続くのだろうかと、トワリスが時間を測ることを諦め始めた頃。
ようやく視界が晴れてきて、不意に、頭上から差す木漏れ日が、パァッと明るくなった。

 濃霧の先には、また別の森が広がっていた。
再び移動陣を使って別の場所に移ったのではないかと思うほど、辺りが晴れ渡って、景色がガラリと変わる。

 燦々さんさんと降り注ぐ陽光が、真っ直ぐに伸びた木々の新緑の葉を、キラキラと輝かせている。
空気は暖かで、息を吸い込むと、甘やかな花々の香りが鼻腔をくすぐった。
エイリーンが周囲を見回すことをしなかったので、トワリスは、この美しい光景をじっくりと観察することはできなかったが、目につく彩り豊かな植物や、飛び交う虫たちは、どれもサーフェリアでは見たことがないものばかりであった。

 明るい森道を更に進んでいくと、抜きん出て巨大な古木がそびえる、静寂な広場に出た。
木幹は、視界に収められないほど太く、枝葉は雲を突き抜け、天高くまで広がっている。
力強く地中に根差した樹根は、長く伸ばした足指で、大地を支えているかのようだ。
葉や樹皮の色は、今まで歩いてきた森道の木々と変わらなかったが、この古木には、他にはない圧倒的な存在感があった。
まるで、荘重な巨城を前に感じるような神聖さと雄大さ、そして、思わず伏したくなる威厳を放っている。

 古木の根元には、うねる樹根を椅子代わりにして、一人の男がくつろいでいた。
──いや、人の男の姿をしているが、おそらく精霊族なのだろう。
豊かな金髪には、絹糸の如き光沢があり、耳は長く尖っている。
瞳は美しい紫紺色で、表情は一切動かず、瞬きすらしていない。
その様は、さながら古木に腰掛ける、精緻せいちに彫られた神像のようであった。

 よくよく見てみると、古木の周りには、他にも大勢の精霊たちが佇んでいた。
まるで王座を取り囲む従者のように、粛々とした様子で整列している。
彼らは皆、金髪と長い耳を持つ同種らしかったが、その視線が注がれる草地には、また別の者たちがひざまずいていた。
生きているのかも分からない、出来の悪い木製の人形のような姿をしたそれらも、精霊族なのだろうか。
見慣れないものばかりを目の当たりにして、トワリスは、ただ混乱することしかできなかった。

 広場に入ってきたエイリーンとセルーシャを見て、金髪の精霊の一人が、口を開いた。

「……遅い。真上に日が差すまでに来るようにと、何度も申し付けているであろう」

 非難するというよりは、ただ単に決まり事が守られなかったという事実を述べているような、平坦な声であった。
他の精霊たちも、特に怒っている様子はなく、無感情な顔つきのままだ。

 木人形のような精霊たちの前まで歩いてきて、セルーシャが答えた。

「霧の森から、この古代樹の森に来るまでに、我々の脚では半日近くかかってしまうんだよ。明日も、明後日も、この頃に来るよ」

「…………」

 精霊は、金色に縁取られた目をわずかに細めたが、それ以上は何も言わなかった。
別の精霊が、木人形たちを指さして言った。

「この者らは、東の森の再生に尽力してくれた、我が同胞たちだ。葬ってくれ」

 エイリーンが、一歩前に出て、セルーシャの顔を見た。
セルーシャは、十人いる木人形たちを、じっと凝視した。
その橙黄色の瞳が、何かを捉えたように閃く。
一度目を閉じ、開けると、セルーシャはエイリーンに頷きかけた。

「もう形を保つ力も残っていないね。明日には、土に還ってしまうだろう」

「……分かった」

 エイリーンは頷きを返すと、木人形たちに掌を向けた。
すると、伸ばした腕が紫白色の樹根に変わっていき、みるみる枝分かれして、木人形たちを取り囲むように広がった。
その様は、複数の腕を使って、力尽きた獲物を捕食しようとしているかのように見えた。

 木人形たちは、抵抗する気配もなく、黙ってひざまずいたままでいる。
触手の如き樹根は、彼らの細枝のような身体を、容赦なくバキバキと折り畳みながら、一欠片も残さず絡め取った。

 木人形たちの身体が、葬樹そうじゅの中に取り込まれる寸前。
今まで微動だにしていなかった、古木に腰掛ける神像が、初めて唇を開いた。

「皆、同胞の死には、悲嘆し、涙を流すものだ……」

 低く、穏やかな声が、木霊のように広場に響き渡る。
途端、金髪の精霊たちが、祈るように胸元で手を組み、ほろほろと涙を流し始めた。

 神像は、次いで木人形たちに視線を移し、淡々と言った。

「大義であった。お前たちの死を、無駄にはしない」

 軋む首を動かして、木人形たちが、光のない目を見開いた。

「なんと、ありがたきお言葉。……全ては、グレアフォール様の預言の通りに……」

 その言葉を最期に、木人形たちは、葬樹そうじゅの樹根の中に飲まれていった。
十人もの身体を取り込んだ樹根は、しゅるしゅると縮んでいき、やがて、エイリーンの腕の形に戻る。
再び広場に静寂が訪れると、エイリーンは、何事もなかったかのように腕を下げた。
その頃には、金髪の精霊たちも、流していた涙を収めていた。

 さぁっと風が吹き抜けて、古木の枝葉を、ざわざわと揺らす。
神像──グレアフォールが煙のように姿を消すと、他の精霊たちも、空気に溶けるようにして消えていった。
一体何が行われたのか、トワリスには見当もつかなかったが、何やら儀式めいたこの集会は、どうやらお開きになったらしかった。


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