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投稿日:2026年01月06日
エイリーンとセルーシャが、歩いてきた森道を戻ろうとすると、背後から呼び止める声があった。
振り返ると、古木のすぐそばに、まだ誰かが残っていた。
すらりとした人影が、傍に体格の良い白馬を曳いて、小走りでエイリーンたちに近づいてくる。
古木の影から、明るい陽の下に出てきたその姿を見て、トワリスは思わずドキリとした。
やって来たのは、金髪の精霊ではなく、ルーフェンによく似た顔立ちをした、銀髪銀眼の人間の男だったからだ。
「──ちょっと待って。……二人とも、また霧の森に帰るんでしょう? よかったら、近くまで送っていきますよ。ゴーティに乗れば、一刻程度で到着しますから」
エイリーンたちの目の前までやってくると、男は優しく微笑んで、そう言った。
ゴーティというのは、連れている白馬のことだろう。
自分の名を呼ばれたことを理解しているかのように、ゴーティは、鼻先を揺らしている。
エイリーンとセルーシャは、互いの目を合わせてから、同時に男の顔を見上げた。
二人がこの男に対し、何を感じているのかは分からなかったが、トワリスの心は、一層激しく狼狽していた。
間近に見れば、男は、ルーフェンとは全くの別人であった。
雰囲気はよく似ているが、顔立ちは違うし、年もルーフェンより少し上に見える。
だが、腰まで伸びた長い銀髪に、何かを見透かすような銀眼、口元に浮かぶ作りものめいた微笑、そして、片耳ではなく両耳につけられた、ランシャムと思しき緋色の石がついた耳飾り──これらの特徴を見れば、彼がシェイルハート家と何かしらの関係がある人物であることは、明らかであった。
しかし、シルヴィアが亡くなった今の時代、銀の髪と瞳を持つ人間は、ルーフェン以外にいないはずである。
トワリスが知らないだけで、ツインテルグやアルファノルには、銀髪銀眼を持つ血筋が暮らしている、なんて可能性も否定はしきれないが、仮にそうだとしても、それだけでは説明しきれない、大きな疑問がもう一つある。
それは、なぜグレアフォールたち精霊族と、エイリーンたち闇精霊族、そしてシェイルハート家に縁のある人間が、この場に一緒にいたのか、ということである。
頭の中に徐々に浮かび上がってきた、とある一つの可能性に、トワリスの鼓動は、加速していくばかりであった。
(……まさか……ここは、四種族が四国に分かれて暮らす以前の世界……?)
エイリーンの手足を自分の意思では動かせない状態で、口元を覆うこともできず、トワリスは、必死に込み上がってきた吐き気に耐えた。
この突飛な推測が現実ならば、ここは、歴史書にすら載っていないような数千年前の時代、ということになる。
冷静に考えれば、そんなこと、あるわけがない。
しかし、この状況を受け入れられる説明が、他には思いつかない。
かつては四種族が一つの大陸上に共に存在していた、という言い伝えを元から否定することもできるが、そうすると、ファフリたち獣人族と言葉が通じたことや、他国の古い記録がサーフェリアに残っていたという事実が、今度は説明できなくなる。
それに、この状況で別の理由付けをしたところで、その考えが実際に起こった史実か、的外れの憶測かなんて、いかにして判断しろというのか。
今のトワリスに考えつくのは、エイリーンの実体に接触するため、アルファノルに行こうと移動陣をくぐったら、数千年前の世界に闇精霊として飛んでしまった──などという、それこそお伽話のような可能性だけであった。
どうか悪い夢であってくれ、と願うトワリスの心境に関係なく、エイリーンが、忌々しげに男を睨んだ。
「……なんだ貴様は? なぜ人間が、この森に入り込んでいる」
禍々しい魔力のこもったエイリーンの指先が、不意に持ち上がる。
男が何かを答える前に、セルーシャがその手を止めた。
「駄目だよ、エイリーン。これは、グレアフォールが、森の出入りを許している唯一の人間だよ。この前も会ったじゃないか」
「出入りを許した? グレアフォールが?」
聞き返してから、エイリーンは、何かを思い出したように目を細めた。
「……ああ、そういえば、そのようなはぐれ者がいると聞いたな。確か、自国の王を売って、グレアフォールに取り入ったのだったか」
周囲に集まっていた濃密な魔力が、ふっと霧散する。
エイリーンの発言は皮肉だったが、男は、眉を下げて笑っただけであった。
「思い出してくれたようで、良かったです。ええっと……君がエイリーンで、そちらがセルーシャだったかな。間違っていたらすみません」
男は、容姿がほとんど同じように見える二人の名前を、しっかりと言い当てた。
セルーシャが「間違ってないよ」と答えると、男は安堵した様子で、今度は手を差し出してきた。
「改めまして、私はリーヴィアス・シェイルハート。西方から来て、今は外の集落で暮らしています。君たちがいる霧深い森も、ここに来る途中で通るんですよ。……で、こっちが私の相棒の、ゴーティ。私とゴーティと合わせて、次は名前も覚えてもらえると嬉しいです」
「…………」
セルーシャは、目の前に差し出された手をどうすれば良いのか分からず、微かに首を傾げた。
男──リーヴィアスが苦笑して、「よろしくという意味の握手です」と答える。
だが、セルーシャが腕を伸ばす前に、エイリーンが、リーヴィアスの手を払い除けた。
「──我々に気安く触れようとするな。……その獣も、近づけるな。臭くてかなわん」
エイリーンは、リーヴィアスとゴーティを睨み、忌々しげに言い放つと、さっさと踵を返して、森道へと入っていった。
セルーシャが、慌ててエイリーンを追う。
リーヴィアスはつかの間、ぽかんとした顔でその場に立ち尽くしていたようであったが、しばらくすると、ゴーティに跨り、エイリーンたちと同じように、森道を辿ってきた。
エイリーンは歩調を速めたが、それよりも、ゆったりとしたゴーティの常歩の方が速かった。
あっという間に追いついてきたリーヴィアスとゴーティは、エイリーンたちと横並びになると、更に速度を落として並進した。
エイリーンの苛立ちを嘲笑うかのように、周囲の枝葉が揺れる。
それに合わせて、木漏れ日も踊っている。
不意に立ち止まると、エイリーンは、馬上のリーヴィアスを睥睨し、地を這うような声を発した。
「……先程、近づくなと言ったのが聞こえなかったか? 我々は、古代樹には属さない、葬樹の一族だ。グレアフォールの寵人といえども、不快と感じたなら容赦なく殺すぞ」
その瞬間、ざわりと空気が変わった。
瞳孔の細まった橙黄色の目が、爛々と鋭い光を帯びる。
エイリーンの低い声に気圧されて、笑っていた木々が、凍りついたように静かになった。
辺りに満ち始めた、どす黒い魔力にあてられて、足元の下草が、たちまち枯れて腐敗していく。
トワリスも、エイリーンの意識の中で、本能的に身構えてしまった。
己に向けられた殺意ではないと分かっていても、恐怖心を抱かずにはいられない、圧倒的で底知れない魔力だったからだ。
震えているゴーティの首筋を撫でながら、しかし、リーヴィアスは、あっけらかんとした調子で言った。
「そう敵視しないで下さい。先程も言った通り、私は森の外の集落で暮らしています。つまり、霧の森に戻る貴方たちと、帰り道が同じなんです。別に付きまとうつもりで、後ろについてきたわけじゃありません」
「…………」
魔力を収めようとしないエイリーンの肩に、セルーシャが手を置いた。
「エイリーン、そうは言うけど、今グレアフォールに見放されるにはいかないよ。……魔力を収めて。皆が見ている」
「…………」
ひそひそ、ひそひそと、直立している木々が、何かを囁いている。
エイリーンは、腹立たしげに息を吐いた。
そして、木々を威嚇するように睨んでから、放っていた魔力を収めて、再び歩き出した。
「もう騒がないよ」と辺りに呼びかけて、セルーシャが後に続く。
リーヴィアスは、怯えて進まなくなってしまったゴーティから降りると、彼を曳き、懲りずにエイリーンたちの横に並んだのであった。
付きまとうつもりじゃない、と言っていたが、リーヴィアスはその後も、エイリーンたちの傍から離れなかった。
普通に歩けば、足の遅いエイリーンたちを追い抜かして、もっと早く集落に帰れるだろうに、わざわざ歩調を合わせて、のろのろと進んでいる。
そして、道すがら見かけた花の名前を聞いてきたり、葬樹の森はどんなところなのかと尋ねてきたり、ずっと一人でしゃべり続けていた。
エイリーンは、一切何も答えず無視していたが、セルーシャは、次第に人間の話にも興味がわいてきたのだろう。
相槌を打っては、時折質問を返すこともしていた。
明るい森から、霧深い森に入った頃には、夜の帳が下りていた。
靄が立ち込め、巨木が密集している森の奥に、道標となる月光は届かない。
エイリーンとセルーシャは、暗闇の中でも迷いなく歩いていたが、リーヴィアスとゴーティは、目先や足元を魔術の光で照らさなければ、進むことができなかった。
やがて、木々の並びが途切れると、白霧の向こうに、ぼんやりと湖畔の輪郭が見え始めた。
リーヴィアスの掲げた魔術の光が、月明かりと交わって、薄らと霧を透かす。
湖面に反射する光の帯を眺めながら、リーヴィアスが、しみじみと呟いた。
「……へえ、こんなところに湖が。毎日近くを通っていたけど、知りませんでした。
セルーシャとエイリーンは、普段ここで暮らしているんですよね。……少し不便じゃないですか? 湿っぽいし、暗いし、古代樹からも遠いでしょう」
リーヴィアスの気さくな態度に、もうすっかり慣れた様子で、セルーシャが答えた。
「そこが気に入ってるんだよ。風や火の気がなくて、夜が長くて、古代樹が遠いから静かで落ち着く。この湖畔の空気は、かつて我々が根付いていた、葬樹の森に近い匂いがするんだ」
リーヴィアスは、納得したように顎をさすった。
「なるほど……故郷に似ているのか。なら、二人にとっては、この上なく居心地の良い場所なんですね」
次いでリーヴィアスは、草地に屈み、湖面を覗き込んだ。
霧さえも映す、鏡のような水面を隔てて、もう一人の自分が、こちらを見つめ返してくる。
リーヴィアスは、誘われるように手を伸ばした。
──が、水に触れる直前で、指先を止めた。
波紋一つ立たない、澄み切った湖の閑静さが、虎視眈々と獲物を狙って身を潜める、捕食者の沈黙のように感じられたからだ。
リーヴィアスの背後に立って、セルーシャが言った。
「我々には良い場所だけど……リーヴィアス、君みたいな人間は、不容易に彷徨かない方が良い。古代樹から遠い、ということは、精霊王グレアフォールの支配が完璧には及んでいない、ということだ。王の意思に背く精霊は、もうほとんど残っていないはずだけど、今、湖底からこちらを見ていたような微精霊たちは、君や王が広めた『言葉』を覚えていないし、自我が弱いから自制も効かない。見慣れない人間なんて現れたら、多分、グレアフォールの命令に関係なく襲ってくるよ」
静かな湖面に、ぽちゃんと一つ、波紋が広がる。
セルーシャの言葉は、精霊族の領域に身を置くリーヴィアスにとっては、恐ろしい忠告のはずであった。
だが、湖の淵から立ち上がった彼の顔には、恐怖も動揺も浮かんではいななかった。
むしろ、興味深げな表情が浮かんでいる。
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