トップページへ
目次選択へ
投稿日:2026年01月06日
第三章──挽歌を紡ぐ者
第三話『非理』
朝、セルーシャに揺り起こされて、グレアフォールの元へと向かう。
そして、消耗した古代樹の一族の精霊たちを葬り、その魔力を取り込んで、来たる日のために蓄蔵する。
弔いの儀が終わると、高頻度で声をかけてくるリーヴィアスとゴーティに付きまとわれながら、森を下り、また霧深い湖畔に帰って、眠りにつく。
そういう変わらぬ日々が、静かに、淡々と、何月も続いた。
トワリスは、エイリーンの意識下から脱出する手立てを見つけられないまま、焦燥感を募らせていった。
だが、一方で、自分はもう数月もの長い間、この古の世界の景色を見続けているのだ、という自覚はしていなかった。
ひたすら同じことを繰り返すだけの日々に、時間の感覚を麻痺させられてしまったのか、あるいは、知らず知らずの内に、長命のエイリーンと意識が同化してしまったのか、時の流れが、瞬く間に過ぎ去っていく夜夢のように、速く感じられていたからだ。
エイリーンたちが行き来する森に、季節変化がほとんどないことも、時間の感覚を狂わせる一因になっていた。
森の中は、朝夕の変化はあれど、基本的に気温は一定で、葉の色が変わって落葉したり、雪が降ったりする気配はなかった。
時折雨が降ったり、風が吹いたりすることはあったが、動植物たちの暮らしが脅かされるような暑寒に襲われたり、嵐などの災害に見舞われたりすることもない。
特に古代樹の森には、外界から空間を切り離されたような、神聖で停滞した雰囲気が漂っていた。
いつ訪れても、木々は青々と茂り、美しい小鳥や蝶が、鮮やかな花々や果実の間を飛び交っている。
グレアフォールに守られているのだという古代樹の領域は、違和感にも似た暖かさと、奇妙な居心地の良さに、常に満たされているのであった。
その日、エイリーンは、いつもよりも早い、夜明け前にセルーシャに揺り起こされた。
促されるまま、枝葉を広く伸ばす巨木の下に入ると、程なくして、篠突く雨が降り始めた。
あと少し避難するのが遅れていたら、エイリーンもセルーシャも、全身びしょ濡れになっていただろう。
これは、二人のやりとりを毎日見ていて、トワリスがなんとなく気付いたことだが、セルーシャは、エイリーンよりも葬樹としての力が弱い代わりに、天候が崩れることを察知したり、弱った精霊の残りの寿命を言い当てたりするといったような、些細な空気の変化を感じ取ることに長けているようであった。
生い茂る葉を傘代わりに、二人は、しばらく雨が止むのを待っていた。
だが、空を覆う分厚い雲は、いつまで経っても、一向に晴れなかった。
ただでさえ視界の悪い霧の森が、一層 雨煙り、暗くなっていく。
トワリスがこの世界で見てきた中で、一番激しい長雨であった。
苔むした岩間を流れていく雨水を眺めながら、ふと、セルーシャが呟いた。
「そろそろ行かないと、日暮までに古代樹に着けないんだけど……まだ止みそうもないね。こういう時は、この身体が嫌いだっていうエイリーンの気持ちが分かるよ。葬樹の形を取っていた時は、濡れたって全く気にならなかったもの」
葉先から落ちてくる雨粒を、鬱陶しそうに手で払いながら、エイリーンは返した。
「もう、今日は行かずとも良いだろう。グレアフォールが大陸を割るのに欲している魔力量が、いかほどかは知らんが、数体分が微精霊化して霧散したところで、大した影響はあるまい。古代樹の一族に対し、こんな雨の中まで通ってやるほどの義理は、我々にはない」
「まあ、そうだけど……それで約定を破ったことにされて、葬樹の森を見捨てられてしまったら困るよ」
「…………」
エイリーンは、樹根の間に身体を入れ込み、背を丸めるようにして寝転んだ。
「そうなったらそうなったで、この霧の森に根付けば良い。蘇った北地に還れるならば、それが理想ではあるが、引き換えに、必要以上の従属を強いられ続けるというなら、我はここで構わん。お前さえいれば、場所には然程こだわらない」
「え? そうなの?」
驚いたように瞠目して、セルーシャは、エイリーンを見た。
エイリーンは、何も答えずに目を瞑ってしまったが、セルーシャは、気にせず続けた。
「……なんだ、知らなかったよ。人型にされて怒ってたエイリーンが、一時的にならグレアフォールに従っても良い、って言い出した時から、意外には感じてたけど……。古代樹に従属してでも、葬樹の森を再生させたいから、賛同してくれたのだと思ってた。そうでもなかったんなら、最初に言ってくれれば良かったのに」
エイリーンは、目を閉じたまま、小さく嘆息した。
「だがお前は、グレアフォールに従ってでも、葬樹の森に還りたいのだろう」
「……うん」
セルーシャは、躊躇いがちに肯定した。
そして、樹根の間に入り込むと、エイリーンと向かい合って横になった。
「勿論 我も、エイリーンと一緒にいることが一番大事だよ。ただ、葬樹の森に還ることも、同じくらい大事なんだ。だってあそこは、我々が生まれて、時間をかけて造り上げてきた森だから」
「…………」
薄く目を開けて、エイリーンは、セルーシャと見つめ合った。
「……このような鈍重な足でなければ、自力で北地に還れたのだろうがな。もしくは、いっそ形なき微精霊にでもなれば、風に乗って北上することもできるのやもしれんが……」
言いかけてから、エイリーンは、自分で否定した。
「……いや、そんなことをすれば、葬樹の森に還るという目的さえ忘れるか。仮に還れても、どの道、我々だけでは、葬樹の森を再生させることはできん」
エイリーンの問答を聞きながら、セルーシャが、ふふ、と薄笑いを浮かべた。
なぜ急に笑ったのかと、エイリーンが視線で問う。
セルーシャは、口の端に笑みを残したまま、答えた。
「ううん、なんでもない。……ただ、この前、リーヴィアスに言われたことを思い出しただけ」
「リーヴィアスに言われたこと?」
訝しげに聞き返すと、セルーシャは頷いた。
「我々は同種なのに、考え方が違う、って言われただろう。どうしてそう思われたのかは、未だによく分からないけど、意識してエイリーンと話してみて、確かにそうだと思ったんだ。我々は、本当は、全然同じじゃなかったんだね。葬樹として生まれて以来ずっと一緒で、思考も常に共有していたから、人型になって二人に分離するまで、全く気づかなかったよ」
エイリーンは、不愉快そうに表情を歪めた。
「奴が物珍しいからと、変な影響を受けるな。あんなものは、我々のことなど何も知らぬ、無知な人間の戯言だ」
セルーシャは、笑みを深めた。
「そうかもしれないけど、戯言であっても、面白いじゃないか。リーヴィアスは時々、我々が考えもしなかったことを言う」
エイリーンは、反論を重ねようとしたが、逡巡の末に、何も返さずに唇を閉じた。
これ以上なにか言うと、やっぱり我々は同じじゃないと、セルーシャが余計に面白がるような気がしたからだ。
いつの間にか、絶えず響いていた雨音が、小さく遠ざかっていた。
頭上の枝葉の隙間からは、わずかな木漏れ日が差し込み、細かな霧の粒子を薄らと浮かび上がらせている。
リーヴィアスとの会話を回顧している内に、不意に、何かを思いついたのだろう。
突然起き上がったセルーシャが、ぽつりと呟いた。
「そうだ、馬……」
「……馬?」
エイリーンが、合わせて上体を起こす。
セルーシャは、くるりと振り返ると、エイリーンに顔を近づけた。
「そう、馬だよ。ゴーティだっけ? リーヴィアスが連れ歩いている、あの鼻と首が長い獣。あれに乗れば、我々だけでも、葬樹の森に還れるんじゃない?」
エイリーンは、面食らったように目を見開いてから、嫌そうに顔をしかめた。
「あれを駆って、北方まで旅をするということか? 反対だ、あんな粗暴な獣……。確かに脚は速いのかもしれんが、昔、葬樹の森で見かけた時も、死にかけのくせに大暴れして、捕まえるのに苦労しただろう。戦にもよく使われているし、おそらく気性が荒い生物なのだ。乗っても振り落とされるのが落ちだぞ」
珍しく語気を弾ませて、セルーシャは返した。
「でも、ゴーティは大人しいし、リーヴィアスの言うことをよく聞いているじゃないか。多分、馬を操る術があるんだよ。人間は我々とは違う、変わった魔力の使い方をするからね」
「しかし、ゴーティに乗っているリーヴィアスから、魔力を感じたことはない」
「ああ、そういえばそうか。じゃあ、大人しい馬を選んで乗っているのかな? もしくは、最初から従順に育てる方法があるのかも」
言いながら、セルーシャは周囲を見回し、近くに古代樹に属する精霊たちや、その"使い"、微精霊の宿った樹がいないかどうかを確かめた。
そして、小さな声で、エイリーンに耳打ちをした。
「グレアフォールに勘付かれないように、リーヴィアスに聞いてみようよ。どうやったら足が速くて、頑丈で、我々に従ってくれる利口な馬が手に入るのかって。……リーヴィアス、この時間なら、もう集落に帰ってるかな? とにかく行ってみよう」
エイリーンの手を引いて立ち上がると、セルーシャは、濡れた苔を踏みしめ、森道を下り始めた。
地面から跳ねた雨水が、たちまち足元を濡らしていく。
半ば引きずられるようにして歩きながら、エイリーンは、制止の声を上げた。
「待て、セルーシャ。ここから人間たちの棲家まで、どれほどの距離があるか分からないんだぞ。古代樹へ行くよりも時間がかかるとしたら、到着は夜更けか、明日になるやもしれん。人間たちが寝静まっている頃に行っても、リーヴィアスは探せぬし、馬も手に入らんだろう」
セルーシャは、顔だけ振り返った。
「ゴーティが毎日数刻で行き来している距離なんだから、我々の脚でも、一日はかからないよ。それに、彼の魔力の色はもう覚えたから、仮に眠っていても、近くまで行けば、居場所を突き止めることはできる。もし見つからなくても、別の人間に声をかけてみればいいさ。集落にいる人間は、リーヴィアスの思想に共感して、同じように西方から出てきた者たちなんだ。精霊族に対して、そこまで強い敵意は持っていないよ。多分」
エイリーンは、やれやれと嘆息した。
「……それで、運良く馬が手に入ったとして、どうするのだ。奇跡的に北方の地に戻れたとしても、今はまだ、葬樹の森は焼けたままなのだぞ」
「うん。我々には、死んだ森を元通りに再生させる力はないからね。……でも、また一から時間をかけて、新しい葬樹の森を作ることはできる」
「え……」
歩調を緩めていき、ふと立ち止まると、セルーシャは、戸惑っているエイリーンの顔を見つめた。
「我の望みは、エイリーンと共に葬樹の森に還ることだ。グレアフォールの力に頼って、以前と同じ環境を取り戻せるなら、それが一番だと思ってたけど……エイリーンが古代樹に従属するのが嫌だっていうなら、最善とは言えない。北方には還る、でも他の何者にも縛られない、我々二人ともが受け入れられる方法にしよう」
セルーシャは、エイリーンと繋いでいる手に、ぎゅっと力を込めた。
「思えば、取り戻すも何も、最初は北地に森なんてなかったものね。氷ばかりの大地に、生きて存在していたのは、我々だけだった。時間をかけて根を張り、幹を増やし、枝葉を広げ、そうして我々は、北地全体を覆うほどの森になった。……同じことをするとなると、きっとまた何百年、何千年とかかるだろうけど……エイリーン、もう一度、最初から付き合ってくれる?」
「…………」
エイリーンは、橙黄色の瞳に光を宿して、セルーシャを見つめ返した。
冷たい氷の中、必死に手足を伸ばして生きようとしていた、長い長い年月の記憶が思い起こされて、つかの間、言葉が出なかった。
ぽつりぽつりと、雨粒が枝葉を打つ音だけが、薄白い森の中に響いている。
やがてエイリーンは、セルーシャの手を握り返すと、深く頷いた。
「……もちろんだ。共に葬樹として在り、還れる場所を作ろう。たとえ、どれだけ長い時間がかかろうとも」
- 26 -
🔖しおりを挟む
👏拍手を送る
前ページへ 次ページへ
目次選択へ
(総ページ数84)