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投稿日:2026年01月06日





 観念したエイリーンが、愚痴をこぼしながらも栗毛馬の端綱はづなを引けるようになった頃には、天高くに鎮座していた陽光が、山の向こうに沈み始めていた。
爽やかに吹く夕風が、昼の余熱を冷ましていく。
茜色の空には、紫紺しこんの雲がたなびいている。
厩舎きゅうしゃの外には、普段エイリーンたちが暮らしている、木々に覆われた森中では見られない、美しい夕暮れの光景が広がっていた。

 ミランは、いずれリーヴィアスを通して二人乗り用のくらを送るから、と言って、栗毛馬の端綱をエイリーンに渡した。
乗る練習もしたが、セルーシャが乗る方が好きだと喜んだので、なんとなくエイリーンがく役を担うことが多くなっていた。
栗毛馬は、エイリーンのことも怖がらずに、端綱をくと大人しく着いてきた。
終始こちらを監視していた兵士らとミランに見送られて、エイリーンとセルーシャと栗毛馬は、人間達の集落を後にしたのであった。

 エイリーンは、栗毛馬のことを鈍足な老いぼれだ、などと罵ったが、いざ森中を歩かせてみると、栗毛馬は斜面も獣道もぐんぐん登った。
小柄だが駄馬だば出身で力もある、というミランの言葉通り、背に乗っているセルーシャの重みも、ほとんど感じていないかのように見える。
日が暮れ落ちて、辺りが暗くなっても、エイリーンが魔術で光を灯してやると、栗毛馬は照らされた道を難なく進んだ。

 途中からは、先に疲れ始めたエイリーンの方が、栗毛馬にかれているような有様であった。
道半ばで役割を交代して、セルーシャがき手になったが、栗毛馬の足取りは、まだ万全のはずのセルーシャよりも速い。
待て、もっとゆっくり歩け、と制止をかけても栗毛馬は止まらず、エイリーンたちは、ついにくらから下りて、二人がかりで端綱と手綱を持って制御するしかなくなった。
それでも、栗毛馬をぎょすことはできなかった。
厩舎きゅうしゃ内で練習した時は、歩く速度をき手に合わせてくれていたのに、今の栗毛馬は、エイリーンとセルーシャを引きずって好き勝手に歩いている。
しまいには、エイリーンが示す道とは違う枝道に突入していって、もはやどちらが主導権を握っているのか分からない状態になった。

 霧の森への帰り道とは全く別の方向に進んでいき、なだらかな草地に出たところで、栗毛馬はようやく足を止めた。
そして、息を切らすエイリーンとセルーシャを振り切って、足元に生い茂る青草をみ始める。
顔を見合わせてから、二人は同時に嘆息した。

「うーん、困ったね。全然言うこと聞かなくなっちゃった。お腹が空いてたのかな?」

 呟きながら、セルーシャがグイと端綱を引くと、栗毛馬は反抗するように首を突っ張った。
エイリーンも一緒になって引っ張ったが、栗毛馬はブルルッと鼻を鳴らすだけで、全く動こうとしない。
苛立たしげに端綱を地に叩きつけ、エイリーンは声を荒げた。

「おい馬! 我々を虚仮こけにするつもりか? 従わねば、その首切り落として野犬の群れに放り投げるぞ」

「何言ってるの。殺しちゃいけないよ、エイリーン」

 二人の物騒な会話も一切気にせず、栗毛馬は、のんびりと草を食べ続けている。
静かな夜の森中しんちゅうで、栗毛馬がブチッ、ブチッと下草を噛み千切る音が、軽快に響いている。
その後に続く、モゴモゴという呑気な咀嚼音が、鬱陶しいほど耳についた。

 仕方がないので、エイリーンとセルーシャもその場に腰を下ろし、栗毛馬が食事を終えるのを待ってやることにした。
しかし、待てども待てども、栗毛馬は動こうとする気配はなかった。
それどころか栗毛馬は、木の根元に腰掛けているエイリーンたちを見て、自身も四肢を折り畳んで座り込むと、その怠惰な姿勢のまま草を咀嚼そしゃくし出した。
どうやら、この草地から移動する気はないらしい。

 耐えかねた様子で立ち上がると、エイリーンは、栗毛馬の端綱を再びグイと引っ張った。

「いい加減にしろ! 霧の森はまだ先だ、行くぞ!」

 栗毛馬はぴくっと耳を動かし、引っ張られた顔を嫌そうに振ったが、やはり立ち上がろうとはしなかった。
エイリーンとセルーシャ、二人の力で引かれたところで、大した力にはならないと、これまでの道中で学んでしまったのだろう。
馬は仕草や顔つきで感情を伝えてくる、というミランの言葉の意味が、早速分かったような気がした。
会話はできないが、確かに分かる。
今、栗毛馬は、エイリーンたちのことを従うに値しない主人だと侮っているのだ。

「下等な獣如きが……従わねば殺すと言ったのは、ただの脅しではないぞ……」

 低く呟き、細めた橙黄色の瞳を鋭く光らせると、エイリーンは、不意に指先に魔力を込めた。
そして、止めに入ろうとしたセルーシャに構わず、指先をスッと横に動かした。

──瞬間、栗毛馬の周囲に生えていた下草が、一斉に根ごと枯れ果てた。
同時に、地面が勢いよく隆起して、栗毛馬は大波にさらわれた小舟の如く転覆した。
甲高くいななきながら、ひっくり返った栗毛馬が、必死に起きあがろうともがいている。
エイリーンは、満足げに鼻を鳴らした。

「良いか、次はこの程度では済まぬぞ。分かったらさっさと立て、貴様の主は我々──え……っ」

 エイリーンは、逆らえば恐ろしいことが起こるぞ、と主人らしくしつけをしているつもりであったが、その叱責を、栗毛馬は全く聞いていなかった。
立ち上がるや否や、栗毛馬は、こちらには見向きもせずに駆け出したのだ。

「──あっ、待って! 止まって……!」

 咄嗟に叫んで、セルーシャは端綱をぎゅっと握った。
エイリーンも両手で端綱を掴み、すかさず両足を踏ん張った。
けれども、跳ね上がった栗毛馬に、肩が抜けるような凄まじい力で引っ張られて、端綱は呆気なく手の中から抜けてしまった。

 蹴り上げられた土の欠片が、広く飛び散って顔にかかる。
一瞬だけ目を瞑った間に、栗毛馬の後ろ姿は、随分と小さくなっていた。
蹄鉄ていてつの音が、遠くで木霊している。
今から追跡したところで、自分たちの脚では、栗毛馬に追いつくことはできないだろう。

 はあ、と深いため息をついて、セルーシャは、何か言いたげにエイリーンを見遣った。
エイリーンは、何も言えずに、栗毛馬が走り去っていた暗い森道を、ただ呆然と眺めていた。


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