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投稿日:2026年01月06日
「えっ、馬を逃した?」
早々に引き返すのはばつが悪かったが、肝心の馬に逃げられてはどうしようもないので、エイリーンたちは再度集落を訪ねた。
森道を戻るのに、また数刻ほどかかったので、その間に一度帰還したリーヴィアスは、つい先ほど入れ違いで出掛けていったらしい。
迎えてくれたのは、昨日と全く同じ顔ぶれ──敵意剥き出しの兵士や世話人たち、そしてミランであった。
ミランは、早朝に顔を出したエイリーンたちを、再び厩舎に通してくれた。
しかし、その態度には、昨日のような恭しさはなく、露骨に迷惑そうな雰囲気を醸している。
もう集落には寄りつかない、という約束で別れたのに、いきなり戻ってきた挙げ句、馬を逃がしたと告げたので、呆れてしまったのだろう。
ミランは盛大に嘆息して、厩舎の端に寄せてある水樽の上にドカッと座った。
「……どうして逃がしたんだ。しっかりと木に繋いでおかなかったのか? 端綱の解けない結び方は、昨日ちゃんと教えただろうに……」
ミランに叱責されて、エイリーンは不服そうであったが、言い返しはしなかった。
隣にいたセルーシャが、眉を下げて説明する。
「まだ係留する段階じゃなくて、帰りの途中だったんだよ。あの馬、急にお腹が空いちゃったみたいで、道端の草を食べ始めてさ。手綱を引いても全然動かなくて、言うことを聞かせようとしたエイリーンが、魔術を使って脅したんだ。そしたら、我々を振り切って、すごい勢いで逃げちゃって……」
「…………」
「東の方に走っていったんだけど、今はどこにいるのか分からない。探して見つけたところで、我々の脚じゃ追いつけないから、捕まえるのを手伝ってくれないかな?」
「…………」
ごめんね、と謝罪しながらも、臆面もなく頼んできたセルーシャに対し、ミランは、はぁぁ、と深いため息をついて見せた。
それから、感情を押し殺したような、平坦な声で答えた。
「……それって、もう数刻も前のことなんだろう? だったら、僕らでも探して見つけ出すのは難しい。脅されて気が動転してたんじゃ、どこまで逃げたか見当がつかないし、夜中の森での出来事なら、もう狼に喰われてしまった可能性も高い。
……やはり、何も知らない貴方たちに、一日で馬の扱い方を覚えろというのは無理があったな。もう集落には来ないでほしいからと、気が急いてしまった。これは僕の落ち度でもある。あの馬には、可哀想なことをしてしまった……」
「…………」
冷静さの奥に、刺々しさを多分に含んだ口調である。
エイリーンは、フンと鼻を鳴らして返した。
「……戦のたびに馬を駆り出して、大量に無駄死にさせている人間が、一体どの口で可哀想だなどとほざいている。貴様も昨日、別れが辛くなるから馬には名を付けない、とか言っていただろう。つまり人間共は、殺す前提で馬を飼っている。狼の腹に収まった方が、まだ有意義な死に方をしたと言えるだろうが」
「はあ? 開き直るな! 戦死は無駄死になどではなく、お前たち異種族から人間の暮らしを守った結果──すなわち名誉の死だ! それに僕達だって、死んでほしくて死なせているわけじゃない!」
飛びかからんばかりの勢いでミランが反論してきたので、エイリーンは、彼の目の前に、魔力を込めた指先を突きつけてやった。
ビクッと肩を揺らしたミランが、慌てて口を閉じる。
だが、こちらを睨み返してくる銀色の瞳には、恐怖心だけではなく、やれるものならやってみろ、という挑発的な色も浮かんでいた。
僕を殺せば、その父リーヴィアス、ひいてはグレアフォールの不興を買うぞ、とでも言いたいのだろう。
まだ子供だからか、あるいはそういう性質なのか、ミランは、リーヴィアスと違って思考が読みやすかった。
エイリーンの腕を掴んで下ろさせてから、セルーシャは、小さく頭を下げた。
「今回のことは、我々が悪かったよ。次からは、絶対に逃さないように手綱を握っておくし、言うことを聞かないからって魔術で脅すこともしない。だから……連れ戻すのが無理なら、もう一頭馬をくれない?」
「…………」
怒りを通り越して、ミランは絶句した。
エイリーンの横柄さには困ったものだが、存外に質が悪いのは、温厚な理解者を装いながら、図々しい主張を繰り返してくるセルーシャの方なのかもしれない。
この二人、自分たちがとんでもない厄介者であるという自覚はあるのだろうか。
普通の感覚ならば、己の失態で馬を逃がしておきながら、人間に栗毛馬を連れ戻してもらおう、それが無理ならもう一頭要求しよう、なんて厚かましいことは思わないし、仮に思っても口には出さないだろう。
──なんて、閉鎖的な森の中で悠久の時を生きている精霊たちに、人間の常識や倫理観など説いても、意味はないのだろうが。
何度目とも知れぬため息をついて、ミランは水樽に座り直した。
しばらくの間、そうして自身の眉間のしわを揉んでいたが、ややあって、腕組みをして立ち上がると、毅然とした態度で言い放った。
「……駄目だ。前にも言ったが、馬は貴重な家畜なんだ。昨日は番兵の非礼を詫びる、という名目があったからタダで譲ったが、本来は、そう簡単にやれるものではない。……どうしても欲しいというなら、ちゃんと対価を払ってくれ」
「対価?」
首を傾げたセルーシャに、ミランは答えた。
「精霊族はどうなのか知らないが、人間は、欲しいものがある時は、その価値に見合った金を支払ってそれを手に入れるんだ。金っていうのは……こういうやつだ。グレアフォール王に人間の生活や文化を教わったなら、聞いたことくらいはあるだろう」
言いながら、自身の衣をごそごそと漁ったミランが、懐から何かを取り出して見せてくる。
エイリーンとセルーシャは、彼の手元を覗き込んだ。
その掌上には、複雑な紋様が彫られた、小さく平たい金の塊が置かれていた。
「もちろん知ってるけど……我々は、人間が使う金なんて持ってないよ」
セルーシャの言葉に頷いて、ミランは、金貨を懐にしまい直した。
「分かっている。だから、対価という言い方をした。要は、金じゃなくとも、馬に釣り合う価値のあるものをくれれば、交換取引成立ってことだ。
貴方たちは山や森を縄張りにした、樹の精霊だろう。何か持ってないのか? 人間ではなかなか入手できない、精霊族の領域に生えている貴重な薬草とか、珍しい鉱物とか……」
セルーシャは、エイリーンと顔を見合わせた。
それから、少し考え込んだ末に、ゆるゆると首を振った。
「確かに、人間じゃ立ち入れないような環境に棲んでいるけど……我々は屍肉を食う葬樹だから、摘み取って死にかけた草花なんか手に取ると、微精霊ごと殺して枯らしちゃうんだよね。生きているものには一応触れるけど、近々死ぬことが確定している弱ったものに触れちゃうと、強制的に残りの生命力を吸い取っちゃうんだ。
石は……どれが人間にとって高価で、どれが無価値なのか、判断がつかないな。持ち運ぶには重くて大変そうだし。欲しい石があるなら、我々よりも、北にいる巨人族 (地の祝福を受ける民)に採取できる場所を聞いた方が良いと思う」
「…………」
いや、馬の対価になるものを欲しがっているのはそちらだろう、という真っ当な反論は飲み込んで、ミランは咳払いした。
「……死骸の方が身近にあるというなら、動物性の素材でも良いぞ。角や骨、毛皮なんかも、加工すれば色々と使い道はあるからな。といっても、貴方たちは処理の仕方など知らないだろうし、腐敗が進むと毛皮は使えなくなるから、こちらの手に負えないものでなければ、未処理の生きた状態で持ってきてもらえると有難い」
「動物かぁ……。我々は基本的に、死期を悟って寄ってきたものを丸ごと根で取り込んでるだけだから、狩りが得意なわけではないんだよね。……エイリーンは? できそう?」
「すばしっこいものを狙うのは疲れる。今の姿で獣を捕獲して運ぶのも御免だ、汚れが移るからな」
ミランは半眼になって、冷たく言い放った。
「……あ、そう。まあ、やりたくないと言うなら仕方ないが。ただ、対価を用意できないんじゃ、馬は渡せないぞ」
「…………」
返せる言葉がなく、押し黙る。
セルーシャは、うーんと唸りながら、宙を見つめた。
そのまま長いこと思案に耽っていたが、ふと何かを思いついたらしく、出した掌から、唐突に魔力を放出させた。
「──……⁉︎」
瞠目したミランが身構えるよりも早く、発された魔力が厩舎内を駆け巡る。
魔術を使えないはずの馬たちも、空気の変化を感じ取ったのか、驚いたように一斉に顔を上げた。
風など吹いていないのに、木壁がカタカタと震えている。
息苦しさを覚えるほどの濃密な魔力にのし掛かられ、思わず咳き込みながら、ミランは一歩後ずさった。
「な、なにをする気だ⁉︎ 僕は、脅しには屈しないぞ……!」
負けじと魔力を練り上げて、ミランはセルーシャを睨みつけた。
しかし、真っ向から見たセルーシャの表情に、敵意は見られなかった。
穏やかな炎を思わせる橙黄色の瞳が、スッと優しく細まる。
「精霊族の領域にある動植物を欲しがるってことは、つまり人間は、自分では入手し難いものに価値を見出ってことだろう? なら、馬と釣り合うのかどうかは分からないけど、この子たちをあげるよ──」
──刹那、立ち込めていたセルーシャの魔力が、パッと発光して弾けるように霧散した。
次の瞬間、眩んだ目に映ったのは、ふわりと粉雪のように舞い上がった、美しく輝く無数の蝶だ。
繊細な硝子細工のように透き通った翅が、窓明かりを受けて、幻想的な虹色の光を織りなしている。
ミランは、セルーシャと対峙していたことなど忘れ、つかの間息を呑んで、その奇跡のような光景に魅入っていた。
寄ってきた蝶をシッシッと袖で追い払い、エイリーンは口を開いた。
「なんだ、此奴ら、セルーシャについて来ていたのか。葬樹の森が焼かれた時に、共に全滅したと思っていた」
フフ、と吐息をこぼして、セルーシャが答える。
「我々の周りを、ずっと飛んでいたよ。ただ、最近はほとんど魔力を分けていなかったから、微精霊と似たような不可視の状態になっていたみたいだ」
ひらひらと踊るように飛びながら、蝶たちは、ミランの周りへと集まっていく。
ミランが恐る恐る手を出すと、飛び交う内の一頭が、その指先に止まった。
途端、その銀の瞳がパッと輝く。
ミランは、先程までの警戒心も緊張感も全て吹き飛んだ様子で、嬉しげな表情をセルーシャたちに向けた。
「こ、これ……! もしや『導き蝶』か⁉︎ 葬樹の森にいた蝶なら、そうだろう!」
「ユ、ユリ? ……ファルア? みちびく、蝶?」
古語を辿々しく人語に訳して、セルーシャが聞き返す。
紅潮した顔で何度も頷きながら、ミランは興奮気味に言葉を紡いだ。
「昔、父上が書いた紀行で読んだんだ。北方には、虹色に輝く翅を持った、美しい蝶が棲んでいるって。特に雪深い季節は、この蝶が放つ光を雪が反射するから、夜になっても葬樹の森は明るく見えるのだと。死の森という別名の悪印象を払拭するための、父上の作り話かと思っていたのだが、まさか実在していたなんて……!」
ミランは一方的に捲し立て、まるで黄金でも前にしたような眼差しで、自身に集っている蝶たちを眺めている。
不思議そうに瞬いてから、セルーシャは、ミランと同じように指先に蝶を止めた。
「へえ……これ、外界ではそんな名前がついてたんだ。我々はただ『虫』って呼んでたから、知らなかったよ」
「む、虫……? もう少しマシな呼び名があっただろう。紀行には、導き蝶が明るく光ってくれていたおかげで、夜の森中でも迷わなかった、と書いてあったぞ。実際に葬樹の森に行ったことがある流浪の詩人は、『迷い人を導く光の蝶、その美しきはまさしく闇夜を照らす月光の如し』と手記に残していた──と、父上が言っていた。北地でも神聖視されている蝶ではないのか?」
熱のこもったミランの口調とは裏腹に、エイリーンは、ハッと乾いた吐息をついた。
「それこそ作り話だな。その虫は、我々と似て非なる屍肉食の"乞食"だ。神聖視するようなものではない」
「──えっ、そうなのか⁉︎」
両腕を広げ、楽しげに蝶たちと戯れていたミランが、ぎょっと目を見開いて手を引っ込めた。
指先に止まっていた蝶が、足場を失った衝撃で掻き消える。
唇で弧を描いて、セルーシャが付け足した。
「屍肉食というか、我々が屍肉を得て放出する魔力が好きみたいでね。いつの間にか葬樹の森に棲みついて、弱った生き物を見つけては、我々の前に誘導してくるようになったんだ。人間も動物も、その虫を見ると、今のミランみたいにぼうっとした顔になって、フラフラついてくるんだよ。屍肉を取り込めるけど動けない我々と、飛べるけど直接肉を食うことはできない虫……持ちつ持たれつの関係ってところかな。
森に迷い込む人間は多かったから、その詩人とやらのことは知らないけど、本当に葬樹の森に来て無事に帰れたんなら、寿命がまだまだ残ってたんじゃないかな。虫も我々も、死期が遠い生き物には手を出さないから」
「…………」
夢から覚めたような面持ちで、ミランはげんなりと項垂れた。
「……そ、そうか……まあ、導き蝶だって生きるための糧は必要なのだから、仕方ないが……。なんとなく、他の蝶と同じように、花の蜜でも吸っているのだと思っていた」
一方のセルーシャは、変わらぬ態度で説明を続けた。
「葬樹の森は、我々以外は生きていられないような、凍てついた北地にあったからね。外から一時的に迷い込んできたものを除き、花は咲いていなかったし、蜜を吸うような虫もいなかったよ。だから、他の虫と呼び分ける必要もなかったんだ。……死骸を導いてくる、という意味では、導き蝶という呼び名は間違えじゃない気がするけどね。今後は我もそう呼ぼうかな」
「…………」
花蜜食ではなく屍肉食である、という事実は、どうやらミランにとって、かなり衝撃的なことだったらしい。
だが、そんな彼の落胆とは関係なく、その頭に、肩に、全身の至る所に、導き蝶は変わらず集っている。
何気なくその様子を見つめていたセルーシャは、次いで、何かに気づいたように、ミランへと一歩近づいた。
「……ところで……ミランって、今いくつ? 二十歳くらい?」
何の脈絡もない、突然の問い。
額に止まっていた導き蝶を払って、ミランは訝しげに顔を上げた。
「……急になんだ。もうすぐ十二になるが……それがどうかしたか?」
セルーシャは、ふうん、と意外そうに首を傾げてから、こともなげに尋ねた。
「人間って、確か六、七十年くらいは生きるんだよね? ミラン、まだたったの十二歳なのに、もうすぐ死んじゃうんだ?」
「────……」
瞬間、ミランの顔がさっと強張る。
払われた導き蝶が、ミランの額の辺りに舞い戻る。
エイリーンも眉を寄せ、ミランの顔をまじまじと凝視した。
「……そう感じるか? 我には、死相は見えぬが」
「うん、我もそんな感じはしないんだけど。でも、虫がこれだけ集まってるってことは、そういうことだよ。……ミラン、どこか悪いの?」
「…………」
重苦しい静けさが、唐突に厩舎内を襲った。
ミランは、血の気を失った顔を俯かせて、じっと黙り込んでいる。
だが、セルーシャが「大丈夫?」と屈み込むと、その紫色の唇が、ゆっくりと動いた。
「……死なない。僕は、死なない。……どこも悪くない……」
耳を澄ませてようやく聞こえるような、掠れた小声であった。
断片的に聞き取ったセルーシャは、立ち上がって、目を瞬かせた。
「そっか。じゃあ、どうして虫たちはこんなに反応してるんだろう。死期が近い生き物は、我も見れば分かるんだけどね。虫だけが察知しているということは、死ぬかもしれないし、死なないかもしれないってことなのかな?」
「…………」
ミランは、震える唇を引き結び、再び押し黙ってしまった。
馬たちは、どことなく不安げな様子で馬房から頭を出し、ミランの様子を窺っている。
目を伏せ、何やら考え込んでいたエイリーンは、不意に何か納得したように口角を上げると、ミランの顎を掴んで、強引に上を向かせた。
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