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投稿日:2026年01月06日





「……そうか、分かった。貴様、『非理ひり』の一種だろう。いや、人間の定義に従って表現するなら、『死人しびと返り』……とでも言ってやるべきか?」

「……ひ、ひり……? なんだ、それ……」

 やっと口を利いたミランが、瞳を揺らして問い返してくる。
エイリーンの隣に並んだセルーシャが、淡々と答えた。

「非理っていうのは、グレアフォール王が敷いたことわりに背いた存在のことだよ。
弱った精霊は、微精霊になって弱体化、不可視化するか、もしくは完全に力を失ったら消滅するのが理なんだけど、強力な大精霊が無力化すると、森の維持ができなくなってしまうだろう? だからその場合は、グレアフォールが微精霊化を阻止して、強制的に力を与えることで、消えかけた精霊を再実体化、再可視化させるんだ。王は唯一の、再生を司る古代樹の精霊だからね。そういう例外的に理に背いて蘇らせた存在を、我々は『非理』と呼んでいる。
リーヴィアスは、微精霊化を人間の死と似たようなものだと考えているらしいから、その定義に合わせるなら、『非理』は『動く死人』と同義ってこと」

 自分で言ってから、発言の内容に違和感を覚えたのだろう。
首を捻って、セルーシャはエイリーンを見た。

「……あれ? じゃあエイリーンは、グレアフォールがミランを生かしたって言いたいの? 人間の死は森の維持とは関係ないのに、一体なぜ? それに、人間は微精霊化しないのだから、死んだなら再生させることは不可能だ。王といえども、完全に失われた力を蘇生することはできないよ」

 エイリーンは、不敵に目を細めた。

「何かしたとすれば、グレアフォールではなくリーヴィアスの方だろう。……ずっと妙だと思っていたのだ。奴は以前、自分の息子は殺されたと言っていた。だが、息子を名乗るミランは、こうして動いている。こいつの放つ魔力がリーヴィアスと同じ色であることも、このように虫共が反応していることも、ミランがリーヴィアスの魔力によって生かされている寿命なき『非理』の『死人返り』だと考えれば、説明がつくだろう」

 セルーシャは、初めてこの集落に来た昨朝のことを思い出しながら、納得した様子で頷いた。

「ああ、なるほど。わたしも、リーヴィアスとミランの魔力が全く同質なことは、おかしいと思ってたんだよね。
……でも、だとしたら、リーヴィアスはグレアフォールと同等の──いや、それ以上の再生と蘇生の力を持ってるってことなのかな? 何かを自我を持たせたまま動かすのって、とんでもない量の魔力と集中力が必要になるだろう。導き蝶ユリ・ファルアは微精霊とは違う、そもそも自我のある生き物だけど、それを実体化、可視化させるだけでも結構疲れるもの。リーヴィアスは、それをミランが生きてる年数分、しかもこの場にいないで、続けてるってことでしょう? ……そこまでのことができる人間には見えなかったけどな」

「それは……確かにそうだな」

 今度は、エイリーンの方が首を捻った。
掴んだミランの顎を、更にぐっと持ち上げて、怪訝そうにその銀の瞳を覗き込む。

「グレアフォールや我々以上の魔力を有している人間などありえん。……『死人返り』というのは、わたしの見当違いか? となると、貴様はなんなのだ? 気色の悪いやつめ」

「────……っ」

 ぐっと歯を食いしばると、ミランは、いきなり癇癪を起こしたかのように腕を振り回して、エイリーンの束縛から逃れた。
急に解放された反動で、地面に倒れ込む。
驚いたように飛び上がった導き蝶ユリ・ファルアたちは、しかし、再び舞い戻って、伏しているミランの身体にたかった。
わなわなと拳を震わせながら、ミランは突然、大声で叫んだ。

「──クソッ、クソッ! 気色悪いのはお前たちの方だろう⁉︎ 早く! こいつらを消せ! 消せよ! こんなもの、馬の対価にはならない……!」

 めちゃくちゃに手を振り回し、身体を揺すり、ミランは導き蝶ユリ・ファルアたちを追い払った。
掌が往復して空を切るたび、導き蝶ユリ・ファルアたちは散り散りになって、煙の如く消え去っていく。

 取り乱した様子のミランを見つめながら、セルーシャは、気落ちしたように呟いた。

「……そう、対価にはならないんだ……。だけど、人間にとって珍しいもので、我々が差し出せるのは、その虫くらいしかないんだ。十匹でも、二十匹でも、馬とは釣り合わない? 翅は綺麗だし、明かりの代わりにもなるよ。虫の反応を見れば、ミランの身体がどれくらい悪くて、いつ死んで動かなくなるかの予測がつくと思うし──」

「──うるさいな‼︎ 僕はどこも悪くないし、死なないって言ってるだろう⁉︎」

 凄まじい剣幕で怒鳴られて、セルーシャは口を閉じた。
こちらを睥睨するミランの身体から、どす黒い蒸気のようなものがむくむくと湧き立ち始める。
それは、セルーシャにしか見えない、弱り切った人間がよく放つ"感情の色"であった。

 エイリーンは、忌々しげに両手で長い耳を覆った。

「キーキー甲高い声で叫ぶな、耳障りだ。騒いだとて、お前が普通の人間でないという事実は変わらんぞ。自覚がないのなら、リーヴィアスに何をしたのか問うてみるがいい。どうせ、ちんけな魔術でグレアフォールの真似事でもして、失敗したのだろう。人間にはよくあるこ──」

「──黙れ! 父上を侮辱するな‼︎ 父上は失敗などしていない! だからこうして僕は生きているんだ……っ!」

 叫んでから、ミランはハッと口を閉ざした。
唇をぎゅっと結び、口を突いて出そうになったものを、懸命に堪える。
すると、怒声の代わりに、目から涙が溢れ出た。

 エイリーンとセルーシャが、じっとこちらを凝視している。
深呼吸をしてから、ミランは唸るように言った。

「……ぼ、僕は……僕は、確かにただの人間じゃない。三歳の時に大怪我をして、父上の魔術なしでは生きられぬ身体になった。……でも、死んでないし、この通り成長もしている。いずれ条件がそろえば、魔術を解いても普通に過ごせるようになると、父上も仰っていた。だから、僕は死人返りなどではないし、父上は失敗していない!」

「…………」

 荒く息を吐きながら、ミランはセルーシャたちを睨んだ。
その涙ぐんだ銀の瞳が、毛を逆立てた獣のように、ぎらぎらと底光りしている。
エイリーンは、疑わしげに顔をしかめた。

「……どういうことだ? 死人に自我を与え直して動かしたのではなく、怪我をそもそも無かったことにしたということか……? そんな魔術の存在は、聞いたことない。あるとすれば、やはりグレアフォールの再生の力に近いが、人間に対しては──」

「──エイリーン、この話はやめよう。ごめんね、ミラン。わたしが虫を呼び出したから……」

 その時、セルーシャがエイリーンの言葉を遮った。 
眉を吊り上げたミランが、次は何を言われるのかと、警戒した様子で一歩後ずさる。
ミランに向き直って、セルーシャは、囁きかけるような口調で言った。

「人間は、死ぬって言われるのが怖いんだよね。……悪気はなかったし、嫌がらせのつもりもなかったんだ。ただ、ミランが大病や致命傷を自覚していないんだったら、知らせてあげようと思って……」

「…………」

 ミランは、瞳を揺らした。
セルーシャは、激昂するミランをなだめているつもりのようであった。
だが、癇癪を起こす子供に言い聞かせるような、その哀れむような口調が、余計にミランの神経を逆撫でした。
更に噴き上がってきた怒りを、なんとか喉奥に押しやりながら、ミランは拳を震わせた。

「こ、怖い……? 僕が、死を恐れていると? ──馬鹿にするなッ! 僕は偉大なるシェイルハート家の子で、弱き人々を護る魔導師なんだぞ! 死など怖いものか……‼︎」

 威圧的な口調で、ミランは二人を怒鳴りつけた。
だがセルーシャは、顔色一つ変えず、目尻を下げた。

「……嘘だよ。ミランから、黒くて不安定な色が立ち昇っている。死ぬ間際に泣き震える、怯えた人間が出すのと同じ色だ」

 ミランは、ぎょっと目を見張って、周囲を見回した。
しかし、自身から立ち昇る"黒いもの"など見えない。
目元を袖口で乱暴に拭って、ミランは反論を重ねた。

「ぼ、僕は泣き震えてなどいないし、怯えてもいない! 先程死なないと言ったのは、この集落の人々を守るという大役をまだ負っている最中だからだ! 役目を果たさずには死ねないというだけで、死が怖いというわけではない! むしろ、楽しみなくらいだ……! 名誉の死を遂げた者は、『天国』に行けるんだからな‼︎」

「てんごく……?」

 声をそろえて聞き返し、エイリーンとセルーシャは、同時に目を瞬かせた。
人間たちの文化や生活については、一通り知っているつもりであったが、『てんごく』という言葉には、聞き覚えがなかったからだ。

 てんごく、てんごく……と記憶を探るように呟いてから、セルーシャは尋ねた。

「その、てんごくって何? 初めて聞いた言葉だよ」

 ミランは、一瞬言葉を詰まらせてから、ぼそぼそとした声で答えた。

「て、天国、というのは……生前に善行を積み、誉高い死を遂げた者だけが行ける、天上に築かれた大国だ」

「天上? 空に国があるの?」

「ああ。雲の上にあるから、天災に悩まされることはなく、足元には常に美しい花々が咲いているらしい。一年中温暖で、寒さや暑さに苦しむことがなく、水や食糧も豊富にあるから飢えや渇きに苛まれることもない。善人しか行けない場所だから、争いも全く起こらない。一切の苦しみや悲しみから解放される、人々にとっての理想の大国だ」

「…………」

 なんとも言えない顔で説明を聞いていたセルーシャは、エイリーンと互いに顔を見合わせてから、訝しげに眉を寄せた。

「なんか……古代樹の森みたいな場所だね? ミランは死にかけた時、実際に天国に行ったの?」

 ミランは、もごもごと口ごもった。

「い、いや……僕は行っていないが、父上の叙事詩に、そう書いてあった」

 エイリーンは、吐き捨てるように言った。

「紀行だの叙事詩だの、貴様が語ることは、どれも紙由来の薄っぺらい虚言ばかりだな。どうせそれも、リーヴィアスの作り話だろう。くだらん」

 すかさず凶暴な光を瞳に戻して、ミランはエイリーンに食ってかかった。

「ち、違う! 父上の本は、事実に基づいて書かれているんだ! 僕はないと言ったが、この集落にも、実際に天国を見たという者はいる!」

「天国は、死者しか行けぬ国なのだろう。人間には、貴様のような死人返りが珍しくない、ということか?」

「だから! 僕は死人返りじゃない‼︎ ……死人返りとか、非理とか、そういうのはよく分からないが……。通りに店を構えている小物屋のローデルは、昔、大病にかかって生死を彷徨った際に、天国まで行ったそうだ。高熱で動けなかった体が急に軽くなり、鳥のように天を舞い、雲を突き抜けたら、そこにはこの世のものとは思えぬ美しい花畑が広がっていたらしい。だが、花畑を進んだ先には、死んだはずの父親が立っていて、『まだ来るな』と追い返されたんだと。それで、慌てて来た道を引き返したところ、再び寝台で目を覚ましたらしい。シェイルハート家に仕えている兵士の中にも、全く同じではないが、戦時中に似たような経験をした者が数人いる」

 動揺と興奮でしどろもどろになりながらも、ミランは、死にかけた折に天国の入り口まで行ったことがあるのだ、という人々の経験談を、エイリーンたちに語って聞かせた。
もし瀕死の人間が、何の示し合わせもなく、そろって似たような光景を見たのだというなら、『天国』の存在は、全く架空の創造世界とは言い切れないのかもしれない。
しかし、エイリーンとセルーシャには、やはり根拠のない作り話としか思えなかった。
葬樹そうじゅとして、死にかけた人間などは大勢見て来たが、その死骸が舞い上がって天に昇るところなど、一度も見たことがなかったからだ。

 ミランがようやく話し終えたところで、セルーシャは、うーんと首をひねった。

「人間の死者だけが行ける天上の国なんて、信じられないけどなぁ。ミランの言う通りなら、人間は死んだら飛べるようになるってことでしょう? そんなの、見たことも聞いたこともないよ」

 ミランは、ぶんぶんと首を振った。

「天に昇るのは、魂だけだ。魂っていうのは、人間の意識というか、精神というか……精霊族で言う、目に見えない微精霊? みたいなものだ。生きている内は肉体に宿っているが、死んだら肉体から離れて、良い魂は天国に行けるし、悪い魂は地獄に落ちる」

わたしは微精霊の存在を感じ取れるけど、死んだ人間からそういうものが離れるところは、見たことがないよ? エイリーンはある?」

「ない。人間と獣人は、肉体が滅んだらそれで終わりだ」

 淡々とした、しかし事実を叩きつけてくるような口調で言われて、ミランは、ぎりぎりと歯を食いしばった。
確かにミランも、天国や人魂の存在を、自分の目で確かめたことはない。
死の淵で朦朧としている人間が、夢現ゆめうつつに見た幻なのだろう、と言われれば、強く反論はできなかった。

 赤くなった目と鼻頭をこすって、ミランはもう一度首を振った。

「あ、ある! 絶対ある! 亡き母上も、戦地で倒れた兵士や魔導師たちも、その脚になってくれた馬たちも、皆 天国に行ったんだ! 反対に、母上を殺した西国の奴らは、死んだら全員地獄に落ちるんだ! ぼ、僕は……父上と一緒にこの集落を守って……いつか死んだら、天国に行って、先に到着していた母上に、よく頑張りましたねと褒めてもらうんだ……!」

 ミランの堅苦しい話し方は、素の口調ではなかったのだろう。
途切れ途切れの掠れた涙声は、ひどく幼稚で、感情的な主張を繰り返した。

 やれやれと肩をすくめて、エイリーンは冷淡に返した。

「まだ言うか。死ぬ間際の人間や獣が流れ着く、葬樹そうじゅの森の主である我々が、そんなものはないと言っているのだぞ。天国も地獄も、人間共の単なる妄想だ。貴様のような幼子では、妄想と現実の区別をつけるのは難しいのだろうがな」

 ミランは、涙を飛び散らせながら反論した。

「妄想じゃない! 父上が、天国はある、皆そこにいるって言ったんだ! 僕は確かに子供かもしれないが、父上は大人で、国一番の大魔導師だぞ!」

「我々からすれば、リーヴィアスも数十年しか生きておらん小童こわっぱも同然だ。まあ、人間にしては魔力の扱いに長けているようだが、その口は小賢しく、礼儀知らずで、いかにも妄言を吐き散らそうな性質をしている」

 耳まで真っ赤にして、ミランは怒鳴った。

「馬の一頭もろくに操れない年寄り精霊共が、偉そうに言うな! 父上があるって言うんだから、あるんだよ!」

「なんだと? 聞き分けのないガキが。ないと言っているだろう」

「ある!」

「ない」

「ある‼︎」

「──ない。死んだ人間は、放置すれば腐敗し、最終的には土に還る。焼かれれば、残った骨は埋められると聞くし、喰われた場合には、糧となり血肉となるが、その捕食側もいずれは死んで土に還る。善人も悪人も関係なく、貴様も、リーヴィアスも、死ねばすべからく土になるのだ」

「…………」

 ついに反論をやめると、ミランは俯き、ふつりと黙り込んだ。
やがて、その肩が、ふるふると小刻みに震え始める。
次はどんな抗弁を垂れるつもりか、と鼻を鳴らしたエイリーンが、ミランの前髪を掴んで、無理矢理に顔を上げさせた時──。
彼の喉から、突如として、爆ぜるような泣き声がほとばしった。

「──っふ、ぅ、うぁあぁあああっ‼︎」

 涙を浮かべつつも、なんだかんだで毅然と言い返していたミランからは想像もつかない、癇癪を起こした大絶叫が、厩舎きゅうしゃ中に響き渡った。
驚いた馬達が、一斉にびくっと頭を持ち上げ、ミランを凝視している。
あまりに凄まじい泣きじゃくり方だったので、エイリーンとセルーシャも、思わず後ずさって耳を塞いだ。

「ミ、ミラン⁉︎ ……ミラン! 落ち着いて、どうして泣くの? 口調がきつかったかもしれないけど、エイリーンの言ったことは事実だよ。ミランは、死ぬのが怖いのに、そんなに"天国がある"っていう想像をしたいの?」

 ミランの叫喚にかき消されないよう、セルーシャは声を張って尋ねた。
だが、その問いは、彼には届いていないようだった。
泣き声は、弱まるどころか、一層激しさを増していく。
耐えきれなくなって、エイリーンはミランの細い首に手を伸ばした。




「おい黙れ! 今すぐ黙らんと、喉笛を引き裂くぞ!」

 セルーシャ以上の大声で叫んだので、聞こえたはずであったが、それでもミランは、泣き止まなかった。
それどころかミランは、反抗的に頭を振り、エイリーンの手から逃れようと、無茶苦茶に腕をぶん回した。
本当に喉を裂いてやろうかと、指先に魔力を込めたエイリーンの鋭利な爪が、彼の首筋に触れた──その時。

 突然、背後から飛来した木桶もくおけが、エイリーンの顔のすぐ横を、ブォンッと勢いよく通り過ぎていった。

「──っあ、貴方達! ミラン様に何してるの⁉︎」

 声がした方に振り返ると、厩舎きゅうしゃの入り口に、ミランとそう変わらない年頃の女が立っていた。
エイリーン目掛けて木桶を投げたのは、どうやらこの女らしい。
おそらくは、外で見張りをしていた、ミランの従者の一人だろう。
といっても、兵士や魔導師ではないようで、彼女は、武器の代わりにほうきを持って、こちらに突撃してきた。

「は、離れなさい無礼者! 無礼で野蛮な、精霊共め
……!」

 エイリーンとセルーシャの元に突撃してくると、女は目を瞑った状態で、闇雲にブンブンと箒を振り回した。
避ける価値もない、稚拙で弱々しい攻撃であったが、よく見ると、箒の穂先には、おぞましい汚れが付着していた。
──馬糞だ。

 反射的にエイリーンが後退すると、女はすぐさま両者の間に割って入り、ミランを守るように抱え込んだ。

「衛兵! 衛兵ーっ! こいつら、ミラン様の首を絞めてたわ! 早く捕らえて……!」

 彼女に追いついてきた、同じく見張りをしていたのだろう兵士や世話人たち数人が、続々と厩舎きゅうしゃ内に駆け込んでくる。
彼らは、素早くエイリーンとセルーシャを取り囲むと、それぞれの得物を構えた。
その全身から滲み出ているのは、警戒と怒り、そして色濃い恐怖の色である。

「ミ、ミラン様! ご無事ですか⁉︎」

「貴様ら! その場に膝をつけ! 魔力を収め、両の手を上げるんだ!」

 血走った目でこちらを睨みつけながら、兵士達は、じりじりと距離を詰めてくる。
剣を握る手も、足も小刻みに震えていたが、今は恐怖よりも怒りが勝っているようで、彼らが発する殺意は本物であった。

 要求に従ってやる必要性は感じなかったので、エイリーンは指先に魔力を込めたまま、その場に立っていた。
リーヴィアスの不興を買うことを避けるならば、軽くいなして、戦意を喪失させるくらいに留まるべきだ。
しかし、敵わないと分かっていながら歯向かってくる、捨て身の心理状態に陥った人間達には、どのような脅し返しも通用しないだろう。
人間は、魔力の面では精霊族に劣り、身体能力の面では獣人族に劣る種だが、団結すると、妙な無謀さと諦めの悪さと発揮することがある。
この状況においては、さっさと全員殺して、良さげな馬を掻っ攫っていったほうが面倒が少ないように思われた。

 ──まず、最初に斬りかかってきた人間を殺す。
エイリーンはその気でいたが、セルーシャは例の如く、交戦は避けたいようであった。
不意に、横からクイクイとエイリーンの袖を引き、セルーシャが呟いた。

「エイリーン、もう帰ろう。この人達、今は何を言っても聞いてくれなさそうだ。ひどく怒らせてしまったみたい」

 眉を寄せて、エイリーンは聞き返した。

「良いのか? まだ馬を手に入れていないが」

「良くはないけど……この状況じゃ、馬術の助言なんて二度とくれなさそうだし、くらや新しい手綱も用意してくれなさそうだ。馬だけもらっても、また逃すのが落ちだよ。今は一旦引いて、後々リーヴィアスにお願いするほうが良いと思う」

「……分かった」

 エイリーンは渋々頷くと、厩舎きゅうしゃの出入り口側に立っていた兵士に向けて、指先をヒュッと横に動かした。
その動きに連動して、兵士の身体も横に吹っ飛び、馬房内の敷き藁の山へと突っ込む。
その隙に、エイリーンとセルーシャは手を取り合うと、鈍足ながら、外を目指して駆け出した。

「──あ、クソッ、待てっ!」

 慌てた兵士たちが、背後で剣を振りかぶり、勢いよく斬りかかってくる。
彼らの接近を認めたエイリーンとセルーシャは、今度は、天井の木はりに指先を向けた。
二人の指が、同時にヒュッと振り下ろされる。
──直後、魔力を帯びた木梁が変形し、音を立てて軋み始めた。
瞠目し、一瞬立ち止まった兵士たちが、右往左往しながら上を見上げる。

「うわっ、な、何だ!?」

 次の瞬間、木梁の変形に耐えきれなくなった天井にバキバキと亀裂が入り、その一部が崩れ落ちてきた。
砕けた木片と塵が雨のように降り注ぎ、仰天した兵士らは、悲鳴を上げながらミラン達の元へ走り戻った。
覆い被さってきた兵士たちの下で、咄嗟にミランが何かを唱えたことで、落下してきた瓦礫は宙で静止した。
だが、彼らにもう、エイリーンとセルーシャを追いかける余裕はないようだ。

 明るい外に飛び出すと、シェイルハート家に仕える従者らしき人間達が、他にも大勢わらわらと集まってきていた。
厩舎きゅうしゃの天井が崩落した音を聞きつけて、一体何事かと様子を見にきたのだろう。

 エイリーンとセルーシャは、そんな彼らも同じような手法で脅しつけ、散らしながら、どうにか人間たちの集落から脱出したのであった。


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