トップページへ
目次選択へ
投稿日:2026年01月06日
セルーシャの気配を探りながら駆け戻り、古代樹の森と霧の森の境まで来たあたりで、エイリーンはレクエスを止めた。
霧の向こうから、朧げな人影がゆったりと歩いてくる。
影は、やがて霧を掻き分け、エイリーンたちの前まで出てくると、瞠目して立ち止まった。
「……あれ、エイリーン? どうしたんですか、その泥だらけの格好……」
「…………」
現れたのは、今日も弔いの儀に同席しようとやってきた、ゴーティに乗ったリーヴィアスであった。
普段とは全く異なる様相のエイリーンを見て、驚いたのだろう。
丸くした目でエイリーンを見やり、次いで見慣れない荒削りの木馬を見やり、唖然としている。
その銀眼と目が合った瞬間──背後に迫っていたどす黒い何かが、エイリーンの身を呑み込んだ。
水脈から溢れ出していたものが、一層黒く濁って奔流となり、思考を全て押し流していく。
(……もしや、こいつが、セルーシャを拐かした……?)
黒ずんだ思考の中で、不意に、そんな考えがよぎった。
セルーシャが、自らの意思で自分の元を離れたとは思えない。
霧の森周辺に、セルーシャに害を成そう、などと無謀な考えを起こす精霊がいるとも思えない。
いるとすれば、葬樹の恐ろしさを知らない、この無知で短慮な人間だ。
リーヴィアスはここ最近、ずっとセルーシャに"怒り"を向けていた。
その理由が集落のことなのか、息子のことなのかは分からないが、きっとその柔和な笑みの底に、敵意を隠し持ち続けていたのだ。
でなければ、他にセルーシャがいなくなった原因が思いつかなかった。
ふぅう、と息を吐くと、エイリーンは低く、唸るような声を出した。
「……リーヴィアス、貴様……セルーシャをどこにやった……?」
「セルーシャ……?」
途端、空気の流れが変わった。
不穏な風が渦を巻き、霧を散らし、周囲の木々を戦慄させる。
反射的に馬上で長杖を身構えたリーヴィアスは、怯えて足踏みするゴーティを落ち着かせながら、戸惑ったように聞き返した。
「……ええっと、セルーシャ、どこかに行っちゃったんですか? 私は見かけてませんが──」
「──答えろ‼︎」
エイリーンの一方的な怒声に触発されたように、突然、足元に亀裂が走り、木々の根が地を割って飛び出した。
足場が沈んで動転したゴーティが、高く嘶き、棹立ちになる。
リーヴィアスは咄嗟に手綱を引き、ゴーティを大きく跳ね上がらせて、陥没していく底から脱した。
次いで、振り向き様に長杖を掲げ、吹き荒れる風の刃を跳ね返そうとした。
なぜ攻撃されているのか、理由は全く分からなかったが、とにかく今は、エイリーンを一旦冷静にさせる必要がある。
そのための威嚇攻撃を行うつもりであった。
──が、次の瞬間。
エイリーンに向けられた杖先が、クルリと反転し、リーヴィアス自身の目前に突きつけられた。
杖を握る右腕が、リーヴィアスの意思に反して、勝手に動いている。
エイリーンの指の振りに合わせ、魔力を練り上げ、エイリーンに向けるべき攻撃を、己に向かって放とうとしている。
それはまるで、見えない木の根が右腕の中に入り込み、肉体の主導権を奪おうと、皮下で根付いているかのような感覚であった。
「──ちょっ、ちょっと待った! エイリーン! いきなりなんですか⁉︎ 私は昨日の弔いの儀以降、セルーシャには会っていません……!」
自由の利く左腕で、必死に右腕を押さえ、リーヴィアスは叫んだ。
だが、暴風に邪魔されて聞こえなかったのか、聞こえていて無視しているのか、エイリーンは何も答えなかった。
そうこうしている内に、杖先に浮かんだ反転の魔法陣が、発動直前の光を帯びて浮き上がる。
威嚇のつもりで術式を組んだ自分の魔術とはいえ、この至近距離で浴びたら、おそらく軽傷では済まない。
渦巻く霧風の中、乱れる銀髪の合間から、リーヴィアスは、こちらに指先を向けているエイリーンを見た。
炎の如き怪光を帯びた瞳が、爛々と光っている。
その目の鋭さに貫かれて、リーヴィアスはゾッとした。
冗談ではない。エイリーンは本気だ。
日頃から何かと物騒な脅し文句を突きつけてくるエイリーンだが、今回は脅しではなく、本気でリーヴィアスのことを殺そうとしているのだ。
「────……っ!」
リーヴィアスはやむなく、左手で捻り上げた右手首を、思い切り鞍の前橋に叩きつけた。
反射的に緩んだ右手から、長杖が滑り落ちる。
転がった長杖から、攻撃先を見失った反転の魔術が暴発すると、目を開けていられないような突風が、リーヴィアスとエイリーン双方に襲いかかった。
それぞれ落馬して、ひび割れた地面に叩きつけられる。
強く背を打ち、痛みに呻きながらも、リーヴィアスは、すぐさま落とした長杖を拾い上げた。
しかし、リーヴィアスが体勢を整えるよりも、エイリーンが次の攻撃を仕掛けてくる方が速かった。
引き抜かれた木々の根が、伸び上がった幹や枝が、鋭利な槍の雨となって、リーヴィアスとゴーティを貫かんと降り注ぐ。
「──っ、護れ!」
リーヴィアスは、瞬時にそれだけ唱えると、半球状の結界を展開させた。
こんな即席の結界で防げる攻撃でないことは分かっていたが、これ以上に強固な結界を張る余裕も、新たな術式を組み立てる時間もない。
どう打開するべきかと迷っている一瞬の間にも、飛来する木の槍は、みるみる数を増やしていく。
無数の槍に突かれて結界に入ったひび割れは、徐々に大きく、深く広がっていき、リーヴィアスの焦燥感を加速させた。
ついに、結界を貫通した一本の木の槍が、リーヴィアスの肩をかすって、地面に突き刺さった。
ぶわっと、全身に冷や汗が滲む。
もはや、躊躇っている場合ではないのかもしれない。
この状況を、唯一打破できる可能性がある術は、既に頭に浮かんでいた。
あまり広く知られるべきではない、特に異種族には披露したくない術なのだが、ここで行使せねば、自分は道半ばで倒れることになるだろう。
あと少し──結界が持ち堪えるようにと祈りながら、リーヴィアスは、意を決して詠唱した。
「──汝、支配と復讐を司る地獄の王よ。従順として求めに応じ、我が身に宿れ……!」
唱え終わったのと、複数の木の槍が結界を突き破ったのは、ほぼ同時であった。
リーヴィアスを刺し貫かんとした木の槍が、すんでのところで、一斉に灰化する。
視界が明滅して、エイリーンは思わず目を細めた。
続いて迫ってきたのは、耳をつんざくような雷鳴である。
突如、リーヴィアスの杖先から迸った幾筋もの稲光が、数多の木の槍をことごとく焼き尽くしたのだ。
(……なんだ? 本当に人間の魔術か……?)
雷光の残滓を、呼び寄せた巨木で払いのけてから、エイリーンは視線を落とした。
リーヴィアスは、えぐれて沈降した地の底で、激しく咳き込んでいる。
流石はグレアフォールの寵人と言うべきなのか、人間一人にこれほど長く抵抗されるとは、予想外であった。
視界を埋め尽くしていた木の槍を全て稲妻で薙ぎ払い、リーヴィアスは、ゴーティを後退させた。
そして、今度こそエイリーンに一撃届かせようと、再度雷撃を放った。
しかし、たちまち新たに伸びてきた無数の木の根や枝が、時に鞭のように、刃のように振る舞って、雷光の行手を阻む。
気づけば、とてつもない物量に押し切られ、自分は再び木の槍に包囲されていた。
まるで、森全体がエイリーンの手指となって、リーヴィアスを握り潰さんとしているかのようだ。
(捌ききれない……!)
次々に差し向けられる木の槍を、どうにか雷光で弾きながら、リーヴィアスは歯を食いしばった。
防戦一方ではいずれ押し負けるという自覚はあるが、攻撃に転じる隙がない。
エイリーンは、今でこそ小柄な人の姿をしているが、セルーシャと共に広大な北の森の主として千年以上生きてきた、強大な力を持つ大精霊である。
勿論、知識としては知ってはいたが、実際に対峙してみて、その圧倒的すぎる力差を思い知った。
エイリーンは、その無尽蔵とも思われる魔力を以て、何の詠唱も予備動作もなく、森全体を操って見せている。
そのような桁違いで放胆すぎる力に対し、正攻法で挑んで勝てるわけがない。
正直のところリーヴィアスは、最初の雷撃で、木の槍だけでなく、エイリーン自身も焼くつもりだったのだ。
その渾身の一撃が通じていなかった時点で、単純な真っ向勝負の勝敗は決してしまっていた。
雷撃をくぐり抜けた木の槍が、一閃、リーヴィアスの身に迫った。
死を覚悟した瞬間──何かがリーヴィアスの背を突き、浮いた身体をグンッとすくい上げた。
木の槍は、銀髪をかすって地面を穿つ。
左手に触れた手綱を、リーヴィアスは咄嗟に握り込んだ。
頭でリーヴィアスの胴を押し上げ、その背に乗せて走り出したのは、ゴーティであった。
慌てて頭上に雷撃を走らせ、リーヴィアスは、降り注ぐ木の槍を焼き払った。
ゴーティは、崩壊して隆起した地表を、息荒く駆け上がっていく。
防ぎ切れなかった木の槍は、ゴーティの足跡を貫いた。
覆い被さってくる木々が、ゴーティの速さに追いつけていないことを悟ると、リーヴィアスは今度こそ、エイリーンのいる前方めがけて雷撃を放った。
青白い雷光が、凄まじい咆哮をあげ、うねり、大気中で分岐しながら、四方八方に爆ぜる。
常に薄暗い霧の森が、その一瞬だけ、真昼のように明るく照らし出された。
エイリーンは、指先を動かすと、近くにあった大木の枝葉を伸ばし、振り抜き、盾のように使って雷光を弾き返した。
飛散した雷撃の余波が霧を裂き、空気中を跳ねる。
その一部が、レクエスの木肌を焼き、エイリーンの衣の裾を焦がす。
長い黒髪が、バチバチッと電気を帯びる。
エイリーンの意識が、自身の髪に一瞬それた──その瞬間に、リーヴィアスは叫んだ。
「──セルーシャは、古代樹の御座に……!」
ぴたりと、エイリーンが動きを止める。
炭化して割れた木の盾が、煙を上げて崩れる中から、エイリーンの声が低く響いた。
「……見たのか? セルーシャを、古代樹の御座で……」
沈んだ地盤から、なんとか這い上がったゴーティたちが、エイリーンの目の前に躍り出る。
ゴーティから滑り落ちるようにして降り、息を整えながら、リーヴィアスは付け加えた。
「い、いや……御座に……先に行ってるんじゃないかなぁ、と思ったんですけど、いなかったんですか……?」
「…………」
エイリーンは、鋭く目を細めた。
酸欠で半開きの口から舌を垂らしているゴーティを後ろに下がらせ、リーヴィアスは、祈る思いで、こちらを睨む橙黄色の瞳を見上げていた。
ふいに目を伏せると、エイリーンは答えた。
「……いなかった。霧の森にも、古代樹の御座にも、どこにもいない……」
「……そ、そうですか……」
ひとまず、エイリーンが聞く耳を持ってくれたことに安堵して、リーヴィアスは胸を撫で下ろした。
あのまま問答無用で攻撃され続けていたら危なかったが、会話ができるなら、事態はどうとでも変えられる。
セルーシャの消息に全く心当たりはなかったが、とりあえずその名前を叫んでみる、という場当たり的な作戦は、一応功を奏したようであった。
しかし、息をつけたのもつかの間、エイリーンが再び、指先に魔力を宿した。
「…… 微精霊たちは、特に変わった反応を示しておらん。第一、セルーシャが一人で古代樹の森をうろつく理由がない。我と変わらぬ細足で、一晩の内にそう遠くへ行けるはずもない。考えられるとすれば……普段、精霊族の領域に出入りしている、足の速い者に攫われて、森の外に出されたか……」
改めて、自分に疑念を向けられているのだと察して、リーヴィアスはブンブンと手を振った。
「さっきも否定しましたが、私じゃないですよ。昨日からセルーシャには会っていませんし、行方についても何も知りません!」
「虚言を吐くな! 貴様がセルーシャを拐かしたのだろう! 我らが倅に接触したことを根に持って、セルーシャに害する機を、眈々と窺っていたのだ!」
「違いますって! 本当に何も知りません! 大体、私が何か仕掛けていたとして、セルーシャがそう簡単に攫われると思いますか? 私はか弱い人間ですよ?」
「それは……確かにそうだな……」
「…………」
疑念が晴れたらしいエイリーンの指先から、魔力が消えていく。
深くため息をついて、リーヴィアスは、脱力したようにその場に座り込んだ。
何の根拠もない、こんな薄っぺらい思い込みで襲われたのだと思うと、全く笑えなかった。
- 35 -
🔖しおりを挟む
👏拍手を送る
前ページへ 次ページへ
目次選択へ
(総ページ数84)