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投稿日:2026年01月06日
エイリーンとリーヴィアスが麓の盆地に辿り着いたのは、崖道を下り始めて、三日目の夕刻頃のことであった。
金色に輝く黄昏の光が、広大な森に降り注いでいる。
あの光が西に沈むと、次に空を覆うのは、塗り込めたような夜の闇だ。
二人は、寒さをしのげる岩陰に入ると、魔術で焚き火を起こし、野営の支度を整えたのであった。
火の暖かさが岩陰全体に行き渡ると、エイリーンは、硬そうなレクエスを枕にして、さっさと眠ってしまった。
一緒に旅をし始めて知ったことだが、エイリーンは、何刻でも眠れる質のようであった。
最初こそ朝も夜も関係なく、セルーシャを探すと大騒ぎして聞かなかったが、リーヴィアスとゴーティは、休まず走り続けることなどできない。
それに、闇雲に駆けずり回ってもセルーシャは見つからないだろう、と諭し続けたところ、最近はむしろ、起こすのに苦労するくらい毎晩深く寝入るようになった。
今思えば、鈍足で立ち歩くことを嫌っていたり、やたらと馬に執着したりしていたあたりでなんとなく察せられていたことだが、どうやら樹の精霊にとって、移動するという行為は本当に苦痛らしい。
強大な魔力を操る大精霊といえども、得意不得意はあるものだ。
長く生きてきたエイリーンにとっても、生活圏を出て他の領域に渡るということは、きっとかつてないほどの大掛かりな旅で、それなりに消耗しているのかもしれなかった。
明かりの近くで地図を広げ、北東の湿地への道程を確認していた時。
リーヴィアスは、木の下で草を食んでいたゴーティが、突然、何かを警戒したかのように顔を上げ、静止したことに気づいた。
その耳が、ピンと真っ直ぐに立ち上がっている。
怪訝に思って岩陰から出てみて、リーヴィアスは、はっと息を呑んだ。
見上げた崖の上で、夕闇に紛れて、何かが動いている。
複数の黒い影が、崖の際から顔を出して、こちらを覗き込んでいる。
それらは、やがて息荒く岩場を駆け下りてくると、藪の中を掻き分けて、リーヴィアスたちを取り囲み始めた。
(……狼か)
リーヴィアスは、ゴーティを連れて岩陰に戻ると、焚き火のそばに置いていた長杖を取った。
そして、身を丸めているエイリーンの肩を揺すって、小声で囁いた。
「エイリーン……エイリーン、起きてください。狼が出ました」
何度か声をかけたが、エイリーンは目を開けなかった。
瞼を閉じたまま、鬱陶しそうにリーヴィアスの手を払いのけると、エイリーンは眠たげな声で答えた。
「……道理で、臭いと思った。早く何とかしろ。獣は嫌いだ」
「な、何とかしろって……追い払うの手伝って下さいよ」
「…………」
エイリーンは顔をそむけると、反対側に寝返って、再び無反応になった。
どうやら、手伝う気は一切ないらしい。
リーヴィアスは、やれやれと肩を落として、仕方なく一人で岩陰を出た。
茂みの中を行き来しながら、狼たちは、既に布陣を整えていた。
宵闇の下、沢山の光る黄色い目が、じっとこちらの様子を窺っている。
低い唸り声で仲間とやりとりしながら、いつリーヴィアスたちに飛び掛かろうか、どのようにして仕留めようかと、算段を立てているようであった。
リーヴィアスは、長杖をくるりと構え、その先に魔力を宿した。
その仕草が刺激になったのか──刹那、黒い影が次々と藪から飛び出してくる。
迫ってきた最初の牙が届く前に、リーヴィアスは、長杖の石突をタンッと地面に打ちつけた。
すると、唐突に足元から噴き上がった炎が、リーヴィアスを守る障壁のように広がった。
猛烈な勢いの熱と光に苛まれて、狼たちは、情けない声を上げながら慌てて後退していく。
しかし、これは幻術の炎であった。
視覚的には燃えているように見えるし、触れれば熱さも感じるが、実際に周囲の木々や狼たちを焼き殺すことはない。
賢い狼たちならば、わざわざ殺さずとも、炎を操れる人間がいると理解するだけで撤退していくだろう。
リーヴィアスは、幻術だけでこの場を乗り切るつもりであった。
狼たちはしばらく、低い唸り声を上げながら、炎の壁の周りをうろうろと歩き回っていた。
近づこうにも近づけず、炎の勢いが弱まるのを待ち構えているようだ。
ならば、炎の範囲を一層拡大してやろうと、リーヴィアスが再び魔力を練り上げた──その時。
唸り声ではなく、何かを指示するような強い吠え声が、茂みから響いた。
(この声は──)
振り向いて声の主を確認する間もなく、狼の内の一匹が、炎の中に突っ込んできた。
そして、まるで幻術であることを見抜いたかのように、難なく炎の壁をすり抜け、長杖に食らいついてくる。
咄嗟に振り払うと、狼はギャンッ、と悲鳴をあげて地面に叩きつけられた。
が、息をつく暇はない。
その一匹に倣うように、他の狼たちも、次々と炎の壁を超えてきている。
一斉に飛びかかられれば、全てを防ぐことはできず、その牙がこちらの喉笛を噛み裂くこともあり得るだろう。
幻術が無効になったことを悟ると、リーヴィアスは炎を消した。
次いで、自分の周りに結界を張るのと同時に、先程吠え声が上がった茂みに向かって、今度は本物の突風を放った。
周囲の木々が折れ、枝葉が散り、薮の奥から、大柄な影がむくりと起き上がる。
茂みを踏み分け、月光の下に歩み出てきたそれは、狼──ではなかった。
頭部は完全なる狼で、全身を包む褐色の毛皮も獣のそれなのだが、二足で立ち、手足には人間と同じような発達した五指が備わっている。
狼たちを統率していたのであろう、その二足歩行の賢い大狼──人狼族を見て、リーヴィアスは、驚いたように目を瞬かせた。
「──って、あれ? 貴方、ガロウの一族の人狼じゃないですか? どうしてこんな北に……?」
ガロウ、という言葉を聞いた瞬間、人狼も狼たちも、一斉に唸るのをやめてリーヴィアスに向き直った。
だが、その黄色い瞳には、まだ敵意が宿っている。
リーヴィアスは、困ったように口ごもった。
それから、結界を解いて構えていた長杖を下ろすと、身振り手振りを交えながら、ゆっくりとした口調で言い直した。
「ああー、えっと、人語、分かりますか? 貴方たちは、ガロウの一族の狼、ですよね? 私は人間で、リーヴィアス・シェイルハート、と言います。ガロウの友人ですよ、敵ではありません」
「……リー、ヴァ、ヴ、グアス……」
人狼は、牙がずらりと並んだ大口を辿々しく動かして、拙い人語を呟いた。
「……ガロウ……リーヴァ、ヴァ、ァ、アガス……」
「ア、アガス? ……すみません、もう一回言ってもらえます? ガロウと私が、なんですって?」
うまく聞き取れず、リーヴィアスが聞き返すと、人狼はもどかしそうに口元を掻きむしった。
その後も、何かを言いたげにぶつぶつと単語を呟いていたが、いつまで経っても伝わらないので、苛立ったらしい。
顔を上に向けると、すうっと息を吸い込んで、いきなり遠吠えをした。
夜空を突き抜けるような低音が、次第に高くなり、遠くへと響き渡る。
その声に続くように、周囲の狼たちも、顔を上げて吠え始めた。
共鳴する狼たちの声が、輪唱のように重なって、大気を震わせる。
すると、程なくして、岩場を駆る複数の足音が近づいてきた。
リーヴィアスがハッと上を向くと、崖の上──切り立った岩の縁に、一際風格のある巨大な影が見えた。
狼たちの遠吠えに応えて、駆けつけたのだろう。
雲間から差し込んだ月光を背負い、夜風に褐色の毛並みをなびかせ、こちらを見下ろしている。
影は、力強く崖の縁を蹴って飛び上がった。
そして、崖道を経由せず一っ飛びで、ドンッと強靭な後肢を大地に突き立て、リーヴィアスの目の前に着地した。
彼に付き従っていた人狼たちも、素早く崖を下って、続々とリーヴィアスの周囲に集まってくる。
降り立った巨軀は、ただですら大柄な人狼たちの中でも抜きん出ていた。
暗がりで見上げると、そびえ立つ木々と見紛うほどに丈高い。
筋骨隆々とした四肢は丸太のように太く、時折光って見える爪牙は刃のように凶悪で、黄色く鋭い眼光は、こちらを射抜かんと細められている。
周りの狼や人狼たちが、次々と姿勢を低くして引き下がり、頭を垂れた。
その中を悠々と歩いてくると、一際巨大な人狼は、リーヴィアスの前で立ち止まった。
「……リーヴィアス、ようやく見つけたぞ。俺たちは、ずっとお前を探していた……」
流暢な人語だが、一方で、狼たちの唸り声にも似た、低く、威圧するような声であった。
リーヴィアスは、ぱちぱちと目を瞬かせてから、ぱっと笑顔になった。
「ガロウ! お久しぶりですね。……あ、もしかして、さっきの君は『ガロウが私を探してる』って伝えたかったのかな。何かあったんですか?」
先程話そうとしていた人狼と、目の前にいる巨大な人狼──ガロウを交互に見やりながら、リーヴィアスがにこやかに問いかける。
ガロウは、すっと目を細めた。
それから、ドスドスと大股で背後の森まで歩いていき、突然、太腕で木の幹を掴んだかと思うと、一抱えほどもあるそれを、バキバキと根ごと引き抜いた。
「えっ⁉︎ ちょっ、待──!」
慌てるリーヴィアスに構わず、ガロウは、大木を肩の上に担ぎ上げた。
それから、槍を投擲するような動作で上半身をひねると、振りかぶった大木を、思い切りリーヴィアスに向けて放った。
「何かあったんですか? じゃねぇええっ! こんっの大ボラ吹きがぁっ‼︎」
ガロウの怒声と共に、大木が迫ってくる。
リーヴィアスは、反射的に長杖を前に出すと、自身の身を守るように結界を張った。
瞬時に展開された結界が、突っ込んできた巨木を弾き返す。
直後、軌道の逸れた巨木を見て、リーヴィアスは、しまった、と思った。
宙を舞った巨木は、思いがけない方向にすっ飛んで、エイリーンやゴーティたちがいる岩陰の方に突進していったからだ。
「──エイリーン、起きて……!」
咄嗟の叫び声と同時に、岩壁に直撃した巨木が、凄まじい轟音を立てながら砕けた。
衝撃で地面が揺れ、一瞬、視界が土煙に覆われる。
リーヴィアスは、パラパラと降ってくる細かい石礫を払いながら、岩陰の方に駆け寄った。
──が、方向転換し、急いで引き返した。
岩壁に突っ込んだ巨木が、エイリーンの魔力を孕んで膨張し、変形し、無数の枝葉を伸ばして、いきなり全方向に掴み掛かったからだ。
「ガロウ、伏せて──!」
リーヴィアスは、今度はガロウに向けて叫んだが、その警告は間に合わなかった。
一直線に伸びた太い枝々が、瞠目したガロウの巨体を捕え、絡め取り、ギチギチと締め上げるように巻きつく。
巨木を引き抜いてみせた剛腕でも抗えない、強烈で一方的な締め付けであった。
浮いたガロウの両後肢が、苦しげにバタバタと動く。
怒った人狼たちは、自分たちの長を救い出さんと、牙を剥き出し、枝に喰らい付いた。
しかし、噛み裂いた部分から新たな枝が生えてきて分岐するばかりで、ガロウを縛り上げる力は、全く緩む気配がない。
悪戦苦闘している内に、別方向から伸びてきた枝に蹴散らされ、狼たちは、成す術なく地に叩きつけられてしまった。
まるで、意思を持った木の鞭が、嵐の如く吹き荒れているかのようだ。
激しく吠えていた狼たちの声が、次第に、キャンキャンと降伏を示すような甲高いものに変わっていく。
やがて、土煙がおさまると、エイリーンの華奢な姿が、岩陰からゆらりと出てきた。
その後ろには、いきなり木が突っ込んできて驚いたのであろうゴーティと、特に命令がないので困っているらしいレクエスが、二頭で寄り添っている。
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