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投稿日:2026年01月06日
咳き込みながら、リーヴィアスが駆け寄ってきた。
「エイリーン、この数がどこへ逃げたか、どこに隠れているかを把握して山から追い出すのは不可能です。あの巨体で襲われても困りますが、さっきみたいに一つでいてくれた方が、まだやりようはあります。レクエスくんみたいに追いかけ回せば、元に戻せるものですか?」
遠くで奮闘していたレクエスが、ヘドロに足を滑らせて、ベチャッと横転する。
その様子を呆れたように眺めながら、エイリーンは嘆息した。
「そもそも沼畔族は、この一つ一つの塊が一体の精霊で、分裂している状態が自然だ。巨大化した方が有利な状況に追い込めば、また集合体に戻るやもしれんと思ったが……あの木偶の坊に嗾ける役は無理だな。
沼畔族を分裂させたのは貴様らだ。狼連中と貴様でどうにかしろ」
吐き捨てるように言うと、エイリーンは、レクエスに引き返すよう声をかけた。
どうにかしろと言われても、ガロウたちは悪臭のせいで意識が朦朧としているようなので、動けるのは実質リーヴィアス一人だ。
リーヴィアスは、困ったようにポリポリと頬をかいた。
「考えなしに魔術を撃ってしまったことは謝りますから、そう言わずに助けてください。ほら、ガロウたちとも取引をしたでしょう。無事に沼畔族を追い払えたら、この悪臭も晴れて、セルーシャを探しやすくなるかもしれませんよ」
駆け戻ってきたレクエスの手綱を握り、エイリーンは冷たく答えた。
「この辺りにセルーシャはいない。……沼畔族を訪ねたものの、予想外に腐敗と浸食が進んでいたから、おそらく別の場所で自然とヘドロが干上がるのを待っているのだろう」
「どうしてそんなことが分かるんです?」
「……他に考えられる可能性がない。沼畔族の状態を確認できる近隣にはいるだろうから、今から一帯を巡って探し出す」
「…………」
一旦口を閉じて、リーヴィアスは、じっとエイリーンの横顔を見つめた。
エイリーンは、明確な根拠があって言っているわけではなく、ただそう思い込みたいだけなのだろう。
正直なところ、リーヴィアスも、この山にセルーシャがいるとは思っていない。
なんなら、近隣の山々一帯にもいないだろうと踏んでいるし、セルーシャが巨人族や沼畔族を訪ねて長旅に出た、などという予想自体、外れだろうと考えている。
そんなことは、誰よりもセルーシャの性格を知っているエイリーンこそ、分かっているはずだ。
しかし、その一方でエイリーンは、わずかな望みに賭けてここまで来たのだから、もうすぐセルーシャに再会できると信じたいのだ。
セルーシャのことが絡むと、エイリーンはこういった盲目的な理屈で動くので、説得するのも一苦労である。
さて、どうこの場に留まらせようか、とリーヴィアスが次の言葉を考えていた──瞬間。
レクエスの内腿にへばりついていたらしいヘドロの塊が、突然、腹から背中へと迫り上がってきた。
エイリーンがレクエスに乗り込もうと、鎧に足をかけたので、急いで逃げようとしたのだろう。
鞍を踏み台にして、勢いよく高く飛び上がる。
その飛沫が、思いがけず、エイリーンの顔面にビチャッとかかった。
咄嗟のことで閉じきれなかった目にヘドロが沁み込み、前後不覚に陥って、デロデロの地面に尻餅をつく。
エイリーンの身体が、ぐじゅっと嫌な音を立てて汚泥に沈み、リーヴィアスはアッと声を漏らした。
焦ったレクエスが、その襟首をくわえて上に引っ張り、立ち上がらせると、エイリーンの衣の裾から、ヘドロなのか腐水なのかよく分からない汚汁がポタポタと滴った。
「うわぁ……大丈夫ですか?」
「…………」
思わず鼻をつまみながら、リーヴィアスが様子を伺ってくる。
エイリーンは、しばし沈黙してから、汚れていない袖口で顔を拭い、ふぅうっと長く息を吐いた。
そして、レクエスを押しのけ、リーヴィアスも押しのけ、ゆっくりと前に歩いていくと、不意に、片足で地面を力強く踏み鳴らした。
ドンッ、とそこから波紋が広がるように、足場が大きく波打つ。
エイリーンの脚から派生した複数の樹根が、バキバキと地表を割り裂き、大地の奥深くまで張り巡らされていく。
リーヴィアスは瞠目して、脈動する地面を見やった。
エイリーンから伸びた葬樹の根が、山々を支える地盤を覆い込もうと、地中を這い進んでいるのだ。
「──エ、エイリーン⁉︎ ちょっと待って、何をする気ですか……!」
エイリーンを止めようとした手は、しかし、バチッと大気中で弾かれた。
触れられるほどの濃い魔力が、臭気を払って辺りに充満する。
至る所に隠れていた沼畔族たちが、熱された鉄の上に放り出されたかの如く踊り始め、もがき苦しみ、蒸発していく。
どこからともなく、何かが軋み倒れる音が響いてきた。
まだヘドロに浸食されていなかった山頂付近の緑色までもが、みるみる灰褐色に変わる。
頭上で騒いでいた鳥たちは、急き立てられるように遠くへ飛び去っていく。
周辺の山々のざわめきが、微精霊たちの悲痛な断末魔に聞こえるのは、きっと気のせいではないだろう。
火花を散らせて拒絶してくる魔力の壁を強引に突破すると、リーヴィアスは、エイリーンを羽交い締めにした。
華奢な身体は簡単に持ち上がったが、しっかりと根付いた片足を地から引き抜くことはできない。
剥き出しの殺意に触れて、肌が粟立っていくのを感じながら、リーヴィアスは叫んだ。
「エイリーン! 魔力を収めてください! これでは沼畔族どころか、山全体が枯れてしまいます!」
「知るか……! 鼻につく汚泥共が! 山ごと沈めて殺してやる……!」
「言ってる意味分かってます⁉︎ 頂上付近には、まだ生きている獣や精霊もいるんですよ⁉︎ 彼らまで巻き込もうなんて、やっていることが沼畔族と同じじゃないですか!」
「だからなんだ。葬樹以外の種が消えようが滅びようが、我にとってはどうでも良いことだ」
言い争っている間にも、揺れはどんどん激しくなっていき、リーヴィアスは、立っていられなくなって膝をついた。
羽交い締めされていたエイリーンも、一緒になって転倒したが、地中で蠢く葬樹の根が止まった気配はない。
山頂から雪崩れてきた土砂が、草花の死骸を巻き込みながら斜面を滑っていく。
転がってきた小石の内の一つが、項垂れていたガロウの頭に直撃した。
痛みと衝撃で、やっと意識を取り戻したのだろう。
ガロウは鼻をぐずらせながら、ヨタヨタと四つん這いで近づいてきた。
「お、おいおいおい、こりゃあ何の騒ぎだ……? 一体どういう……」
寝ぼけたような声を聞いて、ハッと顔を上げると、リーヴィアスはガロウの方を見た。
「──ガロウ! エイリーンを止めるの手伝って下さい! このままじゃ、この山の全てが枯れます! 貴方たちの棲家も含めて全てです!」
「すべて……? って、ぇぇええ‼︎ エイリーンてめえ! 俺たちの山をヘドロ連中から取り返すために来たんじゃないのかよ⁉︎ 何やってんだ⁉︎」
既に枯木だらけになっている山頂付近を見て、ガロウはけたたましく吠えた。
そして、リーヴィアスと同じようにエイリーンに引っ張り出そうとしたが、やはりその手はバチッと空気中で弾かれてしまった。
魔術に対する抵抗力を一切持たない人狼族に、エイリーンを覆う魔力の膜を突破することは難しいようだ。
かくいうリーヴィアスも、強すぎるエイリーンの魔力に触れ続けているせいで、腕の感覚がなくなってきている。
リーヴィアスとガロウがいくら騒いでも、エイリーンは樹根の進行を止めなかった。
沼畔族の姿は、もうどこにも見当たらない。
全滅したか、もし何体か逃げ延びていたとしても、おそらくは少数だ。
これだけ脅して力を削いだのだから、しばらくは大雨が降っても増殖しすぎることはないだろうし、もう北東部の山々に近づくこともないだろう。
──その時だった。
ふと視界の端に、見覚えのある淡い光がよぎった気がして、エイリーンは目を見開いた。
土砂に紛れて、何かがふわふわと舞っている。
それが導き蝶であることを悟ると、エイリーンは即座に足を地中から引き抜き、リーヴィアスを振り切ってその光を追いかけた。
「いてっ……!」
エイリーンに突き飛ばされたリーヴィアスが、ヘドロの上で転び、自身が持っていた長杖にコツンと頭をぶつけた。
その間抜けな音を最後に、つかの間、辺りは不気味な静かさに包まれた。
山々のざわめきが止み、揺れが収まり、満ちていた潮が引くように、エイリーンの魔力が霧散していく。
空を覆っていた朽木が跡形もなく枯れ果て、日が差し込み、風も通ったので、皮肉なことだが、森の中は来た時よりも明るく、悪臭も薄れていた。
殺意を消して駆け出していったエイリーンが、宙に向けて指先を差し出したところを見て、リーヴィアスとガロウは怪訝そうに首を傾げた。
「……あ、あの……エイリーン? どうかしたんですか?」
恐る恐るといった様子で、ヘドロまみれのリーヴィアスが問いかけてくる。
エイリーンは慎重に振り向き、指先に止まった導き蝶を二人に見せた。
「虫だ。虫がいた。こいつがいるということは、やはり、近くにセルーシャがいるのかもしれん」
「む、虫……?」
「導き蝶、だったか? 貴様は知っているだろう、倅から聞いたぞ」
「ああ……導き蝶なら知っていますが……いるんですか? そこに」
リーヴィアスは、ぐっと目を凝らしてエイリーンの指先を見つめたが、彼には導き蝶は見えていないようだった。
ガロウも同じく視認できていないようで、「ユリなんとかって何だ」とリーヴィアスに尋ねている。
エイリーンは、指先を上げ、改めて捕まえた導き蝶を日に透かして眺めた。
二人が見えていないということは、この導き蝶は、ほとんど魔力を蓄えていない不可視の状態なのだろう。
言われてみると確かに、葬樹の魔力を吸った時よりも、翅の放つ光が弱い気もする。
導き蝶は、かつて葬樹の森に多く棲みついていたが、別にその土地固有の虫ではない。
特別な力はないものの、その起源はおそらく相当古く、エイリーンやセルーシャが葬樹として生まれる前から、既に屍肉食の虫の一種として存在していたように思う。
つまり彼らは、決して葬樹がいなければ生きられないわけではないのだ。
だから、この導き蝶も、沼畔族によって大量に出た死骸の臭いに引き寄せられて、たまたまこの山に迷い込んできただけなのかもしれない。
それでも、今のエイリーンにとっては、重要なセルーシャへの導き手であった。
こうしてエイリーンの指先に止まったように、腹を空かせた導き蝶ならば、きっとセルーシャの魔力にも敏感に反応して、引き寄せられていくに違いないからだ。
先程までの暴れぶりが嘘だったかのように落ち着いたエイリーンを、リーヴィアスとガロウは、しばし呆然と見つめていた。
だが、不意に何かを思い立ったように手を打ち鳴らすと、リーヴィアスは、場を仕切り直すように、やけに仰々しい声で言った。
「あ、あぁー……とにかく! ガロウ、無事に沼畔族を追い出せて良かったですね! 予定より荒っぽいやり方にはなりましたが……こちらに被害はありませんでしたし、まあ良しとしましょう」
「いや、全然良しじゃねえよ。これから俺たち、どこで暮らせばいいんだ……」
完全に切り崩すまではいかなかったとはいえ、ほとんど禿山状態になっている周辺を見渡して、ガロウが呟く。
ガロウと、同じようにしょんぼりしている狼達にも笑みを向けて、リーヴィアスはハキハキと言い募った。
「棲家が荒地と化してしまったことは残念ですが、五体満足で生きてさえいれば、棲む場所なんていくらでも見つけられます。新居探しなら後で私も協力しますから、そう落ち込まないでください。私達が到着した時点で、既にこの山は棲める状況じゃありませんでした。エイリーンが協力してくれていなければ、沼畔族によって山全体が腐るのも時間の問題だったでしょう。犠牲になったのが身内でなくて良かったと、今はむしろ喜ぶべきですよ」
「そりゃあそうかもしれねえけどよ……。リーヴィアス、お前なんかやけに前向きだなぁ。そんな奴だったか? ていうか、その服、ヘドロまみれですんげえ臭うぞ。喜ぶ前に水浴びしてこいよ。ほら見ろ、馬も今のお前には近づきたくねぇって」
ガロウが引き気味に言って、遠巻きにこちらを見ているゴーティを指差す。
リーヴィアスは、笑顔を崩さないまま、唐突にガロウのフサフサの胸毛を掴むと、ぐいっと顔を引き寄せた。
ムッと近づいてきたヘドロ臭に、ガロウが思わずウッと鼻を覆う。
吐き気を催しているらしい彼に構わず、リーヴィアスは、小声で囁いた。
「……いいから、私に話を合わせて。『事態が収まって良かった。約束通りお礼にセルーシャの捜索に協力する』って言って下さい。セルーシャが見つかる望みがある、と思い込んでいる時が、エイリーンは一番大人しいんです」
露骨に嫌そうな顔になって、ガロウは囁き返した。
「確かにそういう話はあったが……今すぐには無理だぞ。俺たち皆、鼻がイカれちまったからな」
リーヴィアスは、シッと人差し指を唇に当てて、更に声を小さくした。
「言葉だけでいいので、とりあえず言って下さい。またエイリーンが癇癪を起こして暴れ出したらどうするんですか? 私たちでは太刀打ちできません。セルーシャの捜索を再開させる、明日こそ見つかるだろう、と思ったら、エイリーンは落ち着いて、多分そのまま寝ます。一晩休めば、貴方たちの鼻も多少は良くなるでしょう」
「…………」
こうやってセルーシャが見つかる可能性をちらつかせながら、リーヴィアスは、制御不能なエイリーンとの旅を乗り切ってきたのだろうか。
一体どちらに主導権があるのかと訝しみながら、ガロウは、リーヴィアスとエイリーンを交互に見やった。
はっきり言って、尊大で勝手極まりないエイリーンに対し、感謝の念は一切湧いていない。
だが一方で、エイリーンが平気で山一つ破壊しようとするような大精霊であり、自分たちが抗えない相手であることもまた事実だ。
群れの安全を優先させるならば、リーヴィアスの言う通り、意地などは捨てて下手に出ておくべきなのかもしれない。
ゴホン、と咳払いしてから、ガロウはリーヴィアスの手を払い、もごもごと言った。
「まあ……確かに、沼畔族を追い払ってくれたら協力する、という約束はしていたからな。人狼族は、約束は守る」
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