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投稿日:2026年01月06日






 抉られるような痛みが、ツキンと胸に走って、エイリーンは目を覚ました。
いつもは静かな霧の森の木々が、ざわざわと騒いでいる。
隣で眠っていたはずのセルーシャの姿が見当たらないことに気づくと、エイリーンは、慌てて大木の根元から立ち上がった。

 ──二十五年前と同じだ。
セルーシャの魔力が、気配が、どこにも感じられない。
吐き気を催すような胸騒ぎは、あの時以上だった。
今回は、セルーシャがどこに行ったのか、見当がついていたからだ。

 朝露に濡れた下草を蹴散らし、エイリーンは、まずさざなみ立つ湖面を覗き込んだ。
そして、水中にセルーシャがいないことを確かめると、今度は古代樹の間へと続く森道の方を見やった。
いつもは湖畔で休んでいるはずのレクエスが、そちらからヨタヨタと歩いてくる。
無感情な蔓草つるくさに覆われた顔で、何かを訴えるように、エイリーンの衣に鼻を押し当ててくる。
レクエスの方に振り返ると、エイリーンは尋ねた。

「おい、セルーシャはどこに行った? 見ていたのだろう」

 レクエスは、ぎこちない動きで顔を上げた。
それから、森道の方まで戻って、上方を見上げた。
よく見ると、枯れた下草が、足跡のように点々と続いている。
古代樹の間がある方角だ。

「セルーシャ、どうしてまた……」

 呟いてから、レクエスに乗り込むと、エイリーンは命令をした。

「──木偶でく人形、行け!」

 ギギッと後肢を曲げたレクエスが、強く地面を蹴って、蛙のように跳ね上がる。
案の定、着地先に頭から突っ込んだレクエスが、エイリーンを背から放り出して、壊れた頭部と前肢を動かしながらジタバタともがく。
エイリーンは、すぐさまレクエスを修復し、再び乗り込んだ。
跳んでは転び、跳んでは転びを繰り返して、エイリーンとレクエスは、二十五年前と同じように、古代樹の元へと向かった。

 込み上がってきた焦燥感に喉を塞がれたようで、息苦しかった。
何も起こらなければ良い。
勝手にいなくなったセルーシャが、一人で最後の弔いの儀を終え、これで葬樹そうじゅの森に帰れるね、と言いながら何事もなく戻ってくるなら、それで良い。
だが、そうはならないだろうという直感的な不安と疑念が、胸中を蝕んでいた。

 その不安と疑念は、五年前にリーヴィアスが、人狼族のガロウをあっさりと切り捨てた時から、ずっと身の内に沈澱していた。
弔いの儀に出て、グレアフォールの動かない表情を見上げるたび、リーヴィアスの本心を覆い隠した笑みを見るたび、沈澱した層は分厚く、濃く凝縮されていった。

 彼らは、理想の新時代を創り上げるためなら、どのような犠牲も厭わない。
例えそれが、ガロウのような計画への賛同者、協力者であっても、必要な犠牲であると判断したならば、容赦なくその首を斬る。
元よりグレアフォールのことも、リーヴィアスのことも、絆で結ばれた仲間だと思ったことはないが、二人の他者を選別する際の判断基準が、有益か無益かの二択でしかないのだと確信した時から、頭に浮かんだある懸念が拭えなくなった。
それは、葬樹そうじゅの一族とて、いつ不要であると判断されるか分からない、という懸念だ。
だからエイリーンは、弔いの儀への協力もやめて、彼らの謀略にはもう関わるまいとしていたのだ。

 レクエスの脚がギシギシと軋む音が、絶え間なく響いている。
時に石につまずき、ぬかるみに脚を取られながらも、レクエスは、懸命に森道を駆け上がっていく。

 やがて、頭上から燦然さんぜんと輝く陽の光が差し込んできて、行く道を明るく照らし始めた。
その時、突然、古代樹が立っている辺りの木々が、大きくざわめいた。
枝葉を一斉に揺らし、続いてほとばしった魔力の余波が、風に乗ってこちらにまで流れてくる。
古代樹の精霊たちと、リーヴィアスの魔力であった。

 また転んだレクエスを立ち上がらせ、「もっと速く走れ!」と命じると、レクエスは、道を外れてやぶを突っ切り、古代樹の間への最短距離を進み始めた。
いきなり突撃してきた木馬に驚いて、鳥や虫の群れが、慌てて舞い上がる。
道なき道を登りきり、ついに古代樹の間へと出ると、視界が開けた。

 目前に広がっている光景を見て、エイリーンは息を呑んだ。
予想通り、そこにはセルーシャがいた。
その姿を見て、全身がすうっと冷たくなった。
セルーシャは、無数の鋭い木々の枝に貫かれて、地面に倒れ伏していたのだ。

 衣のすそからのぞく四肢と、瞑目した顔が、本来の木肌に戻って崩れかけている。
まだ呼吸はしているが、形を保つ力は残っていない。
放置すれば、じきに微精霊になってしまうだろうという状態だ。

 薮から勢いよく飛び出してきたエイリーンとレクエスに驚き、グレアフォールの隣に並ぶリーヴィアスが、ハッと顔を上げる。
レクエスから下り、ふらつきながらセルーシャに近づいてきたエイリーンに、古代樹の精霊の一人が言った。

「……エイリーン、ようやく来たか。これは、そなたと共に弔いの儀に尽力してくれた、葬樹そうじゅの同胞だ。弔ってくれ」

「…………」

 エイリーンは、精霊の言葉など聞こえていない様子で、セルーシャのそばに膝をついた。
そして、その身に刺さっている木々の槍を、無言で引き抜いては枯らした。
全ての槍を取り除いても、セルーシャは目を開けなかった。
力なく崩れかかっているその身体には、グレアフォールとリーヴィアスの魔力がまとわりついている。

「貴様ら……これはどういうことだ……?」

 地を這うような低い声で問うと、エイリーンは、凄絶な光を目に宿して、グレアフォールとリーヴィアスを睨みつけた。
問いはしたが、彼らの思惑は予想できている。
セルーシャは、計画のためのにえにされたのだ。
そしてこれは、おそらくリーヴィアスが初めて話しかけてきた二十五年前のあの時から、ずっと計画されていたことだった。

 エイリーンは、ゆらりと立ち上がった。
湧き上がってきたのは、全身を焼き焦がすような熱。
腹の底を煮え立たせ、頭の芯まで灼き尽くすような、苛烈な衝動であった。

 古代樹の樹根に腰掛けたまま、グレアフォールが、淡々とした声で返した。

「セルーシャ(雪の下で眠るもの)は、ここで役目を終えた。大義であった。その者の死を、無駄にはしない」

 動かない紫紺色の瞳から、一筋涙がこぼれ落ちる。
それに倣うように、周囲の精霊たちも、祈るように胸元で手を組み、ほろほろと涙を流し始めた。
一切の感情を伴わない、形だけの追悼。
今まで幾度となく弔いの儀で見てきた、お決まりの茶番。
けれども、彼らの涙を見た瞬間、エイリーンの中で何かが焼き切れた。

 次の瞬間、静謐な森の空気が一変した。
周囲を圧するような魔力を発すると、エイリーンは、古代樹に向かって手を翳した。
袖口から突き出された灰白の腕が、葬樹そうじゅの樹根へと変化して伸び、グレアフォールたちに勢いよく掴みかかる。
古代樹の精霊たちは、咄嗟に木々の枝を編み上げ、王座を護るように壁を造ると、エイリーンから放たれた樹根を受け止めた。

「──何のつもりだ、エイリーン。グレアフォール様に仇なす気か」

 精霊の一人が、語気を強めて問う。
エイリーンは、何も答えずにその精霊を睥睨するや、スッともう一方の手を横に動かした。
途端、精霊の胴が真っ二つに裂かれ、そこからひび割れるようにして身体が崩れていく。
同時に、エイリーンの腕の樹根を受け止めていた木々の壁が、みるみる変色して枯れ朽ちた。

 次いで、踏み込んだエイリーンの脚から、複数の葬樹そうじゅの樹根が、地に沿って四方八方に伸びた。
それらは、土中から飛び出して辺りの木々に絡みつき、その樹体を締め上げる。
樹根に触れた途端、取り込まれた樹体が、みるみるしおれて枯死していく。
木々が枯れると、立ち並ぶ精霊たちの肌もひび割れて、黒く変色した。
大気が震えるような木々の軋み音と、苦しむ精霊たちの悲鳴が、森中に響き渡った。
古代樹グレアフォールを除く全ての精霊たちを一瞬にして枯らすと、エイリーンは、再び底光りする目でリーヴィアスたちを睨み上げた。

「それほど世の平穏とやらを実現させたいのなら、貴様ら自身が力を捧げればいい。この場で喰って、今すぐ糧にしてやる……!」

 崩壊した木の防御壁を跳ね除けた葬樹そうじゅの樹根と、地中から噴き上がるように伸びた樹根が、むちのようにしなりながら、同時にグレアフォールたちに襲いかかる。
リーヴィアスは、咄嗟に前に出ると、長杖を掲げて結界を張った。
だが、複数の樹根による強烈な叩きつけで、結界は呆気なく砕け散ってしまった。
その衝撃で、リーヴィアスの細い老体は、古代樹の根元に弾き飛ばされてしまう。

 草木の腐敗臭が充満し、清浄だった空気が瘴霧しょうむへと変わる。
命尽きた枯葉がはらはらと舞い、宙で煤け、灰のように散っていく。
咳き込みながら身体を起こしたリーヴィアスは、何が言いたげにエイリーンを見たが、何も言わなかった。
どんな弁明をしたところで、その言葉が聞き入れられるとは思えなかったからだ。

 間髪入れずに唸った樹根の鞭が、リーヴィアスめがけて振り下ろされる。
反射的に身を強張らせたリーヴィアスに、しかし、その一撃が届くことはなかった。
グレアフォールの指先の動きに合わせ、地中から跳ね上がった古代樹の樹根が、リーヴィアスの身を包むように広がり、エイリーンの攻撃を防いだからだ。

 次々に姿を現した古代樹の樹根が、今度は葬樹そうじゅの樹根を絡め取って押し返す。
見る間にエイリーン本体を呑み込んだ古代樹の樹根は、その肢体を地面に強く叩きつけた。
身動きが取れないように拘束され、エイリーンは、なす術なくうつ伏せに倒れ込む。
しかし、エイリーンの瞳には、尚も獰猛な光が宿っている。
古代樹の御座から立ち上がると、グレアフォールは、穏やかながらも威厳のある口調で告げた。

「……我々古代樹の一族とリーヴィアスの力は、後の世を保つために必要なものだ。ここで消失させて良いものではない」

 グレアフォールは、手中に花のつるで編まれた木杖もくじょうを形成すると、その石突でトン、と地面を打った。
──瞬間、枯れた森が息を吹き返した。
黒々と萎れていた木々が、一斉に瑞々しさを取り戻す。
新たに生えた枝葉が青く茂り、朽ちた幹はみるみる立ち直って、よどんでいた空気が澄み渡っていく。
再生した木々の根元には、形を取り戻した精霊たちが、再び姿を現す。
古代樹から降り注いだ息吹を浴びると、森はまるで何事もなかったかのように、いつも通りの様相を取り戻した。

 グレアフォールは、木杖をついたままま、ゆっくりと古代樹の樹根でできた階段を下りていった。
リーヴィアスは驚き、うずくまったまま、その流れるような黄金の後髪を眺めていた。
グレアフォールと出会って三十年以上経つが、彼が立ち歩いて力を使うところを見るのは、初めてであった。


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