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投稿日:2026年01月06日
微精霊化して意識や自我を手放すことはできなかったが、眠ることはできたので、エイリーンは極力長く眠った。
懇々と眠り続け、次に目覚めた時には何かが変わっていてほしい、と願って、エイリーンはひたすら眠り続けた。
いっそ永遠に眠れれば良かったのに、それが許されなかったのは、定期的に襲ってくる飢餓感が、強制的に意識を浮上させたからだ。
本来であれば、飢えると力を失って消滅する──その限界を超えた先にある壮絶な飢餓感は、寒さや痛みよりもよほど耐え難いものであった。
グレアフォールたちの計画通りに動きたくはないと思いつつ、仕方なく、エイリーンは樹根を伸ばして、凍った死骸たちを取り込んだ。
魔力を持たない、もしくは少ない獣人や人間を食らうよりも、魔力の多い精霊族を喰った方が、当然飢えは満たされる。
自身の回復を考えるなら、真っ先に取り込むべきは、エイリーンの魔力を動力源とするレクエスであった。
だが、レクエスのことはなんとなく喰らう気になれず、ずっとそばで眠らせていた。
レクエスの中には、今もセルーシャの欠片が宿っている。
いつかセルーシャが、レクエスに根付いて芽吹く日が来るかもしれない、という淡い期待だけが、エイリーンの正気を繋ぎ止めていた。
アルファノルからの脱出を試みたこともあったが、吹雪の中を歩いて、広すぎる氷床の最端にたどり着くことはできなかった。
ガルガナディエに登って見渡す限りは、周囲を取り囲む海にも、島影一つ見当たらない。
非選別者たちの死骸は山のように転がっていたが、生存している者はおらず、新たに誰かが送り込まれてくる気配もない。
自分が飛ばされた時に展開したはずの移動陣も探したが、見つからなかった。
仮に見つけられたとしても、エイリーンにはリーヴィアスが使う召喚術とやらは分からないので、再発動させることはできない。
どうすることもできず、結局エイリーンはガルガナディエの元で、レクエスと共に吹雪に耐えながら過ごすしかなかった。
そして、非選別者たちの凍った死骸で飢えを和らげては再び微睡み、眠りの中で、かつて寒さに震えながら葬樹の森を広げようとしていた、遠い昔の記憶を思い起こす。
そういう毎日を、おそらく何年も、何十年も繰り返した。
やがて、ガルガナディエの周りで眠る非選別者たちの死骸が、残りわずかになった。
他の場所に行けばまだ大量にあるのだろうが、もはや移動する気力がなく、氷中に根を這わせる体力もない。
空腹は、もはや激痛を通り越した。
限界を越した衰弱は、全身を炙るような熱と寒気を同時にもたらす。
ついに指先すら動かなくなると、死骸を取り込むこともできず、ただ目を瞑って、夢と現実の狭間を行き来するだけの時間が増えた。
それでも、弱った実体が消滅することはない。
また、レクエスの中にいるセルーシャの欠片が、実体を取り戻すこともなかったし、エイリーンがセルーシャと同じ微精霊になることもなかった。
飢えと凍えによる苦痛は、次第にやり場のない怒りへと変わっていき、グレアフォールとリーヴィアスに対する憎悪を増長させた。
目を瞑るたびに、こちらを見下ろしてくる、二人の無情な瞳の色が脳裏をよぎる。
日に日に濃くなっていくどす黒い感情は、思考を濁らせる澱みのように沈澱し、発散される先を見つけられないまま、重く強く凝縮されていく。
喰らった非選別者たちの恐怖と悔恨の念も、エイリーンの中に蓄積しているように思えた。
眠ると耳の底に響き出すのは、グレアフォールたちに対する怨念の声だ。
──奴らを決して許すな、屈してはならない。
──ここは墓場ではない。選ばれなかった敗者が行きついた、報復の機を狙う最期の砦である。
それらの声がもたらす激情が、セルーシャと同じところへ逝きたいという想いすら凌駕するようになると、エイリーンも、いつかグレアフォールたちに復讐できる日を待ち望むようになった。
そしてその執着が、皮肉なことに、再び死骸に根を伸ばさせる力を生んだのであった。
変わらぬ白い景色の中で、エイリーンは自覚していなかったが、一つだけ変化していることがあった。
エイリーンの自我が不安定になったことで、長らくその奥底で沈みかけていたトワリスの意識が、徐々に浮上し始めたのだ。
長くも短くも感じられた、悪夢のようなエイリーンの記憶。
その膨大すぎる情報と感情の流れに翻弄され、朦朧としていたトワリスの意識は、エイリーンが弱るほどに、輪郭を取り戻していった。
抗うことも逃げることもできなかった意識が、水面を目指す泡のように、上へ上へと解放されていく。
といっても、エイリーンの弱った身体を動かせるわけではなく、感覚もまだぼやけている。
ただ、果てしなく膨れ上がっていく怨嗟と、セルーシャの目覚めを願う切実な祈りは、確かな苦しさと悲しみを伴って伝わってきた。
エイリーンの感情の波に揺さぶられながら、トワリスは、着実に自我を回復させていったのであった。
トワリスの自我が覚醒し、ついにエイリーンと完全に分離したのは、「起きて」と誰かに呼ばれた時であった。
移動陣の光を伴って、何者かが近づいてくる。
季節の変化も分からない、常に吹雪き続けている氷の大地に、ようやく時の流れを感じさせる存在が現れた。
まぶたを凍てつかせている氷を割り、ぼやけた視界を持ち上げると、目の前に、分厚い外套をまとった一人の男が立っていた。
頭巾から覗く色味を失った銀髪と、対照的に鮮ざやかな、薄闇に輝く緋色の耳飾り。
顔には深い皺が刻まれており、背も曲がっているが、その銀の瞳に宿る意思は、衰えずに強く光っている。
目が合うや、その老爺は白い息を吐き出し、持っていた長杖を氷の上に置いて、よろよろとかがみ込んだ。
「ああ、エイリーン……やっと見つけた……」
掠れた声が、冷たい空気に溶けていく。
俯いて、目から涙を流し始めた彼の姿を見て、エイリーンは憤怒に身を震わせた。
憎きリーヴィアスが、朽ちた自分の姿を嘲笑いにやってきたのだと思ったからだ。
湧き上がってきた黒い感情に身を任せ、エイリーンは、その老体を樹根で貫こうとした。
だが、弱り切った身体は、本来の樹の姿を取ることはできず、腕を持ち上げることすら出来ない。
微かな呻き声だけをあげたエイリーンを見て、老爺は、弱々しく語りかけてきた。
「エイリーン、私を覚えているかい? もうかつての面影はないだろうが、ミラン・シェイルハートだ。リーヴィアスの息子の。……昔、馬が欲しいと父を訪ねてきた時に、少しだけ話したろう」
「…………」
エイリーンは、何か返答することもできず、その銀の瞳を力なく睨みつけていた。
喉も耳も、凍りついてしまって、うまく機能していない。
衰弱し切ってほとんど反応を返してこないエイリーンに、ミランは悲痛そうな表情を向けた。
「今は、人間の暦で言うと、サーフェリア歴七十八年だ。父とグレアフォール王によって三種族が分たれ、大陸がこの場所も含めて四つに分断されて、もう八十年近く経った。……八十年間も……ずっと、こんなところに幽閉されて、さぞつらかっただろう。本当にすまなかった。許して欲しいというのも烏滸がましいことだろうが、どうか父を恨まないでほしい、エイリーン。全て、元凶は私だったんだ……」
「…………」
ミランは、氷のように冷たいエイリーンの手を握った。
すると、ミランの掌の皮膚が、ジュウジュウと嫌な音を立てて焼け始めた。
しかし、ミランは一瞬顔をしかめただけで、手を退けようとしない。
強弱の波があるエイリーンの意識の合間をくぐって、トワリスがエイリーンの手を引こうとしたが、うまく動かなかった。
エイリーンの手を握ったまま、ミランは続けた。
「あの後、父が亡くなって……私はその時に初めて、三種族の不戦協定の真実と、その裏側で多くの犠牲が出ていたことを知った。新大陸に渡れず、大陸分断を実行するための魔術の糧にされた貴方達は、今のサーフェリアでは、精霊王に離反した反逆者として歴史書に記されている。旧政権にしがみつく古都サルバランの人間達、変化に適応できなかった獣人達、そして、闇に堕ちた愚かな精霊達──曰く闇精霊達は、罰せられて北方の墓場に送り込まれた、と。
この伝承が、父の創作した偽りの物語だと気づいた時に……私はふと、子供の頃に出会った、仲が良かった二人だけの葬樹の精霊のことを思い出した。頑なに真実を語ろうとしなかった父も、死に際には、うなされながら君たちのことを呟いていた。
……こんなこと、言い訳にならないだろうが、父にも躊躇いがなかったわけじゃない。父は、死ぬまでずっと罪悪感に苦しんでいたし、そういう選択しかできなかった自分に、常に怒りと自責の念を抱えていた。それでも、私や身近な人間が異種族の脅威に晒されることのない、平穏に暮らせる未来を実現させんと、半生をかけてあの計画を実行した。父は、一度死んだ私を救うために、他にも多くの禁忌を犯した。どの罪もきっかけは私だったのに、そんなことは何も知らず、子供だった私はのうのうと生きることを望んでしまった……」
訥々と語られるミランの懺悔が、顔を上げることもままならないエイリーンに、ちゃんと届いているのかは定かではない。
ただ、語らずにはいられないといった様子で、ミランは話し続けた。
「糧にされた非選別者達が、北方の大陸に捨てられたと知ってから、私はずっとその墓場を探していた。地図にも載っていない、父の書いた歴史書に存在だけが記されている、幻のような北方の極地……。それを今、四十年近く探し続けて、やっと見つけられた。エイリーンや、氷の一部になってしまった犠牲者達に償える日が、ようやく訪れたのだ」
そこで言葉を止め、ふいに自嘲気味に息をこぼすと、ミランは首を振った。
「……いや、これは償いとは言えないな。こんなことは、ただの自己満足だ。私は、シェイルハート一族の業を、自分の子にまで背負わせたくない。父が私のために犯した罪と、それに対する罪悪感は、私で留めたい。だからエイリーン、身勝手な願いだとは思うが、どうか私に貴方たちを弔わせてほしい。罪深い英雄リーヴィアスの子として、父がしてきたことの責任を、ここで果たさせてほしい……」
言いながら、ミランはゆっくりと立ち上がると、長杖の先に魔力を込め始めた。
皺だらけの顔が一層歪み、銀の瞳から涙が溢れる。
震える唇の隙間から、ミランはか細い声を押し出した。
「サーフェリアの人間にとって、恩のあるグレアフォール王を、表立って私が裏切ることはできない。だが、彼による不死の召喚術を解術し、その呪縛から、死を以て貴方を解放することはできる……」
トワリスは、どうするべきなのか分からず、ただエイリーンの目を通してミランを見上げていた。
このままエイリーンが消滅、もしくは微精霊化したら、自分は一体どうなるのだろう。
といっても、抵抗しようと思い立ったところで逃げられるわけではないのだが、本当にこのまま何もせず、エイリーンと共に成り行きに身を任せて良いのか分からない。
動揺と混乱で思考停止している間にも、ミランの贖罪の殺意に満ちた一撃は、目前に迫ってくる。
思わず目を逸らそうとした──その時。
なけなしの力を振り絞って持ち上げられた右腕が、次の瞬間、樹根に変化して、ミランの胸部を貫いた。
ミランの口から鮮血が噴き出し、その手から長杖が滑り落ちる。
更にもう一本、二本、樹根をミランの腹に突き立てると、エイリーンは、喉から無理矢理に絞ったような、低く掠れた声を吐き出した。
「解放、だと……? ふざけるな! 貴様の薄汚い手など要らん……ッ!」
ずぶりと樹根が引き抜かれ、ミランの身体が傾いていく。
氷の上に仰向けに倒れたミランの表情は、血に塗れながらも、ひどく穏やかであった。
本当に解放されたかったのは、ミランの方だったのではないかと思えるほどだ。
もはや、最初からエイリーンに殺されるつもりだったのではないかと疑うほどの、呆気ない最期であった。
エイリーンは、肩で息をしながら、ミランの遺体に這いずり寄っていった。
かつてはセルーシャと同様に微精霊化したがっていたエイリーンが、何故ミランの償いに抵抗を見せたのか──その明確な思考は、トワリスには伝わっていなかった。
今、伝わってくる感情は、強くて根深い憎悪の念だけ。
八十年間、ひたすらに負の感情を募らせてきたエイリーンの中では、もう楽になりたいという願いより、不死の呪縛に耐えてでもグレアフォールたちに報復したい、という怨念が強くなってしまったのかもしれない。
葬樹の樹根が、ミランの死体に伸びていく。
エイリーンがミランを取り込もうとしているのだと気づいて、トワリスは咄嗟に叫んだ。
(──やめて……!)
エイリーンの手に自分の手を重ねて、必死に腕を引こうとする。
しかし、エイリーンの身体がトワリスの意思で動くことはない。
その拒絶の感情が、伝わっている様子もなかった。
エイリーンは、衰弱して上手く動かない身体に苛立たしそうにすることはあれど、トワリスの抵抗や存在そのものに気づいている素振りは、今まで一度も見せていない。
樹根がミランの身体に絡みつくと、その魔力が、腕の脈に沿って流れ込んできた。
先程まで確かに生きていた温かい魔力は、エイリーンの飢えを満たし、魔力を回復させ、実体を維持する糧となった。
不思議なことに、それはトワリスの意識にも馴染んだ。
人間や獣人の身体であれば、他者の魔力を拒絶反応なしには受け入れることはできないはずなのだが、これも葬樹であるエイリーンと一体化しているためなのか。
ミランの魔力は、まだ境界が不明瞭なトワリスの意識を、本来あるべき一つの個として確立させていく。
右腕だけでなく、四肢の全てを樹根に変化させて、エイリーンはミランを取り込んでいく。
うねる樹根の隙間から、ミランの耳に光る緋色の耳飾りが見えて、トワリスは泣き出したい気持ちになった。
夢のように朧げな部分はあるものの、百年近いのエイリーンの記憶を体験してきて、その痛みや苦しみを、まるで我が事のように見てきた。
だから、シェイルハートの人間やグレアフォールを憎むエイリーンの気持ちは、心から理解できる。
けれども、だからといって、父の罪を背負ったミランがこんな悲惨な最期を遂げてしまうなんて、あまりにも酷い。
(──やめて、離れて……っ‼︎)
喉が裂けんばかりの絶叫も、やはりエイリーンには聞こえていない。
やがて、トワリスの抵抗も虚しく、ミランの身体は、樹根に包まれて見えなくなった。
トワリスは、歯を食いしばって、叫ぶのをやめた。
エイリーンは、人間にしては魔力量の多いミランを喰ったことで、少なからず回復したらしい。
また飢えて動けなくなる前に、遠くに散っている非選別者たちの死骸も取り込もうと、氷中に根を張り始めている。
そんなエイリーンの勢いには支配されず、悲しみという別の感情に暮れているということは、トワリスもまた、ミランの魔力のおかげで、自我が本来に近い形まで回復しているのかもしれなかった。
トワリスは、再び手を伸ばして、エイリーンの樹根に感覚を沿わせた。
樹根に取り込まれたミランの遺体は、強く押し潰されて崩れかかっている。
だが、その中に、まだ強く魔力を発しているものがあった。
触れた感触と位置からして、小さな耳飾りであった。
シェイルハート家の子に代々受け継がれる、緋色の耳飾り。
その飾り石に使われるランシャムは、魔力の均衡を保ってくれる特殊な魔石だ。
過ぎた魔力を感知すれば、過剰な魔力を吸収して蓄えるし、魔力の減少を感知すれば、蓄えていた魔力を分け与えてくれる。
人間の身には膨大すぎる魔力を扱う召喚師一族にとって、とても有用なものだ。
確かリーヴィアスは、両耳につけていたはずだが、どうやらミランは右耳に一つしかつけていない。
先ほど子がいると言っていたから、片方は既に譲り渡した後なのだろうか。
樹根を通して、耳飾りをぎゅっと握り込むと、トワリスは再度抵抗を試みた。
エイリーンに生きてほしいのか、朽ちてほしいのか、混乱し切って感情がぐちゃぐちゃになった今の自分が何を望んでいるのかは、トワリス自身にも分からなかった。
ただ、ミランが遺品の一つも遺せず、人知れずエイリーンに食い殺されるなんて、そんな場面は見ていられなかった。
何より息子を優先させたリーヴィアスや、ミランの帰りを待っているのであろう子の気持ちを思うと、耐えられなかった。
トワリスは、渾身の力で、樹根から耳飾りを奪い取ろうとした。
ランシャムから溢れ出した魔力は、濃い方から薄い方へ、エイリーンの樹根ではなくトワリスの意識の方へ、ゆっくりと流れ込んでくる。
だが、氷中に根付き、枝葉を広げ始めたエイリーンの力は圧倒的で、トワリスの反発など全く意に介していないようだった。
無数に増え続ける頑強な樹根や枝々に、たった四本の手足だけで、抗い切れるわけがないのだ。
しかし、いよいよ輪郭を取り戻したトワリスは、抵抗をやめなかった。
必死に足を踏ん張って、遺体と一緒に耳飾りも取り込もうとする樹根を、腕が千切れんばかりの勢いで引っ張った。
エイリーンの感覚とは別に、独立したトワリスだけの疲労感や痺れが、四肢を蝕んでいく。
それでも諦めず、引いて、引いて、引き続けると、突然、ズルッとトワリスの腕とエイリーンの樹根が分離した。
(────っ⁉︎)
弾き出されたトワリスの身体が、勢いよく宙に投げ出される。
反射的に受け身を取ろうとして、身を捩った。
──が、着地したのは、氷の上ではなく、どこか懐かしい光の中であった。
トワリスが倒れ込んだ先に、ミランが使った移動陣があったのだ。
足場のない不安定な空間に、傾いた身体が落ちていく。
どす黒い憤怒と憎悪の奔流から抜け出すと、途端に全身が軽くなった。
光にかき消されていく、葬樹そのものと化したエイリーンの姿を見上げながら、トワリスは移動陣の中に吸い込まれていったのであった。
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