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投稿日:2026年01月06日







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 トワリスが次に目覚めたのは、まぶたを開けているのかどうかも分からなくなるような、真っ暗な場所であった。
地面も天井も、空間の果ても見えない。
自分がどこかに着地したのか、まだ落ちているのかすら定かではない。
吹雪の音も、氷の冷たさも、血の匂いも全く感じられない。
あらゆる感覚が封じられた、奇妙な暗闇の中に、トワリスは放り出されていた。

「……おはよう。目が覚めたんだね」

 呆然としていると、いきなり背後から声をかけられて、トワリスは慌てて身を起こした。
立とうとすれば立てる。
見えないが、地面はある。
足場を確かめながら、なんとか立ち上がって振り返ると、そこには、ぼんやりと光る懐かしい姿があった。
灰白の肌と長い黒髪、印象的な橙黄色の瞳──。
もう見間違えることはない、エイリーンの大切な葬樹そうじゅの片割れである。

「……セ、セルーシャ……? どうして……?」

 無意識に、そんな言葉が口から漏れる。
セルーシャは、ぱちぱちと瞬いた。

「……わたしを知っているの? 君は誰?」

 問われて、トワリスは自分の身体を見下ろした。
肌の色も、髪の色も、擦り切れた旅装も、随分と久々に感じるが見慣れた己のものだ。
長らくエイリーンと同化していたから、まだ妙な違和感は残っているが、もう自覚ははっきりと戻っている。
自分は、確かにトワリスであった。

「わたし……私は、トワリスです」

 どう名乗るべきか、考えあぐねた末にそれだけ答えると、セルーシャは首を傾げた。

「トワリス? 聞いたことがない名前だな。もしかして、リーヴィアスの知り合い?」

「リーヴィアス……?」

 聞き返すと、セルーシャはトワリスの手元を指さして、「だってそれ、リーヴィアスの耳飾りでしょう」と言った。
おずおずと自分の掌を開いてみると、確かにそこには、緋色の耳飾りが握られていた。

(……え……? 私、なんでこの耳飾りを持ってるの……?)

 手の中で淡く光っている、雫型の緋色の耳飾り。
シェイルハート家に伝わるこの耳飾りを、どうして自分が持っているのだろう。
思い出そうとした瞬間、真っ先に頭に浮かんだのは、ルーフェンの顔であった。
──そうだ、この耳飾りは、ルーフェンに借りたのだ。
獣人混じりだという理由で、教会にミストリアへ単身で赴くように命令された時に、「帰ってきたら、ちゃんと俺に返してよ」と、ルーフェンに耳飾りを渡された。
だからトワリスは、ミストリアにいる間、ずっとこの耳飾りをお守り代わりに持ち歩いていたのだ。

 自分自身の記憶に問うように、トワリスは震え声で漏らした。

「……違います。これはルーフェンさんの……人間の召喚師一族ものです。……私は……ミストリアに行く時に、これを渡されて……」

「ミストリア? ……ああ、君、人間みたいな見た目をしているけど、よく見たら獣人族なんだね」

 トワリスの尖った狼耳に気づいたらしいセルーシャが、不思議そうに呟く。
トワリスは、自身の耳に手をやって、曖昧に首を振った。
自分は獣人の血が混じっているというだけで、生まれも育ちもサーフェリアの人間だ。
ミストリアに行ったのだって、宮廷魔導師としての任務の一環だった。
ファフリたちの一件が解決してからは、無事にサーフェリアに戻ったし、以降は軍務に復帰した。
ルーフェンにも帰還の報告をして、その時に──耳飾りも返したはずだ。

(……あれ? じゃあ、この耳飾りは……)

 もう一度記憶を辿ろうとすると、不意に、ぐらりと視界が歪んだ。
目眩めまいと同時に激しい頭痛が襲ってきて、その場にうずくまる。
真っ先に蘇ってきたのは、強烈な飢餓感と寒さだ。
吹雪の中、凍てついた非選別者たちが、身を丸めて氷山の近くに並んでいる光景が見える。
思わず目を背けると、白かった視界が反転した。
今度は、目の前に太い鉄格子が現れた。
暗闇の中で、濃い血臭にまみれながら、自分は錆びた鉄の足枷を引っ掻いている。
続いて、インクの匂いが鼻をかすった。
羽ペンを握らせてきたルーフェンが、すぐ隣で優しく手を握って、筆跡を導いてくれる。
──が、次の瞬間、空気が破裂するような音と共に、黒い鈍光がルーフェンの胸を貫いた。
傾いた身体が、その場に倒れる。
慌てて抱き起こすと、それは何故か崩れかけたセルーシャの姿に変わっていた。

 あらゆる記憶が、代わる代わる断片的に現れて、ぐちゃぐちゃに混ざって再生される。
ルーフェンやサミル、ジークハルトやアレクシア、ハインツ、リーヴィアス、リリアナ、グレアフォール、ファフリ、ユーリッド、シャルシス……今まで出会ってきた人々とのやりとりが、頭に浮かんでは消えていく。
砂流のように押し寄せては崩れ、混じり合い、次々と流されて飲み込まれていく。

 心臓がドクドクと脈打ち、呼吸が浅く速くなる。
喘鳴して震えるトワリスの肩に、そっとセルーシャの手が触れた。

「……大丈夫? なんだか感情が混乱しているみたい。そんなに怖がらなくても、今ここにいるのは、君とわたしだけだよ」

「…………」

 肩から下りてきた手が、気分を落ち着かせるように、トワリスの背をさする。
顔を上げると、すぐ近くでセルーシャと目が合った。
炎のように美しく、夕焼けのように穏やかな橙黄色の瞳。
その眼差しと、背中を往復する手の温かさを感じている内に、次第に呼吸が落ち着いてきた。

「セルーシャ……本当に、また会えてよかった……。もう死んじゃったのかと思ってたから……」

 再び無意識に、そんな言葉が滑り出る。
トワリスが安堵の息を漏らすと、セルーシャは目を丸くした。
再会を喜ぶ感情が湧いてきたことに、トワリス自身も驚いていたが、セルーシャはそれ以上に動揺した様子であった。

「トワリス、君は変な獣人だね。……いや、少しだけど魔力を感じるから、やっぱり人間なのかな? しかもその中に、精霊族の──エイリーンの魔力が混じっている。……もしかして君は、レクエスと同じエイリーンの眷属けんぞくなの?」

「…………」

 つかの間考え込んでから、トワリスは首を振った。

「……私は、エイリーンとは無関係……のはずです。……ただ……ずっとエイリーンの中に入っていたというか、エイリーンの視点で、精霊族のことを見ていたというか……」

「……どういうこと?」

「それが、私にもさっぱりで……」

 歯切れ悪く答えながら、トワリスは再び手の中の耳飾りに視線を落とした。
自分でも、未だに何が起きたのか理解できていない。
そもそも、エイリーンの中に入って、遠い過去の出来事を追体験していた、という記憶自体がかなり曖昧なもので、現実だったのかどうか分からない。
耳飾りの感触だけが、これまで見てきた映像を、単なる夢ではなかったと証明している。
しかし、今もまだ夢の続きを見ているのかもしれないと考えると、セルーシャと話しているこの空間も、現実なのか幻なのか判断がつかなかった。

 トワリスは、エイリーンの中で見聞きした出来事を、ぽつりぽつりとセルーシャに語った。
思い出されていく映像を、順々に整理して繋ぎ合わせていく内に、三種族が隔絶される以前のエイリーンの記憶と、隔絶されてから遥か未来のトワリス自身の本当の記憶が、だんだん区別できるようになってきた。

 セルーシャは、淡々と相槌を打ちながら、トワリスの話を聞いていた。
エイリーンと共に霧の森で目覚めたところから、グレアフォールとリーヴィアスによってアルファノルに飛ばされたところまでの、長かったようで短かった凄惨な記憶。
それらをトワリスが語り終わった頃には、セルーシャは、何かを懐かしむような柔らかい表情になっていた。

「……なるほど。確かにそれは、エイリーンの記憶だね。我々葬樹そうじゅがグレアフォールに自我を与えられて、力を失うまでの記憶だ。全て、今から千年以上前に起こった現実の出来事だよ」

「千年以上、前……」

 まだズキズキと痛むこめかみをさすりながら、思わず反復してしまう。
『今』とは、一体いつのことを指しているのだろう。
あれらの記憶が千年以上前の出来事だと分かるということは、目の前にいるセルーシャは、大陸が分断されてから千年後の時間軸にいる、ということなのだろうか。
もし『今』が、トワリスが生きている本来の時代、サーフェリア歴で言うと一五〇三年頃なのであれば、自分は現代に戻ってきたということになるが──。

 記憶の整理はできても、思考が追いつかないことばかりで、混乱は増す一方だ。
しかし、対するセルーシャは、トワリスの話を聞いて何やら納得したようだった。

 セルーシャは、うずくまっているトワリスの顎を掴み、上を向かせると、その瞳をじっと覗き込んできた。

「……そうか、分かった。君は非理ひりの子なんだね。だから獣人族の特徴を持つのに魔力があるし、この空間にいても消えないんだ」

「……ひ、非理……?」

 戸惑ったように聞き返すと、セルーシャは頷いた。

「非理というのは、グレアフォールが定めたことわりから外れてしまった存在のことだよ。大陸を分断した後、グレアフォールとリーヴィアスは、世の理をいくつか新しく作り直した。その内の一つが、異種族の不干渉。君は、そんな中で生まれた、獣人と人間の混血だ。つまり、異種族同士は交わってはならない、という理を破った非理の子」

「…………」

 現実味のない話なのに、『非理』という言葉がすんなりと頭に入ってきたのは、この話を以前にも一度聞いたことがあったからだろう。
どこで聞いたんだっけ、と思い出そうとして浮かび上がったのは、「僕は死なない」と言って泣きじゃくる、幼いミランの顔であった。
同時に、アルファノルでの最後の記憶も蘇ってきた。
父リーヴィアスの罪を懺悔しながら、非選別者たちに安寧をもたらそうと現れた、年老いたミラン。

 ──そうだ、この耳飾りは、ルーフェンではなくミランのものだ。
ルーフェンがつけていたはずの緋色の耳飾りは、ノーラデュースでジークハルトら宮廷魔導師たちに襲撃された時に、紛失してしまった。
未だに信じ難いことではあるが、リーヴィアスやミランがシェイルハート家の祖先──召喚師一族の始祖であるならば、ルーフェンの耳飾りは、きっと両耳用に二つあった内の一つで、ミランが自身の息子に継がせたものだ。
そして、トワリスが今持っている耳飾りは、アルファノルに来たミランのものだ。
トワリスは、エイリーンにこの耳飾りを奪わせまいと抵抗した後に、ミランが使った移動陣を通って、何故かこの真っ暗な空間にやってきたのだ。

 なかなか困惑の色が消えないトワリスの瞳を見つめたまま、セルーシャは続けた。

「そう狼狽えなくても、混血が生まれること自体は大して珍しくない。特に大陸が分断されたばかりの頃は、分断前に異種族の地に紛れ込んだ異端と、現地の種族との間で、非理の混血児がよく生まれていた。多かったのは、君のような獣人と人間の混血だけど、グレアフォールの目を逃れた一部の巨人リオット族なんかも、人間と交わって、サーフェリアで小さくなって生き延びたみたい。ただ、その大半は若くして死ぬ。基本的に、非理の子は淘汰されるんだ。グレアフォールが、そうなるように世界を"調整"したから。その定められた運命から抜け落ちて、寿命が尽きるまで生き永らえる者はごくわずか。
……君は、そのまれな例だね。本来は生まれてすぐ死ぬはずだったのに、何かのきっかけで運命が狂って、ここまで生き延びた。そのきっかけが何かまでは分からないけど、きっとリーヴィアス絡みだろう。グレアフォールの預言を変えてしまうのは、いつだって彼の血族の人間だから」

「…………」

 トワリスの脳裏に、ふとハインツやノイたちの顔が浮かんだ。
病により生まれつき短命で、十数年前には、ノーラデュースの地底で滅びかけていたリオット族たち。
セルーシャの言う巨人リオット族の末裔と、ハインツたちリオット族が全く同一の血統なのかは分からないが、彼らが今も存続しているのは、ルーフェンが関わったからだ。

 トワリスも、魔導師になってから死にかけたことは何度もあるが、明確に自分の運命の方向性が切り替わった出来事を聞かれたなら、真っ先に思い浮かぶ分岐点は一つだ。
かつてのアーベリトで、逃亡奴隷として行き倒れていたところを、ルーフェンに救われたことである。


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