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投稿日:2026年01月06日






 氷霧で視界が悪い中、ファフリの魔力を辿って駆けていくと、崩れかけた氷山の麓に、三人の人影が見えた。
ユーリッドが氷の上に座り込み、出血した脇腹を押さえている。
その傍らで、ファフリが、ユーリッドの肩に裂いた外套の裾を巻き付けている。
こちらに気づいたジークハルトが、何かを言う前に、ルーフェンはファフリに声をかけた。

「──ファフリちゃん、ミストリアに通じる移動陣は、まだ残ってるね?」

「えっ? う、うん……」

 顔を上げ、ルーフェンが背負っているトワリスを見やると、ファフリは困惑した様子で、手の甲に刻まれた移動陣を見せた。
ルーフェンの言わんとしていることを察して、ユーリッドとジークハルトが眉を寄せる。
ルーフェンは、背から下ろしたトワリスを、有無を言わせずにジークハルトに預けた。

「……まだ生きてる。彼女を連れて、全員でミストリアに飛んでくれ。悪いけど、俺にはもう新しく移動陣を敷く魔力が残っていない。ミストリアに行けば、サーフェリアとの行き来で使った移動陣も残ってるだろう。それで各々自国に帰るんだ、いいね?」

 口早に言って、すぐに立ち去ろうとしたルーフェンの腕を、ジークハルトが掴んだ。

「待て。帰れというならお前も来い。サーフェリアへの移動陣を閉じた今、あの闇精霊が自力でアルファノルから脱出する術は、もうないんだろう?」

 その声に被せるように、遠くで地鳴りが響き、氷床が振動した。
一同の顔つきに、緊張が走る。
おそらく、エイリーンがあの裂け目から這い上がって来たのだろう。

 警戒した様子で地鳴りがした方を見やってから、ルーフェンは首を振った。

「俺はどの道、帰ったところで生きられない。それに、足止め役は必要だろう。もし移動陣の発動中にエイリーンが飛び込んできて、奴までミストリアに渡ってしまったら、それこそ終わりだ」

 立ち上がったユーリッドが、複雑な表情で言った。

「でもトワリスは、ルーフェンを追ってここに来たんじゃないのか? お前を置いて帰って生き延びることなんて、望んでないと思うぞ」

 振り返って、ルーフェンはユーリッドを見た。
彼はきっと、この場にいる誰よりも、トワリスの気持ちを理解できる。
彼もまた、ファフリだけをミストリアに行かせて、自分が救われることを良しとしなかった、そういう性格の持ち主だからだ。

 ルーフェンは微笑んだ。
どうして今代の召喚師の隣には、こういう厄介な人狼族の引き止め役がいるのだろう。

 ジークハルトの手を振り切ると、ルーフェンは言った。

「俺は、君たちに生きててほしいんだよ」

 尚も引き止めてくるユーリッドの声に構わず、踵を返す。
ルーフェンの後ろ姿が、氷霧の中へと吸い込まれていく様を、三人は見つめていた。

 ぎゅっと拳を握りしめたファフリが、不意に口を開いた。

「……ミストリアに、帰りましょう。私、ルーフェンさんの気持ち、分かるもの。トワリスには死んでほしくないし、ユーリッドにも死んでほしくない」

 自身の脇腹の傷に手を当てて、ユーリッドは眉を寄せた。

「俺の傷は大したことないよ、少しかすっただけだ」

「さっきはそうでも、次はどうなるか分からないじゃない!」

 涙を浮かべて、ファフリは反論した。

「勿論、全員で抗って勝てる相手なら、迷わず残るわ。だけど、私とルーフェンさんが二人がかりで召喚術を使っても、エイリーンに致命傷を与えることはできなかった。私にできるのは結界を張ることくらいで、それも対召喚術でなければ壊されてしまう。……きっと私じゃ、ルーフェンさんの助けにはなれない。唯一力になれることが、今生きている三人を、移動陣でここから遠ざけて守ることだっていうなら、私は、ルーフェンさんの願う通りにしたい……」

「ファフリ……」

 ユーリッドは、返答に迷って唇を閉じた。
しばし沈黙してから、ユーリッドは、ジークハルトに視線を移した。

「……あんたはどうする?」

 ジークハルトは、厳しい目つきで二人を見やってから、抱えていたトワリスを地面に下ろした。

「……離脱するなら、三人で帰れ。俺は残る。ただの人間には対抗できない事態なのだとしても、ルーフェン一人に押し付けて逃げ帰っては、大手を振って軍部に戻ることができん」

「……でも、それじゃあ移動陣が……」

 ファフリは言いかけて、唇を噛み締めた。
ジークハルトも、ここで死ぬつもりなのだろうか。
軍部に戻ることを想定しているような発言をしたが、ファフリがいなくなれば、ジークハルトがサーフェリアに帰る術はない。
彼自身、帰りの移動陣を確保するためにファフリを道連れにしたわけだから、それは分かっているはずだ。
にも拘らず引き止めてこないということは、つまり、ファフリたちがミストリアに飛ぶならば、ジークハルトはルーフェンと共にここで死ぬ覚悟を決めている、ということだ。

 次いで、ファフリは、氷上に倒れ込んでいるトワリスを見た。
トワリスも、ジークハルトと同じ気持ちだろうか。
救われることがルーフェンの望みでも、トワリス自身は、ここで戦線離脱して生き永らえるより、彼と運命を共にしたいと思っているのだろうか。

 ファフリが、トワリスの表情を覗き込もうとした──その時。
突然、彼女の身体が起き上がって、激しく咳き込み始めた。
その髪が、赤褐色から黒っぽく変色していく。

 ファフリたちは瞠目して、思わず後ずさった。
ルーフェンに背負われてきた時に、息を吹き返していたことだけでも驚きだったのに、頻繁に髪の色が変わるなんて、一体何が起こっているのだろう。

「……お前、本当にトワリスか? 何者だ?」

 ルマニールを構えて、ジークハルトが声を低める。
トワリスは、ゲホゲホと咳き込みながら、血の気のない唇を動かした。
だが、うまく声が出ないらしい。
喉の辺りをさすりながら、苦しげに掠れた息を絞り出している。

 やがて、話すことは諦めたのか、首を振って、掌をジークハルトたちの前に出してきた。
身体も思う通りに動かないようだ。差し出された手は、小刻みに震えている。
訝しげにその掌を覗き込んで、ジークハルトたちはギョッとした。
見た瞬間、指先から手首、腕にかけて、トワリスの皮膚が薄白い木肌に変化していったからだ。

 息を呑んだユーリッドとファフリが、顔を見合わせる。
ジークハルトは、その正体を見定めるように、トワリスの顔を凝視した。
異様な橙黄色の瞳が、じっと見つめ返してくる。
ぎゅっと瞳孔を細めると、トワリスは、「エイリーンのところへ……」と吐息を漏らしたのだった。


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