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投稿日:2026年01月06日
しんしんと、雪が降り積もる音がする。
同時に、残りの命が、さらさらとこぼれていく音がする。
禁忌魔術によって現れる砂時計は、もう逆転しない。
グレアフォールが強風に乗せて奪っていたのは、おそらく召喚術の才と残りの魔力だったのだろうと、ルーフェンはぼんやり考えた。
いつの間にか、葉擦れの音が途絶えていた。
柔らかな下草の感触もない。
甘やかな花の香りは、冷たく乾いた風に押し流されていく。
気づけばルーフェンは、アルファノルの氷床の上に、仰向けになって倒れていた。
グレアフォールに手放されたことで、ルーフェンの思念は、在るべき場所に戻ってきたのだろう。
エイリーンたちが微精霊化した後、ルーフェンが息絶えたのは、確かにアルファノルであった。
舞い落ちてくる雪の冷たさが、肌に沁みる。
吹雪いていないのは幸いであったが、それでも氷の世界は、無慈悲で寒い。
ルーフェンは、自分が凍りついていく感覚を、諾々と受け入れることしかできなかった。
「…………」
目を閉じると、瞼の裏に、ふとサミルの顔が浮かんだ。
病床に置かれても、亡くなる直前まで、こちらの幸せを願ってくれた。
彼の優しい言葉が、耳の奥に蘇る。
今まで生きてきた、あらゆる記憶が、脳裏によぎっては消えていく。
シルヴィアやオーラント、リオット族たち、シャルシスやバジレット、ジークハルトら魔導師たち──出会ってきた人々の顔が、言葉が、儚い煙の如く浮かんでは、風に吹かれて溶けていった。
最後に思い浮かんだのは、アルファノルでの終わりの瞬間であった。
もしもあの時、もう少しだけ長く意識が続いていれば、ジークハルトたちと一緒に、ミストリアに飛べていたかもしれない。
そうしたら、最期に見るトワリスの表情は、会えてよかったと泣く悲しげな顔じゃなくて、もっと別の表情だったのだろうか。
……なんて、今更考えても、どうにもならないことを思った。
(……──あぁ、くそ……死にたくないなあ……)
目尻に、熱いものが滲んだ。
つっとこめかみを伝っていく。
そんなことを願っても、再び「生きたいか」と問うてくれる悪魔は、もう身の内にはいない。
──いなくていい。あんなものは、いなくていい。
召喚師としての柵も、人智を超えた力も、全部全部、なくなってよかった。
心からそう思うのに、涙が溢れて止まらなかった。
声を押し殺し、静かに涙を流していると、不意に、誰かが声をかけてきた。
「……なぜ泣いている? ……死にたかったのではないのか」
目を覆っていた腕を退かすと、グレアフォールの元にいた幼いエイリーンが、じっとこちらを覗き込んでいた。
そういえば、エイリーンが微精霊化した『還るべき場所』も、このアルファノルだ。
弱った状態でここに飛ばされ、うまく身体を再形成できなかったのだろう。
身体の半分が、腐った木肌に覆われ、ボロボロと崩れかけている。
ルーフェンは、弱々しく声を出した。
「……そんなわけないだろ」
「……では、何故グレアフォール様に逆らった? 人間如きが敵う相手ではない」
「はあ……? 千年以上も逆らって、他国まで巻き込んで復讐しようとしていたあんたに、そんなこと言われたくないね」
「……我が? グレアフォール様に? どうしてそんなことを」
「大陸分断の過程で何かあったってこと以外、知らないよ。俺とあんたは、敵同士だったんだから。……でも、どうせ──」
そこまで言って、ルーフェンは我に返った。
なんで死の間際に、殺し合った張本人と、こんな雑談をしなければならないのだろうか。
頭を動かして、ルーフェンは、傍に立っているエイリーンを見た。
思いのほか興味ありげな顔で、ルーフェンの返事の続きを待っている。
「…………」
はぁっと白い息を吐いて、ルーフェンは言った。
「……どうせ、理不尽で一方的な正論もどきを、グレアフォールに押し付けられたんだろう。もう勝算の有無なんて考えられないほどに、憎くて、腹立たしくて、悔しかったんだろう。……グレアフォールと話したのは初めてだったけど、あの語り口を聞いて、そうなる気持ちは俺にも分かったよ。『我が下した決定は、世の運命であり理だ』……って、何が運命だ。んなもん、クソ食らえって思うだろう」
「…………」
エイリーンは黙りこんで、ルーフェンの言葉を反芻した。
心の隙間に、何かがストンとはまり込んだ。
ざわりざわりと、胸に奥にある枝葉が揺れる。
──そうだ。ずっと、ずっと、頭がおかしくなりそうだった。
何の感情も理解できていないグレアフォールに、形だけの哀れみを向けられるたび、怒りで気が狂いそうだった。
確かにあれは、憎しみで、悔しさで、悲しみで、この世の全てがどうでも良くなるくらいの、激しい絶望であった。
しかし、なぜそんな激情に駆られていたのかは、いまいち思い出せない。
樹根で何度も叩き潰されて、痛かったからだろうか。
いや、違う。何かもっと、重大なことだ。
忘れてはならない何かを、忘れてしまっている気がする。
長く考え込んだ末に、エイリーンは、もう一度ルーフェンの方を見やった。
だが、雪に埋もれているルーフェンの身体は、いつの間にか薄く消えかかっていた。
触れれば、氷と一緒に溶けて無くなってしまいそうな有様だ。
「……人間、死ぬのか?」
ルーフェンは、何も返してこなかった。
わずかに動いた唇から、最期の吐息が、ふうっと抜けていく。
己が何を忘れてしまっているのか聞きたくて、エイリーンは、「まだ話の途中だ」と声をかけた。
だが、ルーフェンの思念体は、どんどん色味を失っていく。
おそらくこのまま、消滅して霧散するのだろう。
ルーフェンの命が溶け出していく様を、ぼうっと眺めていると、突然、頭の中に声が響いた。
──もっと話がしたい?
エイリーンは目を見開いて、辺りを見回した。
しかし、白一色の世界には、己とルーフェン以外には、誰も見当たらない。
エイリーンの困惑を感じ取ったように、声は、もう一度問いかけてきた。
──エイリーン、貴方に聞いているんだよ。彼と、もっと話がしたかった?
「…………」
答えが出なくて、エイリーンは閉口していた。
己は、この人間と、もっと話がしたかったのだろうか。
分からない。分からないけれど、確かに、色々教えてほしいとは思ったかもしれない。
ルーフェンは、エイリーンが長年抱き続けていた激情を、エイリーン以上に理解しているようだった。
グレアフォールは、怒りや憎悪が忘れられないエイリーンを「哀れだ」と一蹴したが、ルーフェンは、「そうなる気持ちは俺にも分かった」と言ってくれた。
きっとルーフェンは、この重苦しい気持ちを解消する方法も知っている。
実際、彼の一連の言動を見ていただけでも、胸がスッと軽くなった。
グレアフォールに対して「クソ食らえ」なんて言って、本当に歯向かって見せた無謀な掟破りは、少なくとも、精霊族では己以外にいなかった。
だから、なんというか、ルーフェンを見ていたら、今までの思いを肯定されたような気分になったのだ。
答えは、案外すんなり出た。
エイリーンは、首を横に振った。
「……話がしたいというよりは、ただ、知りたかっただけだ。……でも、いい。我はじきに、微精霊になる。そうしたら、また何もかも忘れるから、知ったところで意味がない」
エイリーンは、木肌に侵食されていく、己の掌を見つめた。
魔力が、もう残り少ない。
形を失うその時は、着実に近づいてきている。
──本当に、いいの? ここで微精霊になって、自我を失ったら、貴方は永遠にこの墓場に囚われたままだ。
エイリーンは、遠くを見つめた。
「……別にいい。実体や自我を持つか、持たざるか、どこに棲まうかも、我は特にこだわらない」
──でも、それじゃあ、セルーシャには二度と会えないよ。
「……セルーシャ?」
──……ああ……。セルーシャのことも忘れてしまったの? 貴方の大事な片割れだよ。今は、新しい肉体の中で眠っていて、アルファノルには来られない。
「…………」
エイリーンは、言葉を止めて、セルーシャとやらのことを思い出そうとした。
しかし、思い出せない。
必死に記憶の糸を手繰り寄せるが、その姿形も、匂いも、声も、何も浮かばない。
それなのに、セルーシャのことを考え始めたら、どうしてか目の前がにじんだ。
ずっと会いたかった。
会いたくて、会いたくて、やっと会えたのに、グレアフォールに呼び出されたことで、再び離れ離れになってしまった。
また胸が重たくなって、ぽろぽろと涙がこぼれた。
どうしてこんなに、涙が出るのだろう。
涙は、もう一緒にいられない何かを想う時に流れるものなのか。
ルーフェンも、誰かに会いたくて、あんな風に泣いていたのだろうか。
しばらく静かだった頭の中で、再度声が響いた。
──……私は、罪を償いたかった。貴方を滅し、不死の呪いから解放することで、それが果たされると信じていた。だけど……エイリーン、貴方の本当の願いが、別にあるなら、私はそれを叶えたいと思っている。
「……我の、願い?」
エイリーンは、涙を拭い、怪訝そうに聞き返した。
「お前は、先ほどから何を言っているのだ? どうして我の中にいる? お前は一体なんだ?」
声は、小さく弾んで笑った。
──私は……多分、『悪魔』と呼ばれる存在になってしまったんだろうね。召喚師に仕え、その願いを叶える使役悪魔だ。
「悪魔……? 召喚術の才と力は、全てグレアフォールが奪っていっただろう」
──そうだね。でも、私は亡きリーヴィアスではなく、貴方自身が生み出した悪魔だから。グレアフォールではなく、貴方の望みを叶えるよ。といっても、他の使役悪魔と同じように、私が使える特別な魔術は、一つしかないのだけれど。
「特別な魔術? なんだ、それは」
声は、一瞬黙ってから、はっきりと答えた。
──死んだものを、蘇生させる魔術。
ゾクッとしたものが、エイリーンの背筋に走った。
それは、グレアフォールが追い求めている魔術だ。
始祖リーヴィアスが秘匿し、そのまま世から消し去られた、理を覆す禁術。
震える唇を開いて、エイリーンは尋ねた。
「……どうして……お前がその術を知っている」
──私が、その術で生き返った張本人だからね。
声は、あっけらかんと答えた。
──貴方は以前、人間は死んだら無になる、と言ったろう。でもね、やっぱり、完全な無にはならないんだ。そこにいる今代の召喚師だって、グレアフォール王の魔力によって延命した結果、まだ思念が残っているだろう? 人間は精霊族ほど魔力がないから、死後すぐに思念が霧散して見えなくなる。けれど、肉体に宿る意志、魂、精霊族でいう微精霊みたいなものは、どんな生物にもある。……父リーヴィアスは、そういう死んだ人の思念みたいなものが、生まれつき見えやすい人だった。
声は、グレアフォールが千年以上も探し続けている答えを、静かに語り出した。
──リーヴィアスは、サルバランという人間の王国の王子だった。政治上の権力争いとか、戦に用いる魔術の探求には興味がない人だったけれど、そうは言っても、王位にこだわっていた伯父にとって、父は邪魔な存在だったらしい。ある日、母と私……つまり、リーヴィアスの妻子は、彼を狙った伯父の刺客に、殺されてしまったんだ。
怒り狂った父は、既に王位についていた伯父を殺した。そして、どうにか私たちを生き返らせることはできないか、と考えた。父が目をつけたのは、伯父に仕えていた、七十二人の魔導師たちだった。彼らは、旧大陸に数あった王国の中で、サルバランを最強たらしめる魔導師たちで、それぞれ強力な魔術を有していた。他の誰も使えない、その術者固有の特殊な魔術……今で言う禁忌魔術を使えることが、当時の宮廷魔導師団への登用条件だったんだ。
声は、わずかに調子を落とした。
──父は最初に、時の操作を得意とする魔導師を殺した。次に、魔導人形の制作を得意とする魔導師を。他にも、山一つ消し飛ばせるような雷撃を放てる者、強固な結界術を得意とする者、自然物の声が聞ける者……いろんな魔導師がいたが、父は最終的に、伯父の派閥に属している七十二人の魔導師たち、全員を殺した。そして、霧散しかけた彼らの思念を、自分の肉体を器に繋ぎ止め、その固有の魔術と知識、経験を、蘇生魔術の造成に応用しようとした。
……だが、無念の内に殺された魔導師たちも、ただでは従わない。時にリーヴィアスの意識下で甘言を囁き、時に凶悪な化け物の姿になって暴れ、どうにかして自由と力を取り戻すため、父の身体を奪おうとした。父は、内に宿る彼らの人格を、南の伝承に伝わる人に取り憑く魔物にちなんで、『悪魔』と呼んだ。
「…………」
──ついに蘇生の魔術を完成させた父は、七十二人分の魔導師の思念を糧に、母と私を生き返らせようとした。……結果、生き返らせることができたのは、私だけだった。母の蘇生は、何が原因で失敗したのか、彼女自身が、醜悪な肉体を持つ悪魔に変貌してしまった。父は、その器に繋がれる母の嘆きを受け止めて、彼女のことは、泣く泣く見送ったようだった。
「…………」
──たった一人を生き返らせるのに、七十二人。偉大な魔導師の七十二人分の犠牲が、代償として必要だった。とんでもなく非効率的で、非人道的な魔術だ。こんなものは、絶対に世に広めてはならない。二度と繰り返してはならないし、後世に伝えてはならない。だから父は、グレアフォールにも、誰にもこの蘇生魔術の存在を知らせずに逝ったんだ。
「…………」
エイリーンは、眉をしかめたままでいた。
風を操り、世界中の木々の言葉を聞く──風詠みの古代樹ですら調べ出せなかった、禁術の成り立ちと行使方法。
この悪魔が、そんな情報をどうして己に伝えてきたのか、全く理解できなかった。
「……貴様自身も広めてはならぬと思っているなら、どうして我に伝えた? 我は、誰かを生き返らせたいとは願っておらん。己が微精霊に成り下がることを、拒否したいわけでもない。ただ……」
エイリーンは、そこで言い淀んだ。
ただ、なんだ?
己の願いは、結局なんなのだろう。
声は、くすくすと笑みを返した。
──だからだよ。貴方は、何かを生き返らせること自体を望んでいるわけではない。なんなら、生死にも、自我や実体の有無にもこだわらないから、自分自身をその代償にできうる。おまけに、近い内に微精霊になって、記憶を無くしてしまう。だから伝えてもいいと思ったんだ。
「…………」
──それにね、私は、葬って欲しかったのだと思う。
「……何を?」
──この蘇生魔術と、それによって蘇ってしまった、私という非理の存在を。……貴方は葬樹。この禁術を葬る、最後の召喚師に相応しい。
「…………」
気づけば、降り続いている雪が、足首のあたりまで積もっていた。
氷床から湧いて出た冷たさが、捕らえた獲物を死の世界に引きずり込もうと、下から這い上がってくる。
声が、雪の音を遮った。
──勿論、行使するかしないかは自由だ。私の今の主は、葬樹のエイリーン。選択権はそちらにある。
「…………」
──改めて聞こう。貴方の、本当の願いは……?
ほうっと、白い息を吐く。
エイリーンは、何もない氷の大地を見据えた。
ずっと、グレアフォールに復讐したかった。
復讐して、奴を葬り、自らにかけられた不死の呪いを解いて──。
もう一度、遠くに逝ってしまったセルーシャに、会いにいきたかった。
「……会いたい」
悪魔に促されるまま、エイリーンは、樹根に変えた腕をルーフェンに伸ばした。
消える寸前の命を、樹根ですくい上げ、こぼさぬように包み込む。
互いに消滅する運命だが、混じり合って氷の壁を突き抜ければ、きっと光が見えてくる。
この人間が蘇った時、その思念が還るべき肉体がある場所と、エイリーンが行きたい場所は、同じであった。
「────……」
エイリーンは、詠唱した。
そして、残りわずかな魔力を全て投じて、最期の召喚術を発動させたのであった。
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