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投稿日:2026年01月06日





  *   *   *



 誰かが、そっと髪に触れる。
優しく頭を撫でられて、トワリスは、ぼんやりと目を開いた。

 腕に突っ伏していた顔を上げると、寝台から上体を起こしたらしいルーフェンが、じっとこちらを見ていた。
日没前の薄闇のせいだろうか、髪色が少し暗く見える。
しかし、こちらを見据える銀の眼差しは、間違いなく彼のものであった。

「…………っ」

 熱いものが込み上がってきて、目から涙があふれた。
これは夢だ、と思った。
だって、ルーフェンはもう死んでしまって、何日も寝台の上で瞑目めいもくしたままでいる。

 手を引いたルーフェンが、少し困ったような顔になって、頰を伝う涙を拭ってくれた。
少し彷徨った親指が、目元にも触れ、濡れてはりついた横髪を払う。
余計に涙が出てきた。
堪えきれず、トワリスは丸椅子から腰を上げると、寝台に乗り上がって、ルーフェンに抱きついた。
ルーフェンは、驚いたように動きを止めたが、ややあって、自分もトワリスの背中に腕を回した。

 背をさすってくる、ルーフェンの手が温かい。
久々に感じる彼の体温が、全身を包み込んでくる。
トワリスの中で、抑え込んでいた感情が決壊した。
どうか、いかないでほしい。
夢ならば、終わらないでほしい。
目を覚まして、また冷たくなったルーフェンを見るのは、もう絶対に嫌だった。

 トワリスは、嗚咽を漏らしながら、もうルーフェンがどこにも行かないように、ぎゅっとその胸にしがみついた。
顔を埋めると、とくり、とくりと、鼓動が伝わってくる。
その音を聞きながら、トワリスは、この時間がずっと続きますように、と祈った。

 ……けれども、本当に長く続くので、だんだん寝台に乗り上がったままの体勢がきつくなってきた。
それに、夢にしては、なんだか色々と生々しすぎる。
互いの匂いも、体温も、鼓動も、あらゆる感覚がやけに現実的リアルだ。

 トワリスは、ルーフェンの胸から、おずおずと体を離した。
試しに、自分の頰をつねってみる。痛い。
今度は、ルーフェンの頰をつねってみた。意外と伸びが良い。
ルーフェンは、妙な顔になって、「痛いんだけど」と呟いた。

「…………ルーフェンさん、本物……?」

 しゃくり上げながら尋ねると、ルーフェンは、首を傾けて微笑んだ。

「……俺って、本物と偽物がいるの?」

「…………」

 その時、扉の外から、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
ビクッと振り返ったトワリスが、ルーフェンの腕の中から飛び出す。
混乱と羞恥で慌てふためいたトワリスは、寝台の縁から下りようとして、思いきり丸椅子につまずいた。
反射的にトワリスを支えようとしたルーフェンも、寝起きの体に力が入らず、彼女に巻き込まれる形で寝台から転がり落ちる。

 同時に、バンッと勢いよく扉が開いた。

「ト、トワリス! 私、さっき夢を見たんだけど──」

 客室に飛び込んできたファフリが、早口で捲し立て──はっと口をつぐむ。
ファフリがいきなり自室から出て走っていったので、何事かと追いかけてきたユーリッドとジークハルトも、客室に入ってきた。
三人は、室内の状況を見て、驚きのあまり硬直した。

 ルーフェンとトワリスは、床に体を強打した痛みで、しばらくうめき声しか上げられなかった。



  *   *   *



 ──サーフェリア歴、一五○三年。晩冬。
突如、サーフェリアの各地に異常な再生力を以て急増殖した奇妙な樹根は、不意の落雷を受けて枯死し、そのまま絶えた。
同日に王都シュベルテにて観測された、毒性を帯びた黒雨は、世俗魔導師団および修道魔導師会──新旧両団の魔導師らに展開された防護結界によって、無事に防がれた。

 街路や建造物への損害は甚大であったものの、民間への死傷は、最小限に抑えられた。
直前に王宮から発令された避難勧告により、大半の人々が、防護結界の張られた聖堂内に逃げ込めていたためである。
また、ちょうど礼拝の刻と重なり、多くのイシュカル教徒たちが、既に聖堂に参集していたことも、被害を抑えられた一因であった。

 これらの一連の惨劇が、アルファノルの召喚師エイリーンによる侵攻の前触れであったことは、後に王宮に帰還したジークハルトによって、改めて軍部に報告された。
以前から、ハインツとギールが同様の可能性を上申じょうしんしていたこと、そして、実際に召喚術であるとしか考えられない大規模な攻撃を受けたことから、ジークハルトの訴えは、今度こそ王宮に受け入れられた。
なお、その頃、イシュカル教会の最高位司祭モルティスが、実質のストンフリー家当主ゼナマリアにより刺殺されたことで、他国の侵攻を否定する教会勢力の発言権が、一時的に弱まっていた。
そのことも、エイリーンの存在が受け入れられた理由の一つであった。

 ジークハルトは、今回の一件にルーフェンが深く関与していたことは、報告しなかった。
そのため、召喚師ルーフェンが、度々の売国行為を問われて失踪し、追跡した宮廷魔導師によって討たれた、という認識は覆らなかった。
後に宣言された召喚師制の廃止も、引き続き既定のものとして扱われた。

 同時に、ジークハルトは、王宮への報告とは別に、自身がアルファノルで見聞きした出来事を、戦闘詳報せんとうしょうほうとして軍部の記録に残した。
サーフェリアの召喚師一族は、ルーフェン・シェイルハートを最後に、歴史からその名を消す。
しかし、だからこそジークハルトは、他国の召喚師一族に関する記録は、後世に遺されるべきだと考えていた。
四つの国の誕生を描いた現存の創世伝記と同様に、史実かどうか分からない寓話のような形式であっても、召喚師制に頼らぬ次代の魔導師や騎士たちは、過去の軍事体勢によってもたらされた悲劇を知っておく必要があるからだ。

 ただし、その記録においても、おおやけでは死亡したとされるルーフェンとファフリの存在は明言しなかった。
結果的に、エイリーンを退けたのはジークハルトであるという噂が、軍内のごく一部で流れた。
ジークハルトは、それを否定も肯定もせず、沈黙を貫いた。
それは、彼の誇りに反することであったが、その判断が、後にジークハルト自身の背信罪の返上と、魔導師団復権の大きな助力となる。
こうしてサーフェリアは、王都シュベルテを中心に、召喚師制なき後の体制──国王を頂点とした、軍部とイシュカル教会による新たな『軍事神権体制』を取ることとなった。

 一方で、城下の人々には、エイリーンの存在すらも伏せられた。
ここ数年でイシュカル教徒が急増したシュベルテにおいて、教会の権威を更に下げることは得策ではなく、また、混乱を避ける意図もあった。

 八年前のセントランスによる襲撃の記憶が、まだ色濃く残る中。
当初こそ不吉な災いの前兆かと動揺していた民達も、今回は人的被害がごく少なかったため、比較的早く復興への前向きな姿勢を見せた。
折しもこの時期、国王バジレットが病にて崩御。
それに伴い、次に即位した新王シャルシスが、非戦を国策として掲げた。
加えて、亡きモルティスや、過激な弾圧を問題視されて解任となった司祭らの後任として、新たにイシュカル教会を統括することになった司祭らが、各地の諸教会にシュベルテの復興支援を呼びかけたことも、民心の安定に寄与した。

 この後、シャルシスの治世で復興を遂げた王都シュベルテは、サーフェリア最大の軍事都市としての地位を保持し続ける傍らで、学術都市としても発展し、国全体の水準を底上げしていくことになる。
新生したイシュカル教会が、貧民層への学問普及など、あらゆる無償事業を推し進めたためである。
モルティス殺害の罪で投獄されたゼナマリアや、教会の弾圧に苦しんだ魔導師たちは、この事実を知るにつけ、涙を呑んで、教会の再台頭を受け入れたのであった。

 教会の福祉的事業が拡充したこと。
宮廷魔導師時代から実力主義を謳い、生まれに関係なく、能力のある志望者には門戸を開いてきたジークハルトが、魔導師団に復帰したこと。
そして何より、シャルシスが非戦を掲げ、軍部が『侵攻のためでなく防衛のための組織である』と示したこと。
これらにより、魔導師団や騎士団への入団を目指す貧民出、平民出の若者が増加したことも、後に記録されるシャルシス治世の特徴であった。

 ジークハルトと共に、背信の罪を放免とされたハインツの存在も、その潮流の一助となった。
地下暮らしのリオット族であった、という背景を持ちながら、宮廷魔導師にまで上り詰めたというハインツの経歴は、『生まれではなく能力を重んじる新時代』を象徴するものとして、民の目に映ったのである。
その功績は、商会で働く他のリオット族たちの能力の再評価にも繋がり、彼らの生活に大きな影響を与えた。

 巨躯を恐れられ、長らく人に避けられてきたハインツではあったが、復興作業のために城下に立てば、予期せず声をかけられることも増えてきた。
避難中に瓦礫が落下してきた際、ハインツに救われたのだという幼い少年が、わざわざ礼を伝えにきたこともあった。

 少年は、無邪気な顔で、「僕もハインツさんのように大きく、強くなりたいから、手下にしてください」と頭を下げてきた。
付き添っていた母親は、恥ずかしそうに少年を小突き、「そうじゃないでしょ」と怒った。
曰く、魔導師団への入団を目指すという表明だったらしい。

 ハインツは、「手下にはしないけど、がんばって……」ともじもじ返すので精一杯であった。
その場から逃げてしまったのは、未だに初対面の人の目を見て喋るのは苦手だ、という性格も原因であったし、子供の前で泣いてしまうのは恥ずかしい、という思いもあったからだった。

 今から十四年前──ノーラデュースの底から引き上げられた幼い頃に、ハインツ自身も、ルーフェンに同じ頼みをしたことがあった。
どうか手下にしてほしい、一緒に王都に連れて行ってくれ、と。
あの時、ルーフェンが返してくれた言葉を、ハインツは今もはっきりと覚えている。

 当時のことを思い起こしている内に、もう忘れようとしていたはずのルーフェンとの記憶が、後から後から頭の中に溢れてきた。
ハインツは、城下の人々に不審な目で注目される中、ぼろぼろ涙を流しながら、魔導師団の駐屯地に逃げ帰ったのであった。


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