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投稿日:2026年01月09日
最初の訪問から二日経った夕暮れ時に、クレンデルは、再び家畜病院へやって来た。
「見て下さい! ほら、サチコさん、すっかり元気になりました。目に活力に溢れ、輝いております。貴方のおかげです。本当にありがとうございました」
サチコは、クレンデルの腕に抱かれ、感情の読めぬ顔で条太郎を睨んでいる。
睨み返すと、あの薔薇線 (有刺鉄線)の如き青舌を、べろべろっと二度出してきた。気持ち悪い。
この状態が元気なのかどうか、条太郎には皆目見当がつかなかったが、云われて見ると確かに、不気味な三つ目の迫力が増しているようにも思われた。
診察台を挟んで座り、冷めた目でサチコと対峙していると、クレンデルが、封筒を一枚差し出してきた。
「それで、今日はお礼をしようと思いまして。まずはこれ、診療代としてお納め下さい」
受け取って、封を切ると、中には百円札が入っていた。
慄いて、条太郎は椅子から転げ落ちそうになった。
これ一枚に、巷で話題の自転車一台を買える程の価値がある。
条太郎は、封筒をクレンデルに突き返した。
「い、いらん! なんだその額は⁉︎ 僕は正規の家畜医ではないし、高価な薬を処方したわけでもないのだぞ」
「ええ、ですが、違法行為に手を染めて頂いたわけですし……。それにこの前、お金を稼げるから、家畜医も検討したことがあると──」
「──いいから、しまえ! そんな大金、人前でこれ見よがしに出すな! 僕が悪党であったなら、襲われて奪われているところだぞ⁉︎
第一、お前は異国人だからと、世間知らずにも程がある。それだけ話せるのだから、渡航して結構な日数が経つのではないのか? 前回も今日も、女一人と一匹で、こんな日暮れにのこのこと現れよってからに……」
「……奪われるも何も、これはお礼なのですから、奪って頂いて結構なのですが……」
条太郎の勢いに負ける形で、クレンデルは、渋々封筒を懐に戻した。
残念そうにしている彼女を、条太郎は、信じられぬという面持ちで見つめた。
こうも躊躇いなく百円札など渡してくるということは、クレンデルは、やはり当初の推測通り、裕福な華族の娘なのだろうか。
否、異国人の階級制度に則って呼ぶならば、爵位持ちの貴族令嬢か。
彼女が住んでいるらしい源川は、異人街からは離れているし、着ている着物も上等には見えない代物であるが、よくよく考えてみれば、こうも巧みに言葉を操るのだ。
此国の学校には通っていなくとも、母国で余程高等な教育を受けて渡航してきた、上流階級の娘と考えるのが穏当な線であろう。
あるいは、身分に関係なく各所から厚遇される、御雇異国人という可能性も考えられる。
目を惹く容姿と十分な語学力、異端視する輩もいるであろうが、人材として見れば大変優秀だ。
さすれば彼女は、男顔負けに稼いでいる、昨今流行りの"職業婦人"というやつなのかもしれない。
思案する条太郎の前に、クレンデルは、今度は大きな風呂敷包みを出した。
「ではせめて、お夕飯を奢らせて下さい。道中、曽野山通りで色々と買ってきました。まずは、暮れのおやつに、陽三おじ様お手製、パリッと薄皮のこし餡鯛焼き! お一ついかがでしょうか?」
包みから出てきた、未だ湯気の立つ鯛焼きを見て、条太郎は渋い顔をした。
「陽三って誰だ。……僕はつぶ餡派だし、鯛焼きは、尾まで餡が入っている呂安堂のものが好きだ」
「お夕飯にはこれ! 奮発して買った、焼鳥弁当です」
「僕は魚派だ」
「まあまあ、たまには良いではないですか。肉を食わねば開けぬやつ、と云うでしょう?」
「それは牛肉の話だ……」
クレンデルは、二人分の弁当と鯛焼きを、診察台の上に丁寧に並べた。
そして、気乗りしない様子の条太郎はさておき、自分はぱちりと割り箸を割って、むしゃむしゃと鯛焼きと焼鳥弁当を食べ始めた。
端麗な顔を崩すことは厭わぬ、その豪快な食べっぷりを見るに、やはり貴族令嬢などとは思えぬ。
淑やかな見目に騙されそうになるが、クレンデルは、閉めようとした病院の戸に身体をねじ込んで、強引に突破してきた女である。
先程の推測は、当たるならば後者であろう。
絶食明けで、焼鳥の匂いに食欲をそそられたのか、手拭に包まっていたサチコが、短い四肢で診察台の上によじ登った。
ふがふが鼻を鳴らしながら、クレンデルの弁当箱に近づき、何やら訴えている。
「仕方ないですね」と応じたクレンデルが、焼鳥を一欠、サチコの鼻先へ運んでいく。
サチコは、ガパッと顎が外れそうな勢いで大口を開けると、それを一口で食らった。
「……お前、食傷上がりで、あまり食いすぎるなよ」
呆れたように、条太郎が忠告する。
サチコは、鼻面に皺を寄せ、むちゃむちゃと咀嚼した焼鳥を呑み込んだ。
そして、いきなり蛙のように喉を膨らませたかと思うと、条太郎の方を向いて、「コッ、コッ、コケコッコー!」と高らかに鳴いた。
「まあ、サチコさん、お喋り上手ね!」
条太郎は、今度こそ椅子から転げ落ちた。
クレンデルは、さして驚いた風もなく、口元を手で覆って笑っている。
弾みで飛んでいった眼鏡を掛け直して、条太郎は、なんとか椅子に座り直した。
「そ、そいつ、そんな鶏みたいな鳴き方をするのか……?」
「ええ。まあ、これが本来の鳴き方というより、物真似が上手なのです。この前は、すき焼きのお肉を一切れあげたら、モーモー鳴いておりました。可愛いでしょう?」
「サチコお前、普段からそんな贅沢品を食っているのか……」
クレンデルは、「お肉が好きなのよね」、と微笑ましげにサチコの背を撫でた。
かく云う彼女も、実に美味そうに焼鳥弁当と鯛焼きを交互に頬張っている。
あまり美味そうに食べるので、条太郎も箸を割った。
しかし、食は進まなかった。
誰かと飯を食っている、この状況が久々すぎて、どうにも落ち着かない。
頬杖をついて、無駄に箸先で焼鳥をいじっていると、思い出したようにクレンデルが云った。
「そういえば私、肝心なことを忘れておりました」
「……なんだ」
「貴方のお名前を、まだお伺いしておりませんでした」
条太郎は、目を見開いてから、「云われてみれば、そうだったな……」と呟いた。
「僕は条太郎だ。千野条太郎」
「じょうたろうさん。漢字を教えて頂いても?」
「構わないが、知ってどうする」
会話をしながら、条太郎がいつもの帳面の切れ端に名前を書いて手渡すと、クレンデルは、何やら照れ臭げにそれを受け取った。
「宛名用です。条太郎さんと、文通でも始めたいなと思いまして……」
「は? ぶ、文通⁉︎」
条太郎が、頓狂な声を出す。
クレンデルは、名の書かれた紙片を胸に抱いた。
「私、条太郎さんともお友達になりたいのです。簡単な字しか書けませんが……その第一歩として、まずは文通などしてみようかと。何が好きで、何が嫌いで、この物悲しげな蜩の声を聞き、何を想うのか……。そういった自分のことを綴った文を交換し、お互いのことをよく知るのです。森咲五郎先生の著書、『百年の夢路』では、主人公の"優作"と"小夜"が、そのようにして相手のことを知り、仲を深めておりました」
唖然とする条太郎に代わり、調子外れな蜩の声が、外からカナカナと返事をした。
どぎまぎと視線を揺らしながら、条太郎も返した。
「あっ……あれは、友情の話ではなく、こ、恋文の話だろう……」
「あら、条太郎さんもお好きなんですか? 『百年の夢路』」
「だっ、誰が好きか! あんな下品で破廉恥な俗本! やけに流行っているから一体どんなものかと思って時事の勉強も兼ねて冒頭を読んでみただけだ!」
息も継がず宣った条太郎に、クレンデルは朗らかな笑みを向けた。
「そうなのですね。では、是非最後まで読んでみて下さい。優作と小夜の恋模様は勿論ですが、後に出てくる優作の旧友、将吾の活躍も必見です」
毒気を抜き取られたような心地で、条太郎は嘆息した。
「……お前、ああいう大衆文学が好きなのか?」
「はい、好きですよ。小説に限らず、此の国の芸術は総じて好きです。最初は、表紙の絵を眺めるのが好きでしたが、字が読めるようになってからは、中身の小説も好きになりました」
「ちゃんと読めるのか? 話すのは問題なさそうだが、漢字は苦手なのだろう」
困ったように、クレンデルは肩をすくめた。
「ええ、そうなのです。片仮名と平仮名と、簡単な漢字なら読めるのですが……難しい漢字は読めません。だから、悔しく思うこともあります。一言一句、全て読むことができれば、森咲先生が作品に込めた想いを、漏らさず理解できるのに、と。
でも、今更就学することもできないでしょうし……。以前、書籍館 (図書館)に行けば、辞書で字を調べながら読み進められるかしらと、帝都大まで伺ってみたこともあるのですが、『一体何用か』と学生さんらしき方々に引き止められてしまって、諦めました。以来、彼処は私のような異国人が入って良い場所ではないのかもしれないと、二の足を踏んでしまって」
厳しい顔で聞いていた条太郎が、腹立たしげに箸を置いた。
「何用かと問われたら、本を読みに来たのだと答えて、堂々と入って行けば良いだろう。引き止められても、持ち前の強引さで振り払え。他にも何か云われたら、此処は公衆の場であると反論しろ。
書籍館は、蒐集した図書や雑誌、新聞などの記録、その他資料を一般の利用に供する施設である、と教育令でも定められている。まあ、持ち出しには金がかかるから、完全に誰でも利用できる、とは云い難い状況だが……基本は、女だろうが、子供だろうが、異国人だろうが、須く出入りして良い場所だ。利用を妨げる者は、それこそ違反者となる。絡んでくる馬鹿には、その草履でも投げつけておけ」
条太郎に足元を指差されて、クレンデルは苦笑した。
それから、悩ましげに視線を斜め下に遣った。
「でも……私などが小説を広げて居座ったら、どうしても浮きませんか? 彼処でお勉強している学生さんたち、皆、賢そうな方ばかりなんですもの」
「関係ない。帝都大の敷地内に建ってはいるが、あの書籍館は国のものだ。帝都大の学生のものというわけではない」
「それは、そうかもしれませんが……」
言葉尻を濁してから、クレンデルは、何かを思いついたらしく顔を上げた。
「では、条太郎さん、一緒に来て下さいませんか?」
「……何故そうなる」
「良いじゃありませんか。条太郎さん、帝都大の学生さんなのですよね? 隣にいて下さったら、私、堂々としていられる気がします。
あの書籍館、中だけでなく、その周辺にも学生さんたちが沢山集まって、よく引札を配ったり、騒いだりしてらっしゃるでしょう。たまに憲兵さんたちと揉めているようなこともあって、なんだか物々しい雰囲気が漂っているじゃないですか。入る権利があると云われても、やはり近寄り難く感じてしまうのです」
条太郎は、少々気まずげに目を逸らした。
「単に馬鹿騒ぎをしているかのよう云うな。あれは、ただ集まっているわけではない。所謂、学生運動というやつだ」
「学生運動?」
条太郎は、浅く頷いた。
「反差別を掲げ、華族制度の撤廃や参政権の要求、現内閣体制の見直し、異形防対法を始めとする暴悪的な法律の改正などを主に[#ruby=標榜_ひょうぼう]している。在るべき言論の自由、一国民として平等に持つべき権利を行使し、賛同する同志たちと共に、啓蒙活動を行っているのだ」
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