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投稿日:2026年01月09日
[#ruby=翌_あく]る日は、朝から分厚い雲が出て、陽光を天に閉じ込めていた。
薄暗い家畜病院の中、石油洋燈の光だけが、心の拠り所であった。
しかし、風で戸が揺れる度、其の心も揺れ、ひどく掻き乱される。
またクレンデルが訪ねてきたのではないかと思うと、とても平静を保ってはいられなかった。
昨夜からずっと、彼女は人ではないのかもしれぬ、という考えが、条太郎の頭を支配していた。
思いが浮かぶ度、あのような異形が在って堪るか、と思考を振り払うのだが、完全に切り棄てることは中々敵わない。
勇太郎やサチコと関係があることも、訪れる時分が必ず夕刻以降であることも、凡ゆることが、彼女を異形だと仮定すると腑に落ちるのだ。
特別に幼顔なのだろうとか、特徴的に白化症の気があるのかもしれないとか、様々な否定材料を論うも、それにしたって不可解な点が多すぎると別の自己が囁き、結局は堂々巡りである。
別段、仮にクレンデルが人ならざる何かであったとしても、こちらに害を為す存在だと恐れてはいない。
異形であったとて、彼女と知り合い、話した時間が消えて無くなるわけではない。
無論、異形防対法に違反しているという点は問題なのだが、要は、人語を話すサチコが増えたと思えば良いだけのこと。
たったそれだけ。それだけと分かってはいるが、意識し始めた途端、あの紅い瞳が、目の奥にちらついて離れない。
直接真相を確かめるまでは、一旦忘れて文机に向かおうとしたが、様々な憶測と胸騒ぎが幾度も条太郎を追い掛けて来て、教本を捲る指を阻むのであった。
ガタガタと、また戸が揺れた。
風、ではない。外に何者かの気配が在る。
顔を上げ、条太郎は、戸の方を睨みつけた。
刻は逢魔時。そろそろクレンデルがやってくる頃合であった。
条太郎は、文机の椅子から腰を上げた。
けれども、戸を叩く音は一向に聞こえてこない。
代わりに、小さく話すひそひそ声と、外壁を削るようなギィギィという音が聞こえてきたので、条太郎は、詰めていた息を吐き出した。
クレンデルではない。蓋し肝試しに来た悪童共であろう。
条太郎は、内からどんっと壁を叩くと、怒鳴り声を出した。
「帰れ悪童ども! 林道で迷っても知らんぞ‼︎」
「ひゃあっ!」と甲高い悲鳴が上がって、戸の前から、駆け去っていく複数の足音がする。
やれやれと文机に戻る間もなく、今度は断末魔とも云えるような、癇走った絶叫が聞こえてきたので、条太郎は怪訝に思った。
今日の悪童共は、やけに大袈裟な反応をするものだ。
条太郎が、只事ではないと察したのは、次の瞬間、地が揺れるほどの落下音が響いたからだ。
まさかとは思うが、悪童共がこの病院を狙って、坂上から巨石でも滑り落としたのではあるまいか。
それはまるで、屋根に積もった雪塊が滑り落ちたような、重々しく派手な音であった。
下駄を突っ掛け、条太郎は、勢いよく戸を開けた。
「おい悪童ども! いい加減に──……」
云い切る前に、条太郎は[#ruby=愕然_がくぜん]と言葉を止めた。
戸の先には、当然の如く雪塊も、巨石も落ちてはいなかった。
肝心の悪童共の姿も、杳として知れない。
ただ、細い斜陽が仄青く照らす地面に、人を潰して引き摺ったような、多量の血痕が在った。
「…………」
いつもは鳴いている蜩の声が、ぴたりと止んでいた。
不穏な空気が、糊のように肌にまとわりついている。
風がない。暑さも感じない。
背に冷たいものが滲んで、襯衣をじっとりと湿らせた。
静寂の中に、ふと、子供の呻き声が混じった気がした。
ごくりと息を呑み、条太郎は、恐る恐る血痕を辿っていった。
血痕は、林道から外れた、浅い窪地まで続いている。
呻き声は、いつの間にか、ずるずると何かを啜るような音に変わっていた。
静物のように佇む木々を掻き分け、窪地に近づいていくと、不意に、ぞわっと鳥肌が立った。
背筋が凍り、全身の毛が逆立つ。
窪地の底に、何かがいる。
啜るような音は、そこから間断なく響いていた。
下草を踏み分け、ついに、窪地を覗き込んだ時。
条太郎は、心臓を締め付けるような恐怖に囚われ、その場から動けなくなった。
炭粉でも被ったような、黒く巨大な異形が、踏みつけた子供の腹に口吻を突き刺し、ずるずると血を啜っている。
それは蜘蛛か、蟎にも似た形態をしていた。
丸く膨らんだ腹部と、刺々しい八本の脚を備えている。
近くには、腑をごっそり失くした別の子供が、襤褸雑巾のように全身擦り潰されて、絶命していた。
ふと、異形が頭部を持ち上げ、こちらを見遣った。
逃げなければ──と思った時には、条太郎は、迫ってきた異形に組み敷かれていた。
鉄のように硬く、重い外皮を纏った脚が、首と腹にズンッとのし掛かる。
後頭部を地に打ち、目から火が散った。
全身の骨が、ぎしぎしと軋む。
臓腑を押し出されるような圧迫感と、血が喉に迫り上がるような苦痛で、条太郎は、悲鳴を上げることも出来なかった。
視界が暗くなる──寸前。不思議なことが起きた。
一瞬、条太郎の身体が透け、のし掛かっていた異形の脚が、水でも踏んだように地に沈んだのだ。
条太郎は、大きく咳き込みながら、異形の脚を摺り抜けた。
まるで掴めぬ波になったような心地であったが、己の身に何が起きたのか、考える余力はない。
必死に呼吸しながら、痛む身体を起こして走るので精一杯であった。
死に物狂いで来た道を駆け戻ると、家畜病院の前に、クレンデルが立っていた。
クレンデルは、条太郎に気づくや、振り返って嬉しげに手を振った。
「──あ、条太郎さん! 良かった! 戸を叩いてもお返事がないので、どうなさったのかと心配しましたよ」
「ば、馬鹿! 早く逃げろ……‼︎」
「えっ……?」
条太郎の叫びは、掠れた呻き声にしかならなかった。
瞠目した彼女が、条太郎の背後に迫る、醜悪な異形の姿を認める。
異形の口吻が、ヒュッと鞭のように撓った。
それは、条太郎の腹を透過し、真っ直ぐに伸びていく。
そして、驚きに立ち竦む、クレンデルの胸部を貫いた。
「あ……っ!」
ごぷっと吐血して、クレンデルが頽れる。
彼女の抱えていた風呂敷包が、どさりと落ちる。
懐から投げ出されたサチコが、地面で弾んで転がった。
咄嗟に口吻を掴むと、条太郎は、クレンデルの胸部からそれを引き抜いた。
そのまま千切ってやろうとしたが、叶わなかった。
突進してきた異形が、条太郎を押し倒し、その上に覆い被さったからだ。
「ぐ、ぅ……っ、はなせ! 放せ……っ!」
脚を押しのけ、何とか逃れようともがくが、巨大な異形相手に、力で敵うはずもない。
今度は、異形の脚を摺り抜けることもできなかった。
再び身体を押し潰され、息が詰まる。
呼吸ができなくなると、周囲の物音が遠くなり、視界がぼやけ始めた。
薄れ行く意識のどこかで、死を覚悟した。
目の前が、徐々に闇に沈んでいく──その時。
もう聞こえるはずのないクレンデルの声が、途切れかけた条太郎の思考の糸を、すんでの所で繋ぎ止めた。
「きゃぁっ、大変! 書籍館でお借りした新聞が、汚れてしまいました! もう、どうしてくれるんですか!」
──瞬間、異形の重みから解放された。
はぁっと喉が開いて、酸素が肺に流れ込んでくる。
条太郎は、激しく咳き込み、喘鳴しながら、痛みに痙攣する身体を丸めた。
朧げな視界の中で、クレンデルが、飛び退いた異形と自分の間に立つのが見えた。
「ちょっと貴方! お食事は結構ですが、私のお友達……になる予定の方を困らせないで下さい!」
条太郎は、憮然とした面持ちで、クレンデルの後ろ姿を見つめた。
彼女の胸部には、風穴が空いている。
藍鼠色の着物は、噴き出した血に染まって真っ赤だ。
それだのに、クレンデルは平然と立ち歩き、異形に向かって啖呵を切っている。
何が起こっているのか、全く理解できなかった。
クレンデルは、条太郎の上体を支え起こすと、心配そうに顔を覗き込んできた。
「条太郎さん! 条太郎さん、大丈夫ですか? 意識を強く保って下さい!」
朦朧としている条太郎の頬を、クレンデルがぺちぺちと叩く。
条太郎は首を振り、クレンデルを押し退けようとした。
未だこちらを狙っている異形を指差し、声にならぬ声で、「僕に構わず早く逃げろ」と云ったつもりであった。
異形の方を見て、クレンデルは唇を尖らせた。
そして、「どこか別のところへ行って下さい!」と、またも豪胆に云い放って見せた。
だが、そのような苦情が、異形に通ずるはずもない。
ギチギチと口器を鳴らした異形が、二人を喰らおうと迫ってくる。
条太郎は、なんとかクレンデルを突き飛ばし、「逃げろ!」と口を動かした。
尻餅をついたクレンデルは、億劫そうに息を吐いた。
それから、ゆっくりと立ち上がり、再度異形に視線を移した。
その白い腕が、不意に持ち上がる。
刹那、彼女の口から、耳を突き抜けて脳を揺らすような悍ましい声が、低く紡がれた。
「──失せろと云っている」
ブチブチッと、耳障りな裂断音が響く。
クレンデルは、突撃してきた異形の頭部をむんずと掴むと、勢いよく捻り切った。
身の丈ほどもある巨頭が宙に放られ、地に落ちて、熟れた果肉の如くべちゃりと潰れる。
雨が降った。
赤くて鉄臭い、異形の頸から噴き出した血潮の雨である。
腹の底が、じんじんと慄いている。
やがて、司令塔を失った異形の巨体が地に臥すと、周囲の音が戻ってきた。
ごうっと吹いた風で、頭上を覆う梢が揺らぐ。
はらはらと舞い落ちた葉が、足元の血溜まりに降り注いだ。
てちてちと短い四肢で駆け寄ってきたサチコが、血溜まりを泳ぐようにして渡り、異形の死骸に近づいた。
ふがふがと鼻を鳴らし、異形の臭いを嗅いでいる。
嗅ぎ回る内、サチコの身体が、一回り、二回りと巨大化し始めた。
あっという間に異形以上の大きさに成ると、サチコは、鋭利な白い牙が並ぶ大口をガパッと開き、異形の頭部を一口で喰らった。
ガリガリ、ボキボキと、硬い外皮まで噛み砕く音がする。
口からはみ出した異形の一部が、バシャッと血溜まりに落ちると、跳ねた血が条太郎の袴を汚した。
返り血を拭っていたクレンデルが、サチコの様子に気付き、慌てたように制止した。
「ああっ、駄目ですサチコさん! そんな汚いものを食べては……。またお腹を壊してしまいますよ!」
しかしサチコは、クレンデルの忠告を聞かず、次いで異形の胴体まで喰らい始める。
全てを噛み潰す無慈悲な音が、ガリガリ、ボキボキと、いつまでも響いていた。
サチコの説得を諦めたクレンデルが、ふと振り返り、腰を抜かしたままの条太郎に手を差し伸べた。
「……とんだ災難でしたね。条太郎さん、無事で良かったです。どこか痛む箇所はありませんか?」
「…………」
条太郎は、彼女の手を取ることが出来なかった。
血溜まりに座り込んだまま、怖々と顔を上げると、震える声を絞り出した。
「……お……お前、やはり、い、異形だったのか……?」
問うや、すっとクレンデルの表情が消えた。
いよいよ暮れてきた、宵闇の中。
彼女の紅い目が、サチコの三つ目が、怪光を帯びて爛々と輝いている。
だがクレンデルは、直様に相好を崩すと、いつものように邪気のない物言いをした。
「……あの、私って、やはり[#ruby=此国_しこく]では"異形"と呼ばれる存在なんでしょうか?」
「は……?」
思わず聞き返した条太郎に、クレンデルは、頬を羞恥の色に染めた。
「あっいえ、多分そうかな、くらいの自覚はあったんですよ? でも私、皆さんの作り出す分類方法は、複雑でよく分からなくて……。
この姿を使っている時は、基本的に"人間"と認識されるんです。ただ、殆ど同じ姿で別の国にいた時は、"鬼子"と呼ばれていました。また或る国で、人の精気を啜っていた時は、"幽鬼"とか"悪魔"とか、"邪神"とか呼ばれていました。生き血を吸うのにハマっていた時は、"吸血鬼"とも呼ばれていました。
サチコさんも、今では頭から丸齧り派で"異形"と呼ばれていますが、数十年ほど前に川に潜って、入ってきた人のお尻の穴から心臓を抜き取って遊んでいたら、"河童"が出たと騒がれました。
でも、精気が好きか、生血が好きかなんて、つぶ餡が好きか、こし餡が好きか程度の違いに思えますし、頭からいくか、お尻からいくかも、鯛焼きを頭から食べるか、尾っぽから食べるか、みたいなものじゃないですか。普通の人間の嗜好の差と、一体何が違うのでしょう? 私には、その分類の法則性がいまいち理解できなくて……」
クレンデルは、朱殷に変わり果てた着物の袖を、ひらりひらりと揺らした。
「それにほら、条太郎さん、以前『異形を制御不能な未知の生物を定義するなら……』と仰っていましたよね。その定義なら、今の私は、異形には当てはまらないと思うのです。
……私は此の国に来て、勇太郎さんと出会って、人間のことが大好きになりました。人間は賢くて、創造力が豊かで、言葉も巧みで、本当に面白い生き物です。だから私、もう人間は襲わないし、逆らうこともしないと決めたのです。仲良くなって、お友達になりたいとすら考えています。つまり、今の私は、人間にとって制御不能ではありません。人間の考え方を理解して、同じ言葉を話して、同じ価値観を抱けば、私はもう、人間みたいなモノですよね」
「…………」
クレンデルは長々語って、再び手を差し出してきたが、条太郎は、その手も取れなかった。
条太郎には、今の自分がどのような顔をしているのか、分からなかった。
けれども、彼女の反応を見れば、きっと自分は、怯えた表情をしているのだろうと想像がついた。
クレンデルは、悲しげに眉を下げ、大人しく手を引っ込めた。
「……すみません、出過ぎたことを云いました。屁理屈を捏ねたところで、人間みたいなモノにはなれても、人間にはなれませんよね。私は既に、人間の何倍、何十倍も生きていますし、未知という点では、やはり異形と呼ばれるべきなのかもしれません」
少し迷った素振りを見せてから、クレンデルは尚も云った。
「……ですが、それならそれで良いのです。私がお友達になりたいのは、人間の誰かではなく、条太郎さんですから。
今の条太郎さんは、もう異形みたいなモノですものね。私達、人間みたいなモノ同士、同類といえるでしょう?」
「……ど、同類? 僕と、お前が……?」
クレンデルが、微笑んで頷く。
怪訝に顔を顰めたまま、条太郎は硬直した。
云われている意味が分からない、といった様子の条太郎に、クレンデルは、哀れみの眼差しを向けた。
「ああ、条太郎さん、やはり気づいていらっしゃらなかったのですね。……それとも、本当は気づいているけれど、思い出したくないだけ?」
クレンデルは、条太郎の側に屈んだ。
そして、どこか嬉しげに、そっと耳打ちをした。
「条太郎さんは、もう死んでしまっているんですよ」
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