It's a rainy day ,for you
「くそ、雨か」
3月に入っても、曇天の日は寒かった。
今朝の天気予報でも曇りのち雨、降水確率は50パーセント。しかし夜から雨だと聞いていたから、昨日出勤するときも傘は持ってこなかった。
当直明けの宜野座が帰宅しようと公安局のロビーを出ると、ぽたり、雨水が眼鏡のレンズに落ちた。思わず空を見上げると、小雨だが傘がないと濡れる程度に雨が降っている。今日に限って車ではなく電車を使って出勤した自分を恨んだ。デバイスを立ち上げ、今朝と同じように天気予報を見る。――雨、降水量は2ミリ。
無意識に溜息をついた。そして一度眼鏡を外して、ポケットから出したクリーナーでレンズを拭いた。雨の日と眼鏡は、相性が悪い。
ポケットの中の携帯端末が振動した。こちらが鳴るということは、きっと、彼女からだ。眼鏡を掛けなおして端末を手に取る。
――お疲れさま。ちょうど近くにいるのでお迎えに行くね。それまでどこかで雨宿りして待っててください。
見計らったかのようなタイミングに、思わず苦笑する。文面によると、どうやらわざわざ来てくれるらしい。
「……全く、相変わらずマメだな」
***
今日は雨だ。伸元は昨日から当直で、それが明けてお昼前にやっと帰宅する予定だ。
早起きがからだに染みついていて、伸元がいないのに朝早くに目が覚めてしまった。目が覚めたときに隣にいないさみしさには慣れたつもりだったのに。
時間を持て余したので午前中にお菓子を作るなんてことをした。ハイパーオーツで食事がすべて賄えてしまうこの時代に、あえて手をかけて天然の食材を買ってみて作るだなんて、物好きだなと彼には言われたことがある。天然の食材は色相を曇らせる可能性があるとして一般的には嫌悪されているので、初めは伸元も抵抗があったらしいが、彼の部下にも同じく手料理を好む人がいるらしく、私が作ったそれも、意外とすんなり口にしてくれたのだった。
今日も帰ってきて、昼食の後にでも食べてくれたらいいなと、ふと時計を見る。仕事が終わるまでまだ時間があるが、そういえば傘を持っていないはずだ。
買い物に出るついでに、彼を迎えに行こう。
***
どこにいるかと思えば、彼は公安局の近くのカフェで時間を潰していたようだ。連絡する頃にはカフェの前に立っていて、こちらに気づくなりポケットに入れていた手を出した。
「お待たせ」
「いや、わざわざすまない。ありがとう」
嬉しそうに微笑む伸元に小走りで駆け寄ると、傘についていた水滴が流れてぽろぽろと落ちた。しかもそれが、自分のカバンと彼の眼鏡に飛び散って、せっかく笑ってくれていた彼の眉間に、瞬時に皺を刻む羽目になってしまった。
「……あ、ごめん」
やれやれと煩わしそうに眼鏡のレンズを拭く伸元に謝りながら傘を閉じて、ふたり同じ屋根の下におさまる。
「名前も、カバンが濡れたぞ」
「ほんとだ。ま、これくらいなら」
「俺が気にするんだ」
おもむろにハンカチを取り出して私のカバンの水滴すらも拭き取ると、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。そんな彼にお礼を言いつつ向き直ると、目が合う。
「ところで、傘がひとつしかない気がするんだが」
「えっ、あっ、……ほんとだ」
「せっかく来たのに、忘れたのか?」
「……ごめん」
呆れたように苦笑いをこぼす伸元が、少し悩んで空を見上げる。謝ってばかりだ……と肩を落として呟けば、やさしく頭に手のひらが乗せられた。
「まあ、傘が一本だけでもある。それに、雨もそこまで強いわけじゃない」
穏やかな声音だ。――怒ってない。
顔を上げて、下から彼の顔を覗き込む。視線がぶつかる。そして、にやり。ある提案をする。
「……伸元は大きいから、傘を持ってもらっちゃうことになるけど」
「……」
「相合傘、しよっか?」
告げた瞬間、彼の眉がわかりやすく跳ね上がった。眼鏡の奥の瞳が揺れる。そして、視線を逸らして、数秒間を置いて、また視線が交わる。
「……仕方ないな」
正直、俺もその選択肢しか浮かばなかったんだ、と恥ずかしそうに言う伸元を見て、胸の奥が苦しくなった。そんな彼の右手に左手を指ごと絡めた。
伸元が傘をさして、歩幅を合わせてふたりで歩き出す。駅までは少し、距離がある。
雨は降り続ける。たまに、彼の眼鏡に滴が飛んでしまうのを見つけては、笑い合いながら。
「午前中にお菓子作ったよ」
「そうか。あとで頂こう」
「うん、食べてね。あ、お仕事お疲れさま!」