きっかけ。
※宜野座監視官、結婚等に関しては色々と勘違いしてそう……という妄想から
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
こんなふうになるなんて、想像もしなかった。つい、三十分前までは。
それは、刑事課のオフィスフロアでの出来事だ。
当直が明ける少し前、以前扱った事件のことで局長に呼ばれ、局長室へ出向き、なんとなく精神をすり減らしながら話をしたあと、エレベーターの下降ボタンを押し、ふらつく足取りで一係のオフィスへ戻ろうとした時のことだ。
ちょうどタイミングよく交代で出勤した宜野座監視官が向こうから歩いてきたのに気づかなかった私と、なにか考えごとをしていたのか下を向いていた宜野座監視官が、見事に正面からぶつかってしまったのだ。
彼は流石ともいえる反射神経で私の腕を掴んだ……が、そのせいか否か、宜野座がしりもちをつく形で後ろに倒れ込んでしまったのだ。
気づいたときには宜野座の顔が目の前にあったので、一瞬で我に返って謝罪した。
「すみません!!」
「こちらこそ、すまない!」
怒られるかと思ったのに、違ったのが意外だった。お互い様だという認識はあったらしい。掴まれていた腕が離されて、なぜか彼が私を凝視する。
「怪我はないか」
「えっ? あ、はい。宜野座さんが支えてくれたので……、というかむしろ、痛くないですか!? その、ごめんなさい……」
長くすらりとした脚の間から抜け出して立ち上がる。ずれた眼鏡の位置を修正しながら彼も立ち上がり、乱れた前髪を細く長い指で整える。
「俺は平気だ。……ともかく、君が怪我をしなくてよかった。俺のせいで怪我をしたとなれば、責任を取らなくてはならんと思ってな」
「……責任、ですか?」
足元に落ちた宜野座のカバンを拾い、手渡しながら訊く。
「……ああ。その、君に怪我をさせたなどということになって、万が一傷が残ったりして、……君に、その、相手が出来なくなったりしたら、」
頬のみならず、耳まで綺麗に赤く染めて、宜野座は控えめに言葉を紡ぐ。しかし彼の言いたいことがうまく伝わって来ず、思わず首をかしげてしまうと、少し苛立ったように、逸らし気味だった視線が真っ直ぐにこちらに向けられる。
「……だから、万が一君に怪我をさせるようなことがあれば、俺が責任をとってパートナーにならないといけないかもしれないと思ったんだ!」
数秒後、ようやく言葉の意味を理解した私の全身は、沸騰しそうなほどに熱を持ちはじめた。きっとゆでダコのように真っ赤な顔をしているだろう。対する宜野座も、何を言ってるんだと言わんばかりに眉間に皺を寄せながら、口元を手で押さえている。
「……え、それって、」
「……だが、怪我はしていないようだから、何も聞かなかったことにしてくれ」
バツが悪そうに苦笑しながら、「では、交代の時間だ」といつもの声のトーンで告げると、一係のオフィスへと消えていった。
いろいろなショックが多すぎて、帰宅したあとも悶々としていた。
宜野座のことを意識したことがなかったわけではない。ああ見えてとてもやさしいひとだし、気遣いもあるし、何よりルックスもいい。長い前髪から覗く切れ長の瞳が素敵だとずっと思っていた。鼻筋の通った横顔も美しいと思っていた。しかし、これは――どうしよう、好きになっちゃったのかも。
あんなふうに言ってくれるとは思わなかった。
ということは少なからず、彼も私に対して好意を抱いている可能性が高い……と思う。
そう思うと、途端に鼓動がはやくなる。純粋な彼のことだから、下心があるとも思えない。むしろ、そんな色相の濁りそうなことは言わないはずだ。
明日、会うのも緊張する。そうなってしまったのは、彼のせい。おそらく彼も同じだろうが、逆にさっぱり忘れてしまっていて、何も無かったことになるならそれで楽だなとも思った。
翌朝、夜勤だった宜野座と交代した。
彼は昨日のことなんかまるで何も覚えていないかのように、いつも通りの態度だった。引き継ぎも特になく、昨晩は平和に過ごせたのだろう。
「お疲れ様でした。あとは任せてください」
「ああ、頼んだぞ」
ふう、と溜息をついた宜野座が、ぽん、と私の肩に手を置いた。そして、ほんの一瞬だけ、
そのとき、私は確信した。
――この人のこと、好きだ。
コートを羽織り、カバンを手にした彼の後ろ姿に思わず見惚れる。見慣れているはずの細身の長身が、キラキラと輝いて見えた。不思議だ。
顔が熱くなる。慌てて頭を振って、冷静になれ、と呪文のように唱える。あの小さな事故からたった半日ほど。――彼は、あのとき私に言った言葉を覚えてくれているだろうか?
後日、屋上テラスで休憩していると、隣にそっと彼が座る。そして、ふと、言うのだ。「……先日の件は、まだ、有効だろうか?」と。
彼はとても鈍感で、こういうことには疎いと思っていたけれど。そっと触れられた指先が熱い。
――君が怪我をしていなくても、ほんとうは。
紡がれた、言葉の先に続くそれは。