miel

運命を糸に託せば

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 翌朝、刑事課のオフィスへ出勤すると、なんといちばんだった。珍しく宜野座さんが来ていない。
 昨日はあのあと、緊張しながらも程よくふたりの時間を楽しんでから、宜野座さんに自宅まで車で送ってもらった。「おやすみ」と言い合えるのが、なんだか嬉しかった。しかしそれはそこまで遅い時間のことではない上に、彼に限って寝坊ということはまずないだろう。そもそもそんなことは彼自身が許さないであろうし、性格からしても時間に関してはきっちりしているはずだ。

「おはよう」

 しばらくして狡噛さんがやってきた。「おはようございます」と返すなり、彼は不思議そうな顔をする。

「ギノはまだなのか? あいつが遅刻なんて珍しいな」

「珍しいですよね。宜野座さんに限って……」

「ああ。……何も連絡はないのか?」

「……はい、特には」

 そうか、と言って狡噛さんは煙草に火をつけた。付き合いが長い分、なにか思うところがあるのだろうか。
 ずっと思っていたが、彼はヘビースモーカーだと思う。今時煙草を吸うなんて、と最初は思ったが、彼なりになにか理由があるのかもしれない。まあ単に、純粋に、煙を好んでいるだけなのかもしれないが。

「おっはよ〜っす」

 次いで縢くんが入ってくる。今日の当直は、私を含めたこの三人と、あと宜野座さんだ。それにしてもどうかしたのだろうか。何かあったのだろうか。私が不安になったのを狡噛さんが察したのか、「連絡してみたらどうだ? 恋人なんだし、うざがることはないだろ」と言う。
 素直にそれに従ってみる。監視官用デバイスから宜野座さんにコールを入れると、三コール目で彼は応答した。

「あ、おはようございます、宜野座さん。あの、今日、」

『おはよう……すまない、局長から呼び出しがあってな……』

 当直でしたよね? と言いかけて、返ってきた声に押し黙った。

「ギノさんが呼び出しって……なんかやらかしちゃったわけ?」

「いやいや、宜野座さんに限ってそんな」

 縢くんが楽しそうに笑って、「わっかんねえじゃん」と茶々を入れるが、私が言葉を発する前に宜野座さんから応答が入る。

『とにかく、用事が済んだらそっちへ行く。すまないがしばらくは三人で頼む』

 そう言って通信は切れた。彼の緊張の色が滲む声を聞いて、私と狡噛さんは無意識に顔を見合わせた。大丈夫だろうか。

「何かあったっけな……」

「心当たりは今のところないんですけど……」

 煙草を灰皿に押し付け、狡噛さんは妙だな、と漏らす。
 とにかく今日はしばらく三人で任務にあたるしかなさそうだ。常に人員不足の刑事課だし、こういうことがあるのも仕方がない。ここのところは大きな事件はないから、それだけが救いのような気もした。
 しかし、なぜだろうか。こういうときに限ってエリアストレス警報が入る。けたたましくアナウンスが鳴り響いて、三人は重い腰を上げた。

「出動ですね。行きましょう、ふたりとも」



 エリアストレスが上昇した原因は結論から言えば痴情の縺れだった。シビュラによって相性の適性が診断できる時代とはいえ、自由恋愛だって可能だ。色相が濁ったという男性は、その女性のことが好きだった。女性も男性を愛していた。しかし女性は、何らかの理由で別れを告げようとしたその結果、女性が刺されたのだ。
 現場となった部屋に突入したとき、そこには女性しかいなかった。脇腹のあたりを刺されていた女性は血まみれだった。呼吸も荒く、危険な状態だ。犯人の男性は窓から逃げた形跡があったので、そちらを追うよう二人に指示した。狡噛さんは「ひとりになるのは危険だ」とその場に残ろうとしたが、色相の濁った犯人を確保することが今は最優先だと私は判断した。加えて、彼女を置いていくことなどできるはずがない。そうなると必然的に二手に分かれることになる。戦闘慣れしている執行官なら犯人と出くわしても大丈夫だろうと、私は二人を追跡に回るよう指示したのだ。

「私は彼女が病院に搬送されるまで残ります。狡噛さんと縢くんは、とにかく犯人を追ってください。そして見つけ次第、ドミネーターで執行してください! これは命令です!」

 監視官命令には原則逆らえない。察した狡噛さんは「何かあったらすぐ連絡しろ」と告げて犯人追跡に向かった。

「大丈夫、大丈夫だよ。もうすぐ救急車が来るから」

 必死に女性を生き延びさせようと声を掛ける。ここで死なせてはいけない。彼女にはまだ、彼女の人生があるのだ。冷たくなりかけた手のひらを必死に握りながら、血で汚れるのも気にせず、彼女を抱きかかえる。早く来て。早く。
 その時だった。微かに物音がして、扉の向こうから男が入ってきた。――戻ってきたのだ、隙をついて。

「彼女を返してくれ! 彼女は俺のものなんだ! 俺は、彼女と一緒になって、一緒に死ぬんだ!」

その手には血まみれのナイフ。返り血で汚れた彼の服、汗と涙でべとべとになった顔をこちらに向けて、私に向かって歩いてくる。ドミネーターを腰のホルスターから抜く。網膜投影される、犯罪係数――334。
 ドミネーターを見た男が、逆上してナイフを振り下ろした。寸前のところでかわす。セーフ、と思った瞬間だった。素早く振り返った男のナイフの刃先が、右腕に刺さった。痛い、と思う間もなく、左腕のデバイスを起動させる。

「こちらシェパード2。犯人を発見! 直ちにマンションへと戻ってください!」

 二人の「了解!」の声が返ってくるのを聞きながら身を翻し、男の脚に自身の脚を引っ掛け転倒させる。そして後ろから、私は痛みで感覚が麻痺する腕を庇いながら、左手で握りなおしたドミネーターで、男を撃った。

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