miel

運命を糸に託せば

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 次の日は公休だった。
 昨日涙が枯れそうなくらい泣いたせいで、目が充血して、さらにまぶたも重く腫れてしまっている。ひどい顔だ。こんな顔じゃ仕事にもいけない。休みでよかった。だなんて、思うのもむなしかった。
 枕元の時計で時刻を確認して、外したままの監視官デバイスを念のため確認する。音声メッセージが一件。相手はもちろん、宜野座さんだった。

『おはよう。昨日は結局自宅まで送ってやることしかできなくてすまない。また今夜当直上がりにそちらへ行こうと思う。……被害者の女性のことはあまり君が気にしすぎることじゃない。酷だとは思うが、適度に忘れることも大切だ。とにかく今日はゆっくり休め。では、また』

 宜野座さんらしいメッセージだった。やさしいような、厳しいような。ただ、彼の言うことも理解できない訳じゃない。仕事として割り切らなければ、自らが破滅していくだけだ。
 朝陽を浴びると、心なしか気分がすっきりした。公休と言われても、何をしていいかわからない。ここのところは働きづめだったせいで、すっかり仕事人間になってしまった。これではいけないなとわかっているつもりでも、公安局にいたらそうもいかないのが現実だ。
 とりあえず散らかった部屋の掃除と、気分転換も兼ねて買い物に行くことにした。服を買ったりだとか、化粧品を買ったりだとか、そんな女性らしい生活はしばらくしていないが、せっかく恋人がいるなら、少しくらい自分を磨くこともしなければと。

 そんなことをしていたらあっという間に夕方だった。今日の宜野座さんの退勤時刻は18時だった気がする。公安局からここまでは車で約15分。きっと彼は早々に切り上げて私の元へ向かうだろう。ああ見えて意外と律儀な人だし、約束を破ったりは絶対にしない。
 しばらくして来客を告げるチャイムが鳴ったのでドアを開けると、そこには相変わらずの面持ちの宜野座さんがいた。

「お疲れ様です」

「ああ、遅くなってすまない」

 遅くなんてないのに。そう思ったが、それは彼なりの気遣いなのかな、と感じた。いいえ、と首を横に振って「上がってください」と彼をリビングへと誘導する。彼にそうしてもらったようにソファへ座るよう促して、二人分の食事を並べようとキッチンへ向かう。

「ご迷惑でなければ、せっかくなので夕食も食べて行ってください。お腹もきっと空いてると思って、用意しておいたんです」

 と言っても全部ハイパーオーツの食事ですけど、と苦笑すると、宜野座さんは意外そうな顔をした。そして数秒後、嬉しそうに「ありがとう」と笑った。そんな言葉が彼の口から聞けるなんて。私の方が驚いて、しばらく彼を凝視してしまった。

「なんだ」

「い、いえ」

 向かい合って座ると同時に食べ始める。こんなふうに誰かと食卓を囲うのはいつぶりだろうか。
 いまいち何を話したらいいかわからなくて、お互いにひたすら食べ進める。プライベートな空間だし、仕事の話をするのはやはり気が引ける。彼とふたりきりの沈黙はとっくに慣れたものだと思っていたのに、こうも会話がないと少し気まずい。彼の方もそうだったのか、「今日は」とぎこちなく口を開く。

「ゆっくりできたか?」

「はい。久しぶりに買い物なんかもしました。服とか、化粧品とか」

「ならよかった。正直、一日中部屋で泣いてたらどうしようかと思ったんだ」

 その言葉に思わずくすりと笑う。

「昨日宜野座さんがやさしく慰めてくれたので、もう大丈夫ですよ。ありがとうございました」

 ふふふ、と声に出して笑うと宜野座さんは焦ったように顔を赤くした。そして、スープの湯気で曇った眼鏡を拭こうとそれを外し、ポケットからメガネ拭きを取り出す。
 初めて見る眼鏡のない彼の顔があまりに美しくて、息を呑んだ。眼鏡がないだけでこんなにも印象が違って見えるだなんて。流れるような切れ長の瞳が魅力的だと薄々感じてはいたけれど。
 無意識に見とれてしまっていると、「食事が冷めてしまうぞ」と宜野座さんの冷静な声が返ってきて慌てて手を動かした。

 食事を終えると、宜野座さんは片付けを手伝ってくれた。食器を洗うこと、テーブルを拭くこと等々のそれをテキパキとこなすところも彼らしくて好きだ。彼にそれを伝えてみると「ひとり暮らしが長いからな」と苦笑していた。
 食器を洗ってくれている彼の背中を見て、どうしようもなく触れたくなって後ろからそっと抱きついた。びくりと驚く宜野座さんは「どうしたんだ、」と声を上げるが、「なんでもないです」と言えば「そうか」と頷いてそれ以降は何も喋らなかった。大きな背中にしがみつくのは安心する。シャツの隙間からする、昨日も嗅いだ彼の匂い。これ以上に安心するものはもうないかもしれない。
 食器を洗い終わってタオルで手を拭く宜野座さんが振り返ろうとするので一旦手を離すと、困ったような顔で笑って屈んでくれる。

「さて、おれはそろそろ帰るよ」

「……宜野座さん、キスしてください」

「は?」

 唐突に呟いた私のその台詞に対し、眉間にぐっと皺を寄せて動揺する。徐々にまた赤くなっていく顔に、固まったまま開いた口が塞がらない。

「そしたら明日からも頑張れそうです。……全部、忘れられる気がして」

「……君は」

 本当に、まったく。そうぶつぶつ呟きながらも、諦めたように小さく息を吐いて、私の頬を両手でそっと包む。細い指がしなやかに流れて、私の顔を邪魔する髪をよける。同時に、私は彼の眼鏡をそっと外す。先ほど見た、鋭い切れ長の瞳が今は少し泳いでいる。可愛いかもと思った刹那、近づいた顔に恥ずかしくなって目を瞑った。
 柔らかく触れた感触はとてもいとおしい。数秒間止まったまま、暫くしてそれは離れた。甘い、熱い。どうしようもなく心臓がドキドキしてうるさい。顔に集まった熱は体温をも上昇させていくように感じた。
 目を開けば恥ずかしさからか目をそらす宜野座さんがいて、いたたまれなくなった。

「じゃあな、おやすみ。また明日、ちゃんと来るんだぞ」

 耳まで赤く染めたまま、私から眼鏡を受け取ると荷物を持って。逃げるように彼は玄関で靴を履いてしまった。もしかして初めてなんだろうか。それとも、ただただ緊張しているだけなのか。
 そういう私も、今日ばかりはドキドキしてあまり寝付けなかったのだから。


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