運命を糸に託せば
6
「あんたもギノも今日はなんだか静かだな。ふたりして何かあったのか?」
第二当直で午後から出勤してきた狡噛さんはぽつり、私に言った。
「いいえ、……特に何も」
「なら、この間の事件のことでまた何かあったのか?」
それも違う、が、当直メンバーが揃うオフィスで昨夜のことを言うわけにもいかず、言葉に詰まって適当に頷いて返した。実際、先日被害女性に会って落ち込んだことは事実なのだから。
「宜野座さんには割り切れって言われました。私も頭ではわかっているつもりなんですけどね、なかなか」
「ギノらしいな。まあ実際、あまりのめり込むとサイコ=パスが曇るからやめといた方がいい」
「……はい」
狡噛さんはそう言って口元に弧を描いて笑うと、缶コーヒーをひとつくれた。それはよりによって無糖ブラックだった。
* * *
「さあて、お姉さん聞いちゃうもんねえ」
志恩さんはいつになく楽しそうに言って、私の肩に手を伸ばした。肩を寄せてぴたりとくっついて、「慰めてもらった?」といたずらっぽく笑う。
「私、宜野座さんのこと誤解してたんだなって。全然こわい人じゃないですよね」
「なにそれ、いまさらぁ? で、どこまでいったのよ?」
「志恩さん、それが聞きたいだけでしょ?」
「まあね」
可笑しくて笑いながら言うと、彼女は早く早く、と餌を待つ犬のように輝いた目で私を見る。入局以来ずっと志恩さんは私の相談に乗ってくれる大切な人だ。とてもやさしいお姉さん。いつだって誰より先に私の表情を見て察して、プライベートなことの相談にも乗ってくれる。
「キスしてもらいました」
「やだあ、やっと? 遅いくらいよ。で、キスして、そのあとは?」
「いや、まだ、何も。宜野座さん鈍感だから、少しずつ触れていけたらなって」
「押し倒しちゃえばよかったじゃない」
けろりとそんなことを言う。私にも勇気があればそれくらいしているかもしれないし、彼にその勇気があればその逆だってゼロではないのだろうが、お互いにまだそういう関係を求めていないのかもしれない。いつかはからだを重ねることだって、きっとするようになるのだろう。しかし今は、まだキスですらぎこちないのだ。想像すらできない。
「いいんです、まだ。私、彼と私しか知らないふたりだけの感情を共有できたことが今はいちばん嬉しくて。これが愛なのかな、とか思うんですけど、そういうものの延長線上にきっとからだを重ねる行為ってあるんじゃないかって」
「そっか。まあ、ふたりのことだから、ふたりでゆっくり進めていけばいいんじゃないかしら。アタシ、あなたたちのやけに純粋なそういうところ見習いたくなっちゃうかも」
志恩さんはやさしく笑って、私の髪をよしよし、と撫でた。頼れるお姉さんがいることの幸せは感謝しきれない。
「宜野座くんにはあかりちゃんを泣かせたらアタシが許さないわよ≠チて伝えてあるのよ」
「えっ! そうなんですか⁉」
「当然よ。お姉さん怖いんだからね。あの宜野座くんでも、私が反抗したらどうしようもないんじゃないかしらね」
まったく恐ろしい女性だ。
再びいたずらっぽく笑う彼女につられて、私も声をあげて笑った。そんなふうに笑ったのは久しぶりだった。
宜野座さんが局長に呼ばれたのは彼の当直上がりが近づく夕方だった。
ここのところは平凡な日々が続いていたので、呼ばれるようなことは何もないはずなのだが、なぜか長い時間彼は帰ってこなかった。少し心配になった頃、戻ってきた彼の表情は暗かった。そして久しぶりにイライラとした様子を見せていて、デスクの椅子に座るなり、大きな溜息をついて顔の前で手を組んで俯いてしまった。
何を言われたのだろう。仕事のことだろうか。しかし、彼が仕事を疎かにしたことなんてただの一度もないはずだ。
気になって声を掛けようとした瞬間、久方ぶりのエリアストレス警報が鳴り響く。今回はそれほど規模が大きくなかったので、宜野座さんを気遣うつもりで私は征陸さんと狡噛さんを連れて三人で現場へ向かった。
現場へ向かう車の中で、征陸さんが「なあお嬢ちゃん」と不安そうに私を呼んだ。
「伸元は何かあったのか?」
「私も何も知らなくて……でも宜野座さんがあれだけ機嫌を損ねているのは久しぶりですよね」
首を横に振りながら否定すると、征陸さんは苦笑する。
「やっぱりそうか。局長に何か言われたんだろうなあ」
「局長室に行く前までは普段通りでしたからね……そう考えるのが妥当ですね」
助手席の狡噛さんは黙ってそれを聞いていた。征陸さんが心配になるのはわかる。同僚以前に父親として当然だった。あとで聞いたら教えてくれるかも、なんて甘い考えかもしれないが、可能性はある。今まで散々宜野座さんに支えられてきたのだから、今度は私が支える番だ。
「とりあえず、今は仕事に集中しましょう。もうすぐ現場、着きますよ」