miel

運命を糸に託せば

7
    

 報告書をまとめ終わったのはもう夜が更けた頃で、刑事課のフロアには人影がほとんどなかった。今夜の夜勤のメンバーは二係だけだったので、一係のオフィスには私しかいない。
 疲れたな。
 とにかく肩が凝った。小さく息を吐きながら軽く肩を揉む。画面と睨めっこしていたせいで目もチカチカする。少し休もう、と席を立ち仮眠室へ向かった。そこには既に先客がいた。これまた何故かタイミングよく、宜野座さんだった。どうやら、当直明けだからか帰宅していなかったらしい。宜野座さんはソファに体を預け、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。口が少し開いている姿が、どこかあどけなく見えた。

「……なんだか、ちょっとかわいい」

 年上の成人男性に抱く感情ではないような気はするが、かわいいものはかわいい。仕方がない。
 ベッドを使えばいいのにと苦笑しつつ、今日こそ彼に毛布を掛けて、私も仮眠をとろうとパーティションで仕切られた先の、奥にあるベッドに寝転がる。本当は化粧も落としたいし、ゆっくりお風呂にも浸かりたい。けれど、またすぐに呼び出されてしまうだろうし、数時間後には捜査に出掛けなければならない。監視官は本当に多忙だ。
 そうこうしているうちに、眠気が襲ってくる。少し、眠ろう―せめて、今日分の疲れだけでも取れますように。


 物音で目が覚めた。まだ働かない頭と虚ろな目を動かし、辺りを見回す。身を起こして仕切られた先の向こう、ソファの方を覗くと、視界に入った人影は「あ、」と微かに驚いた素振りを見せた。

「起こしてしまったか?」

やけにやさしい声音で彼は言った。

「いえ。こちらこそ、宜野座さんが眠っているところにお邪魔してしまいましたし……」

「おれは構わない。まだ時間があるし、君はもう少し眠るといい」

 相変わらず宜野座さんは私と目を合わせない。先程ほんの一瞬だけ合ったきりだ。

「はい……でも、せっかく早く目が覚めたので、顔洗ってきます」

「あ、ああ」

 立ち上がると軽い立ちくらみに襲われた。ふら、と倒れかけた体を咄嗟に支えてくれた宜野座さんの頬が少し赤いように見える。

「すみません」

「体調が優れないなら寝ていろ」

「大丈夫、です。低血圧で……いつも起き上がるときはこうなんですよ」

 はは、と薄く笑って掴まれた腕を見つめる。指が長く、綺麗な手だ。爪はどちらかといえば女爪で、丁寧に切り揃えられている。意識すればするほど、からだが熱を持ち始める。
 痩身の彼は、筋肉こそさほどないが、背が人より高いうえに顔が小さく、しかも美形である。しかしどうして顔を隠すように前髪を伸ばしているのだろう。どうして切れ長の美しい瞳を隠すように眼鏡をかけているのだろう。

「宜野座さん、」

 言いかけて、やめる。
 私とお付き合いしてみてはくれませんか、なんて。
 寝ぼけているのだろう。まだ覚醒前で、脳に酸素が足りていないのかもしれない。

「……なんだ」

 やっと視線が向いた。今更ながら、こんな寝起きの見苦しい姿を見つめられるのは恥ずかしい。化粧も崩れているし、髪も乱れているのだ。

「……なんでも、ないです。もう動けそうですから。ありがとうございます」

 作り笑いを浮かべて、手を離すよう促す。すまない、と離れた手のひらのぬくもりが残る腕が恨めしい。
 仮眠室を出て化粧室へ入ると、顔を洗って、髪も整えて、化粧をし直した。疲れも相まって、自分の顔がなんだかぼろぼろに見えた。顔色が良くない上に、表情が暗い。そんな私を見て彼はどう思っただろう。彼は繊細だから、何かを感じ取ってしまったかもしれない。


 化粧室を出たその足で飲み物を買いに休憩室へ向かった。そこからまた外へ出て、朝の新鮮な空気をめいっぱい吸い込む。気分を入れ換えたら、一係のオフィスへ戻ろう。今日の日勤メンバーは、六合塚さんと、縢くんだったっけ。宜野座さんとは、夕方から交代だ。

「花坂」

 溜息をついた瞬間、聞き慣れた声が私を呼ぶ。先程まで一緒にいた、彼だ。

「ここにいると思った」

 そう言いながら隣に並ぶ。朝日に照らされた彼の深い緑に近い黒髪が揺れる。そして何か言いづらそうに、しかし言いたそうにもごもごと口を開く。

「……最初に言っておくが、あまり、おれはこういうことが得意じゃない」

「えっと……なんの話です?」

「……君のことを、おれ自身そういう対象として見ているのか、まだわからないんだが、その、」

 また、彼の顔が赤い。眉間にきゅっと皺が寄って、くちびるを尖らせて、前を向いていた視線がこちらを向く。眼鏡越しのそれに射貫かれ、心臓が早音を打つ。

「お付き合い、してくれないか。恋人として」

「……!」

 驚きのあまり声が出なかった。まさか、彼からそんな言葉が飛んでくるなんて。ありえない。

「君から適正のことを聞かされて、正直戸惑った。おれなんかが君のような女性を幸せに出来るはずがない、と……だが、」

「宜野座さん……」

「きっと何か理由があるはずなんだ。シビュラがそう言うのなら」

 耳までも赤く染めながらそんなふうに言う宜野座さんのことがみるみるうちに愛しくなって、思わず笑顔になった。さらに、迷わず「よろしくお願いします」と返事をしたことに自分自身驚いた。
 その返事を聞いた彼は、普段は絶対見せないほど穏やかな表情で「ありがとう」と笑った。

prev | next

back

miel