「軍務尚書がお怖い方だという噂は聞いてましたけど、実際あの瞳に見つめられたら、何も言えませんでした……」
それは昨日のことだった。
書類の入力ミスだったが、それが軍務尚書の手に渡るまで気付かれず、とうとうその手に渡ってから、本人に直接指摘されたのだ。その際、例によってあの絶対零度の瞳——表情の乏しい義眼に射抜かれ、震え上がってしまったのだった。慌てて謝罪はしたものの、出来ればもう二度とあんなふうに見つめられたくはない。普段あまり関わりがないからこそ、こわかったのだ。
「それは仕方ないな。俺も一瞬は怖いと思ったが、もう慣れてしまったし……」
落ち込む私の頭をぽん、ぽんと撫でてフェルナーは言った。フェルナーは軍務尚書直属の部下のため、例え会いたくなくとも毎日会わなければならない立場にある。それなら、慣れてしまうのは当たり前でもある。
「ま、誤字くらい可愛いもんだって。あまり気にしない方がいい」
「でも——……」
「忘れろ忘れろ」
ほら、と彼はビールを差し出す。残業な上に精神的に参っている私の様子を見て、フェルナーは隣に座って励ましてくれていた。その際なぜかビールを持参していて、ここは職場ですよと言いかけてやめた。そんな気力すらなかったというのも理由のひとつだが、お酒で気を紛らわしたくなったのも事実。しかし帰路を思うと飲むのは躊躇われた。
「……今日は、飲みませんよ、私」
「飲まないのか? 飲んで忘れた方が楽だと思うがな」
「今夜はもう、疲れたので眠りたい気分なんです。だから、帰ります」
ちいさく溜息をついて立ち上がると立ちくらみがして、フェルナーが慌てて抱きとめた。想像していたより広い胸に無意識に寄りかかってしまい、フェルナーがそっと腕を背中に回したのがわかった。
「……ごめんなさい准将」
何に対する謝罪なのかわからぬまま言葉だけがこぼれた。フェルナーは息を呑んで、「……なにが?」とゆっくり訊いた。
「……わからないです。なんか、謝りたくなりました」
「おかしな奴だな」
今度は声を出して笑って、抱きしめたままフェルナーは私の首筋に顔をうずめた。そしてそっと、首筋にキスをした。
「准将!」
「なんだよ」
「そういうことするなら、離れます。帰ります。そもそも私は今から帰るつもりでしたし」
思いっきり顔を動かして、私を見つめる彼をにらんだ。ちょっとやさしくすると、すぐに調子に乗る。嫌いじゃないけれど、今はそういう気分じゃない。そもそも、私ら付き合ってない、し。
フェルナーは口を尖らせながら不満そうに腕を離したので、私は満足げに微笑んでみせてから扉へと歩き始める。しかしなぜか、フェルナーがついてくるので、「おやすみなさい」と言い放って、扉を閉めた。
***
なんでついてきてるの。
独身用官舎のドアの前まで我慢して、さすがに我慢も限界を迎えて振り返った。
「フェルナー准将」
「気づいてたのか」
「当たり前です。なんの御用ですか?」
「女の子ひとりで帰せないだろ?」
「いつもひとりで帰ってますよ」
「なら明日から俺が送る」
どうしていつもそうやって勝手に決めるんだ。
無性に腹が立って、上官だろうと関係なかった。そしてつい、口に出してしまった。
「どうして。どうしていつも私の気持ちなんか無視で何でもかんでも決めるんですか!? そもそも最初のときだって、」
頭の中がぐちゃぐちゃになって、その捌け口としてなのか、涙がぼろぼろ出た。視界が歪んで何も見えない。フェルナーの表情なんてわからない。
「私、准将のこと、好きなんて言ってない……キス、してもいいなんて言ってない……なのに、あなたはいつも強引で……!」
「……でも好きなんだろ? 嫌われているとは思えんがね」
フェルナーの指がぼろぼろ落ちる涙を拭った。優しい手つきだった。その手つきはなぜか好きだなと思えた。
「……だったら、どうします」
「そうだなあ、俺のものにするね、今すぐ」
懲りない人だな、なんて。
困ったように微笑むフェルナーを初めて見た。
そんな彼を見て確信した。胸の奥がこんなにも苦しいのは、やはり彼に惚れてしまっていたということ。
「……なら、あなたのものにしてください。あなただけのものに」
「……もちろんさ」
目を閉じるより先にくちづけが降ってくる。彼とのそれは、三回目にもなるが、今回のはちがう。しっかりと好きだと認識して、彼を想いながら重ねるくちびるは、今までのとは全くちがった。
甘いのだ。とにかく甘い。訳もなく胸がいっぱいになって、もっとしてほしいとさえ思う程に。それくらい満たされるものだった。
「卿を愛してる……今夜は一緒に過ごさせてくれないか?」
フェルナーは言った。少し戸惑いながらも私はゆっくりと頷いた。
官舎のドアが閉まる音とともに、長い夜は始まる——。