それからというもの、フェルナーに会う度に私は苦笑いをこぼすことになる。
今日こそは何もありませんように。そう願ったものの、残念ながらその願いは速攻霧散したのだった。軍務省へ出勤し、事務室のドアをいつものように開けたときだった、事件は起きた。
「やあ、おはよう」
最初は入る部屋を間違えたのかと思った。が、そんなことはなかった。しかしなぜ、私のデスクにフェルナー准将が座っているのか。そしてなぜ、ニコニコと楽しそうに笑っているのか。
「おはようございます……准将、そこ、私の席なのですが」
「ああ、知っている。だから座ってるんだが?」
いやいや。心の中で呟いたとともに、意思とは無関係に顔が引き攣るのがわかる。しかし目の前の美形は、変わらず笑みをたたえている。
「……仕事、したいんですけど」
「どうぞ」
フェルナーは短く言うと自分の太ももをぽんぽんとたたいた。まさかそこへ座れということか? 冗談も大概にしてほしい。私は彼にバレない程度に溜息をついて、もう一度口を開く。
「准将、いったい何のおつもりですか? 私は……」
「昨夜のアレを覚えてないのか?」
「昨夜?」
「ああ。俺たちキスをして、そのまま仲良く帰ったじゃないか。しかも、互いの気持ちまでしっかり確認して」
「しっかり」のところを強調して"しっかり"言う彼の目つきが少しばかり鋭くなる。私の記憶だと、彼と何かあった覚えはないし、"しっかり"確認した覚えもないのだが。
「……そのような記憶は」
「ありません、か? そういうの、ずるいなあ」
よいしょ、とフェルナーは椅子から立ち上がると、私の肩に手を置いて座るよう促す。彼の意図が読めぬまま素直にそれに従うと、乱暴に髪を撫でられた。
「まだ誰も来ていない、見られる心配もないぞ」
私が事務室のドアを気にしているのに気づき、フェルナーは悪戯に笑う。そしてぐっと顔を近づけると、鼻と鼻が触れ合った。驚いて離れようとするも、フェルナーは私の後頭部に手を添えて離すまいと固定した。
——……動けない。そして、とてもちかい。
「昨夜の卿は、嘘なんてついてなさそうだったがね」
囁くような声で、そんなふうに言わないで欲しい。
ちゅ、とくちびるが触れてから、咄嗟に彼のくちびるを手のひらで塞いだ。フェルナーは目を見開いて驚いたが、こちらとしてはそれどころではない。
顔が熱いし、何より心臓がうるさい。
「……准将、からかわないでください」
後頭部に添えられた手が離れてから私も手を離した。男女のそれではなく、上司と部下の距離感まで離れてから睨むようにフェルナーを見つめる。
相変わらず彼は目を瞬いてこちらを見る。
「……すまない」
「…………」
「……なあなまえ」
「……嫌です」
「まだ何も言ってないだろ」
そういう問題じゃない、そう言いかけてやめた。
彼にとってきっとキスは女なら誰とでも交わせるようなものなのだろうし、私のそれとは重さが違うのだ。昨晩にしろ、今にしろ、私の気持ちなんてお構い無しにくちびるを重ねられるのだから。
「……俺は本気なんだが。まだ信じてくれないのか?」
「そういう事じゃありません」
「じゃあ、なんだ。言ってくれなきゃわからない」
「…………」
この男は自覚がないらしい。
容姿端麗、妙に色気のある低い声、男らしさの中に宿る品のある美しい仕草。その全てに惑わされる女性は少なくとも私だけではないだろう。だからこそ、だ。うるさく鳴り続ける心臓をいっそ止めてしまいたい。酒が入っていない——素面だからか、昨日はこんなことなかったというのに。
「すみません、今は、」
顔だけに留まらず、耳まで赤くなっているだろう私をもう一度見て、フェルナーは満足そうに顔を綻ばせた。
そして結局、私はこの人に恋に落ちてしまうのだが、それはまだもう少しだけ先のこと。