ワイングラスの密談
タクシーを降りると既に街並みは見慣れたナポリで梓はどことない安心感に胸を下ろした。
ナポリと言えば日本人はナポリタンと呼ばれるトマトパスタに良く似た食べ物を思い浮かべるがアレはイタリア料理ではなく和食だと言う。
だが、梓はそれがどんな物かは知らない。
それを食べる前に日本からイタリアへ渡ったからだ。
梓の国籍は紛う事無く、イタリアである。
日本語より長くイタリア語を話し、青春時代はイタリアで過ごした。日本語を上手く話せる自信すらない。
サンテルモ城の堅牢な城壁も、国立サン・マルティーノ博物館の精巧なプレゼピオも当たり前だと思っていたし、自分がイタリア人だと思い込んだかのように20年間生きている。
5歳の頃まではきっと自分が日本人である事を当たり前だと思っていたのだろうが。
「プロント、草薙です。 まだ彼は到着されてないかしら?」
ミシュランで三つ星を獲得し、テーブル料金だけでもそこそこのブランドの洋服が買えてしまう。そんな高級リストランテ。
ビジネススーツにやや高めのヒールという何処にでもいそうなこの格好はかなり恥ずかしい物だった。
「お待ちしておりました。御案内致します。」
マニュアル通りの言葉を並べ、ギャルソンは如何にも高級そうな絨毯の上をゴワゴワと革靴を埋めながら歩く。 梓もヒールの先端で絨毯を踏みしめながらリストランテの最上階…最もナポリの夜景が美しく、そして最も金を持て余した者が集まるフロアへと向かった。
「それではごゆっくりと。」
目の前に聳える重々しい扉には金や宝石の装飾が惜しげも無く使われていた。
ギャルソンに10ユーロ程のチップを渡せば、気を良くしたようにギャルソンが扉を開ける。
「グラッチェ。」
梓はギャルソンに礼を言い、目的の人物が座る席に真っ直ぐ進んだ。そして「スクージィ、ボス。 待たせてしまいました?」とルージュで濡れた唇の端を上げるのだ。
「いや、問題ない。 君は私が唯一最も信頼している部下であり最後の砦でもある。 待っていた。」
ボス、と呼ばれた男はスーツ姿で如何にもギャングらしさが出ていた。 マゼンダの長髪に刺された班目が目の前に出されたワインと重なる。
「そうでした、私以外に姿を見せないというのは不便でしょうに。 この際、皆さんに見せてしまうのはどうでしょう?」
グラスとグラスを鳴らす。 梓はこのグラス1杯で札束が飛ぶと考えると溜息が漏れそうになった。
ボス、もといディアボロは麻薬の密売で富を得た。 梓はそれをギャングのタブーだと知っている。私にしかこれは辞めさせられないと踏み切っている。
ここの飲み代もきっと組織から流れた金であり、ディアボロのポケットマネーではないたろう。 ここの飲み代だけで自分が知るチーム全員の月収を足した分か、それ以上になる事も確かだ。
梓は休みの前の日に安酒を腹一杯深夜まで飲んで、昼までガーガー寝るという行為が大好きだ。
本来ならばこのようなワインでは無く、7ユーロもあれば1本買えるような安酒でも構わないのだ。
「こいつが娘のトリッシュなんだが。」
「あら、娘さんの御自慢かしら? ボスも33歳ですもの、驚きはしませんよ。 ボスに似ている部分もありますけれど、女の私から見てもとても可愛らしいわ。」
写真にはチューブトップのよく似合うあどけなさを残した少女がいた。
梓は思わず口に手を当て驚いたが、目の前のディアボロは淡々としている。
「私の素性に足が付くのは非常に不味い、この娘がその1つの害となるのは確か。 嗅ぎ付かれる前に消さねばならない。 この私の手で。」
ああ、そうか…梓はまたも溜息を漏らした。
「いいえ、その必要はありませんわ。」
前菜のカプレーゼサラダが運ばれ、慣れた仕草でナプキンを付ける。
「麻薬の密売だなんてタブー、お辞めになってギャングはギャングとしてその道を真っ直ぐ進みなさいな。 それでも1組織のボスなの?小娘1人に怯えてちゃあいけないわ。 イタリア人は血筋を大切にするものよ。 それは善良市民でもギャングでも同じ事。私は貴方の下に就いて正解だと思っているけれど、今の発言はどうかしらね。」
「ふ、ははははははは、ふははははははは!!!!!!!」
ディアボロは高笑いし、そして愛おしげに梓を見た。
梓は動揺する事なく、少なくなったワイングラスの赤に口づけをする。
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