「ビンゴじゃん」

針葉樹が四方を囲み、陽の光を遮る深い場所。
先程までいた場所にはあった、緑生い茂る水々しい空気感がここにはない。あるのは重々しく淀んだ空気と、微かに感じる呪いの気配。そしてーー。

「臭うな」
『…最悪ですね』

今までに嗅いだことのない腐敗臭が、二人の鼻腔を刺激した。
純がたまらず肘の内側で鼻を覆い、咳き込む。
幼い頃、スラムの裏路地で嗅いだ動物たちの死骸の方が100倍マシだったと表情を歪めた。呪詛師絡みの案件ならともかく、死んだ人間相手というのはまだ学生の二人には手に余る内容だ。いくら呪術師といえど管轄外なのではと、五条の長い右足に踏み潰され完全に気を失っている呪詛師の男二人に視線を送った。

「お前ここで待ってる?」
『…は?』

すぐに顔を上げて五条を見る。

「多分3人以上は死んでるよ」
『………』
「見たくねえもん見なくて済むなら、そっちのがいいだろ」

男たちの跡をつけ、見つけ出すことができた古びたログハウス方式の小屋。簡素な造りで、随分と長い間放置されていたであろうことが全体の劣化具合から見てとれた。樹海の奥地、微かに感じる呪いの気配が漂う場所で、死体を運び入れるなんて普通じゃない。呪術師をやっていれば遅かれ早かれ"人の死"と向き合わなければならなくなるが、きっと五条なりに気を遣ってくれているんだなと、少し感謝したい気分になった。

『私が死体見たくらいで動揺する人間に見えますか?』
「いやそうじゃなくて、吐かれたら困ると思って」
『…………』
「あー、でもお前がゲロ吐いたら笑っちゃうな俺」
『…………』
「腐った死体って虫湧くじゃん?キモいよなーアレ」
『…………』
「見たことある?」
『性格に虫湧いてそうな人なら今目の前にいます』

一瞬でも"優しいところがあるじゃないか"と思った自分がバカだったと、純は五条に向けて中指を突き立てた。自分よりも遥かに経験値があることは認めるが、いかんせんデリカシーの欠片もない発言には腹が立つ。しかし当の本人は相変わらずヘラヘラと笑っているだけで、反省などする気はさらさら無いようだ。

『もういいっ。私行きます』
「ビビって泣くなよ?手繋いでやろーか?」
『誰が繋ぐか!…ふんっ』
「へへへっ」

陰鬱な空気が漂う中、それをものともせずにいつものペースを貫く五条。言葉一つで他人をここまで不快にさせる天才が、呪術師としても異常な強さを持ち得ている天才なのだからたまらない。どうして神はこの男に二物以上の才を与えたのだろうと、純は納得がいかずに小さく舌打ちをした。

『五条先輩がドア開けて下さい』
「お前人のこと盾にする気だろ」
『優れた才能は人のために使わないと嫌われますよ』
「うわ…傑っぽいこと言ってる」
『まあ私は五条先輩大嫌いですけど』
「(イラッ)」

小屋の入り口、苔の生えた扉の前に立った五条の背後に素早く周り、さあ行けと言わんばかりに背中を押してくる純。こんな扱いをされても許してしまう自分がいることに気持ちの悪さを感じながら、五条は表情を歪めたまま躊躇することなくドアを開いた。

ードプッ…

「…げっ…」
『…うっ…』

込み上げる不快感に、二人はこれでもかと表情を歪めて肘の内側で鼻を覆った。人の形をした肉塊から、無数のコバエが舞い上がる。まるで吐瀉物の中に顔を突っ込んでいるかのような凄まじい腐敗臭は、先ほどの比ではない。それこそ同時に感じた濃い呪いの気配が気にならなくなるレベルだ。今からこの中に入って呪詛師に繋がる手がかりを探さなければならないが、10分もいれないだろうと五条が最初の一歩を踏み出した。

「これさー、身元判別できねーんじゃねえの?」
『……ですね…』

入ってすぐの六畳ほどのスペースに、見るにたえない5人の死体が並んでいる。全員頭を食い千切られ、鎖骨から下腹部までの皮膚や肉が人工的に切り裂かれている。主要な臓器は全て取り出されていて、残っている胃や腸は引きちぎられ、肉片となり辺りに散らばっていた。乾き切った血と死体の腐敗具合から、殺されたのはここ数日のことだと推測できた。

『これ、自然発生した呪いの仕業じゃないですよね…』
「残穢からして、"相当タチの悪い呪物"っぽいな」
『呪物ってことは…』
「それを使ってるクソな呪詛師がどっかにいる」
『…はぁぁ…。人間同士のゴタゴタって嫌いです』
「人間が人間を呪うなんてよくあることだろ」
『…五条先輩がまともなこと言ってる…』

地位や名声、はたまた大金を手にしたいと思っている人間は五万といる。その中に、些細な経験をきっかけに呪詛師となってしまった人間が一定数いることも確かだ。欲に目が眩み、取り返しのつかない事態になったとしても彼らがそれを省みることなどないだろう。

「純、ちょっとそこのドア見てきて」

辺りを見渡していた五条が、右奥にある扉を指差す。

『はあっ?なんで私がっ…臭いし嫌です!』
「次お前の番。それにほら、俺の靴が汚れる」
『私の靴だって汚れるんですけど』
「どーせ安物だろ?ここで待っててやるから」
『……………』

これ以上会話を続けると、たぶん発狂してしまうだろうなと五条に背を向け歩き出す。実際に戦っても勝ち目がないのは分かっているから、脳内で10回ほど撲殺してみるとわずかに気分が晴れた気がした。足元に散乱している肉片を全力で踏まないように、つま先を立て飛ぶようにして移動していく純。そんな懸命な姿にプッと吹き出し茶化すために声をかけようとしたその時だったーー。

『「……!!」』

人の気配。
純と五条は同時に反応し、顔を見合わせた。
外で気を失っている男たちの物ではない。もっとこう、ドロリとしていて冷たい気配。普通の人間が纏う空気感ではない。だが人だということは確かだ。呪詛師、黒幕か…と二人の間にわずかな緊張が走る。ここでカタをつけておくべきか否か…瞬きの間に思考を巡らせ動き出した五条が純の手を取り姿を消したのと、気配が小屋の外まで来たのはほぼ同時のことだった。

『…っ!?!?』
「なんだ、ただの収納スペースか。ラッキー」
『なにがラッキー…てか狭っ…!』
「お前その靴で絶ってぇ俺の靴踏むなよ」
『その前にこの無駄に長い足退けてよ、邪魔!』
「じゃあ俺の膝の上乗って」
『はぁっ?そんなの嫌に決まっ…んぐっ』
「しっ。口閉じてろ」

ここで一戦交えない方がいい気がしたのは、五条のただの勘だ。厄介な呪詛師は裏で細やかな根を張り巧妙に動く。複数人…組織的に動いているのであればなおさら慎重に近づき全体を潰せた方が後々の被害も出ない。ここは一旦身を隠し、相手がどんな奴かを見極める。そのために自分が調べろと命じた扉の中に身を隠すことになるとは思ってはいなかったと、五条は純の体を引き寄せ黙らせると、サングラスを下げ近づいてくる気配に意識を集中させた。

「…………呪符はどうした」
「へい!全部、そりゃあもう綺麗に、剥がされてましたっ」

地を這うような冷たい男の声。
最初に感じた気配の主で間違いはない。
しかしその気配に上手く身を隠していたとでもいうのか、男にも、この場の雰囲気にも似つかわしくない幼い少女の軽快な声が聞こえてくる。なぜ気配を感じ取ることができなかったのか、五条の眼にはその理由がはっきりと映し出されていた。

「…………残穢はないな」
「うっす!野生の動物でもないっす!人間の気配なし!」
「この場所を特定させない為の封印呪符…。これの封印は1級呪術師以上の力がないと解けないよう特別な術式が掛けられている。…有能な犬が紛れ込んだようだな」
「犬!探して首チョンパしますかっ?」
「いや、いい。…この場所は捨て置く。どのみちもう使い物にはならないからな。……酷い悪臭だ」
「クンクンッ。"式(シキ)"には臭いは分かりませぬー」

腐敗しウジの湧いた死体を冷ややかな視線で見下ろすと、男は少女よりも先に身をひるがえし小屋の外に出て行く。五条たちの気配には気づいていないようだ。このまま立ち去ってくれればと思っていたのも束の間、なにかを思い出したかのように足を止め振り返った男が少女に視線を向けてゆっくりと口を開いた。

「そうだ、式」
「おいっすお師匠ーさま!」
「小屋を燃やしておけ」
『「(はぁっ!?)」』
「ラジャーっす!」

立ち去って行く男に向かって敬礼をする式と呼ばれた幼い少女。特に反応を返すこともせず気を失っている部下二人を両脇に抱えると、

「こいつらは今夜の"晩飯"にでもなってもらうか」

そう小さく呟き、目の前に突如として現れた異空間のような歪みに吸い込まれるようにして姿を消した。


*手かり



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