先ほどまで自分の周りをついて回っていた賑やかさがなくなり、虫の音が聞こえるほどの静寂の中、縁側に座り夜空に浮かぶ月を眺める五条。少しだけ物足りなさを感じるのは、居心地の良さを感じたから。五条家の嫡男として生まれ育った一人っ子の五条には、仲睦まじい兄弟の姿はどこか新鮮だった。競わず、争わず、比較もされない。呪術師の家系に生まれていても、橘華家には人を人として尊重する当たり前の自由がある。もし自分に兄弟がいたとして、純のように見返りを求めない愛し方ができるだろうかとつい物思いにふける。
『五条先輩』
名前を呼ばれ、足音とともに近づいてきた、純の気配に振り返る。
「あいつら寝たの?」
『はい』
「そっか」
月明かりに照らされながら笑顔を浮かべた五条悟は、日々の憎たらしさを帳消しにしてしまえるほど美しく、神秘的に見えた。それはまるで、全ての理想を詰め込んだ美のように洗練されている。
『天馬がまた遊びたいって』
「いいよ」
『え…いいんですか?』
「おう」
即答した五条に一瞬目を見開いて驚く純。面倒見が良さそうな夏油と妹のいる灰原であれば不思議はない。だがどう見ても子供好きではないだろうと思い黙っていると、純の考えていることを見透かしたかのように五条が言う。呪術師の家系の子供はいけすかない奴が多いが、二人は別だと。純はその言葉に一瞬笑みを浮かべたが、すぐに話題を変える。
『霧島さんになに調べさせたんですか?』
「お前の身元調査のやり直し」
『許可なく勝手に?』
「言ったら許可しねぇだろ。ま、謝っとくわ。メンゴ」
『うわ…』
「それと神咲って奴の調査も一緒に」
全く悪びれる様子のない五条に表情で嫌悪感をあらわにする純だったが、"神咲"という名前が出たことで視線がわずかに鋭くなる。やはり五条は気づいていたのか、と。
『気づいてたんですか?』
「ああ。樹海任務の時、三下の奴等が神咲の名前言ってただろ?お前それ聞いて動揺してたから気になってたんだよ。そしたら相当やばい呪詛師だったってワケ」
『…………』
「一応聞くけど、その呪詛師と繋がってねぇよな?」
純と目を合わせず、五条が問う。
自分に嘘は通用しない。仮にもし、純が呪詛師と繋がっていたとしても、全力で関係を切り離すつもりでいる五条。
99%、そうでないと信用はしているが、残りの1%を確実にするための問いだった。
『それは絶対にないです。ただ…』
「ただ?」
部屋の隅に向けていた視線を純に向ける。
『……ただその…えっと…』
よほどの事情があるのか、普段ハッキリと物を言う性格の純が気まずそうに言葉を詰まらせる。
「まあとりあえず座って話そうぜ」
まだ入り口から動かない純を手招きし、自分の隣へと誘う。用意していたジュースの入ったグラスを五条に手渡すと、中で溶けた氷がカランと涼しげな音を響かせた。そして意を決したように、純が一呼吸置いて口を開く。
『天馬たちは四兄弟で、年の離れた二人の兄がいます』
短い相槌を打ち、五条が純を見つめ話に集中する。
『長男の千鶴は私の四つ上の義兄で、本当に呪術師なのかって疑っちゃうくらい騒がしくて、脳筋バカ!って弟たちにイジられるくらい声もデカいし、でもひたすら真っ直ぐで、明るくて、突然養子としてこの家に来た私のことも可愛がってくれるような、絵に描いたような"良い兄貴"って感じの人』
瞳を伏せ、義兄を思い出しながら話をする純の表情にかすかな笑みが浮かぶ。
『そんなに頭良くないくせに、夢は高専の教員になることだっていつも息巻いてた。人前では絶対弱い姿を見せない、笑顔は絶対絶やさない、そんな最高に馬鹿でイケてる呪術師だった…』
持っていたグラスを両手でぎゅっと握りしめて、口角を上げるも笑顔のない表情を浮かべる純。"だった"という過去の言い回しに、五条がほんの僅かに瞳を細める。
『千鶴は天馬たちと同じ呪いの影響で、一年前に亡くなりました』
「………」
ゆっくりと顔を上げた純が、夜空に浮かぶ月を見つめる。その瞳に涙はない。義兄との思い出は幸せなものばかりだろうに、きっと涙が枯れるほど泣いて、苦しんで、一人の大切な人間の死を受け入れたのだろう。呪術師はその連続。五条はそこに、純の術師としての強さを垣間見る。
「もう一人の兄貴は?」
『生きてはいます。ただ…』
「ただ?」
『…居場所が分からないんです』
「は?」
再び俯く純。
五条は口元まで運んだグラスを一度離し、少し身を乗り出しながら疑問符を浮かべた。
「それ消息不明ってこと?なんで?」
『消えた理由も分からないんです…』
何の前触れもなく、忽然と姿を消したもう一人の兄。それは千鶴が死に、四十九日を迎えた日の晩のことだったと話す純。
「じゃあお前、半年以上もその弟探してんの?」
『はい。ずっとなんの手がかりも掴めずにいて、もう半ば諦めかけてたんです。あの子も橘華家の人間だから、呪いの影響はどこにいたって受けるし、いくら呪術師だっていってもまだ十二歳の子供が身寄りもなく一人で生きていくのは無理だろうって…』
「………」
『最悪を考えました。せめて遺体だけでもって…』
視線を落としたグラスの水面にぼんやりと浮かぶ、歪な月を見つめる。鮮明だった義弟との思い出が、こんな風に朧げになってしまうのは嫌だと心が叫ぶ。
「でもお前さっき生きてるって言ってたじゃん」
『はい。生きてます…』
「ならすぐにでも連れ戻して…」
一瞬湧いた希望。
だがそれは、まばたきの間に消え失せる。
ああ、そうか。そうゆうことなのかと五条の中で最悪の点と点が繋がる。望みを込めて吐き出された言葉は行き場を失い、虚無に消える。五条は眉を寄せ、表情を歪めた。そして…。
「だから"神咲"を追ってたのか」
『………』
「そこに弟がいるから」
『…はい』
刹那、夜風が二人の髪を優しく揺らす。
「その弟、名前は?」
『…千陽です。橘華千陽』
「なんで神咲みたいな奴と一緒にいるかは直接本人に聞くしかねぇけど、相当な人間を殺してるかなりやばい呪詛師ってことは明らかだし、早く連れ戻したほうがいいな」
『でもその神咲の居所がまだ分からなくてっ…』
「こっから速ぇぞ」
『えっ…?』
「俺も一緒に探すし、傑にも協力させる」
ニッと笑った五条の笑顔が、重苦しかった空気を一瞬で晴らす。あっけに取られ、口をぽかん…と開けたままフリーズした純。すぐに返事を返せずにいると、五条がすぐに沈黙を破る。
「ついでにこの家の呪いも解く」
『え…?』
さらに続いた五条からの提案に驚く純。
「天馬、学校行きたいんだってさ」
『……』
「龍心も家の外に出れないのは退屈だろ」
『……』
「そんでさ、霧島が言ってた禅院家とのゴタゴタも片付ければ一石三鳥じゃね?」
ガキは外で遊ばせなきゃデカくなんねーよ。と、無邪気な笑みを浮かべる五条。その気持ちが純粋に嬉しくて、圧倒されながらも潤んだ目を輝かせながら無言で頷いた純。
この部屋にくる前は、これ以上関わらないでほしいと諭すつもりだった。橘華家が抱えている問題の根幹にいるのは禅院家。五条家の…それも嫡男である五条がこちら側につくということは、両家の関係に歪みを生む。それは現橘華家の当主である、純の養父の望むところではない。
『でも、いいんですか…?』
「五条家の次期当主が首突っ込んで大丈夫かって?」
『…はい』
五条を真っ直ぐ見つめたまま、純が不安そうに問いかける。
「どーせお前のことだから、"禅院家とのいざこざに五条家の俺を巻き込めない。"とかなんとか思ってたんだろ?」
気まずそうに視線を泳がせ、乾いた笑いで肯定した純。五条に迷惑はかけられない。自分の力だけで解決しなければというプライドが邪魔して頼れずにいたのがうかがえる。
本来なら、自分の身を危険に晒してまで本当の家族でもない人間たちのことを助ける必要がないのは純も同じで…。まだ付き合いは浅いがどうにもお人好しな一面がある純に対し、五条は呆れたように、でもどこか柔らかい目色で純を見つめた。
「心配すんな」
『……』
「うち禅院家とは昔から超絶仲悪いし大丈夫」
『そ、そうなんですか?』
「もうバッチバチだよ。考えてもみろって」
『……?』
"あんな生きた化石みたいな頭沸いてるジジイ共が牛耳ってる家と、どうやって仲良くやれってんだよ。無理だろ。俺は主権やら保身やら興味ないし、あんなクソ共と仲良くなるくらいなら出家するわ。"
と、息つぎなしで言い切った五条。そんな不満を抱えていたのかと意外に思うも、純の中にある御三家への印象が、五条を通して変化していく。
「お前もそうゆうの嫌いだろ?」
海外のスラム街で生まれた純にとって、自分たちの保身のために弱者や若い芽を積む権力者は悪の権化そのもの。生まれた環境は違えどその価値観は一緒だと賛同を求めた五条に、純ははっきりと頷いた。
「そんなだからさ、喜んでお前に協力する」
『…ありがとうございますっ……』
「とりあえずまだいろいろ聞きたいことあんだけど…」
『…………』
「ん〜…まずはそうだなあ、橘華家と禅院家の…」
そう言いながら斜め上を見ていた五条が純に視線を移すと。
『………っ』
「え!なんで泣きそうなの!?」
大きな瞳に涙を溜め、唇を噛みしめながら今にも泣き出してしまいそうな純の姿が映り込んだ。
「(コレ俺が悪いみたいじゃんっ…傑いなくてよかった…)」
五条悟という後ろ盾ができた安心感と、その優しさに触れ純の大きな瞳からボロボロと涙が溢れ出す。普段から生意気で勝気で、人前では見せないが実はとても努力家な純が見せる弱気な姿。
『ずっと…どうしたらいいか分からなくてっ…』
「………」
『千鶴が死んで、すごい辛くて、悲しくてっ…』
「………」
『千陽が消えて、天馬の傷は酷くなるばっかりでっ…っひく…龍心もっ…呪いの影響、のせいでっ、家から一歩も出してあげられないしっ…養父母も、少し前から寝たきりになっちゃってっ…どんどん状況最悪になってて…』
「………」
『…でも、そんな状況でもっ…二人ともっ…大丈夫だよって笑うんですっ…。痛くないよって…元気なふりしてっ…本当はすごく辛くて痛いはずなのにっ…。……私全然駄目だっ…』
持っていたグラスを置き、両手で溢れ出す涙を拭いながら泣きじゃくる姿は幼い子供のよう。高専にいる時は想像もしていなかった。純がこんなにも自分を追い込み背負いながら、みんなの前では笑顔を絶やさず過ごしていたなんて。
『九十九さんに信頼されてここに来たのにっ…』
「………」
『……全然役に立ててないっ…』
「そんなことないって…」
現に純が呪いの進行を遅らせていなければ、天馬も養父母も、龍心でさえ生きてはいなかっただろう。最良な慰め方などイマイチ分からず、どう声をかけていいかと困った表情を浮かべる五条。
『っ…ひくっ…五条、せんぱいっ……』
「ん?」
そんな中でも、月明かりに照らされて、自分の未熟さに涙を流す純を見つめていると、心がぼんやりと温かくなり、強く引き寄せられるような特別な感情が湧き上がる。
『…助けて、くださいっ……』
今まで自分の力を信じ生き抜いてきたであろう橘華純が、師である九十九以外に見せる心の弱さ。
『…助けてっ……』
「………」
涙のたまった大きな瞳で救いを求める純の姿を、不謹慎だが愛おしいと思った。
「ったく…」
『……っ!』
純の細い腕を掴み、グッと引き寄せ抱き締める。
「もっと早く頼れよ馬鹿」
『……っ……』
「お前一人でなんでもかんでも背負いすぎ」
『…うっ…ひくっ……』
「純のそうゆうとこ好きじゃない」
"けど…。"
そう言った五条の大きな手が、純の頭を優しく撫でる。
「ちゃんと、助けさせてくれてありがとな」
『…っ、五条せんぱ〜いっ…』
「ははっ。泣いとけ泣いとけ」
"うえーーんっ!"と五条の腕の中、子供のように声を出し涙を流し、自分よりもずっと小さな体で、大きな重荷を背負い生きている純。強者ゆえのプライドを捨て、守りたい者のために素直に手を差し出して、弱い自分を助けてくれとすがってくる。そんな姿が健気で、とても愛おしい。
五条は純の首元に顔を埋めて目を閉じる。より強く、純を抱きしめる腕に力を込めて。
「(…大好き)」