連日続いた任務を終え、煉獄杏寿郎が藤の花の家紋の家に戻って来られたのは従者たちが寝静まった深夜のことであった。月明かりに照らされた縁側を、足音を立てずに進んでいく彼の左手にはナデシコの花束が握られている。できれば昼間のうちに灯華と会い、あの大好きな笑顔を拝みたかった。きっと疲れが一瞬で吹き飛ぶに違いないと心の中で呟き、見慣れた部屋の前で足を止め思考を巡らせる。
「(…もう、寝てしまっているだろうな)」
女性の眠る部屋に夜な夜な足を運ぶとは如何なものかと感じたが、半月以上離れていたのだ。病のことも気がかりであったし、自身の目で妻となる想い人の無事を確かめねば気が済まない。煉獄は襖に手をかけゆっくりと開くと、人一人分の隙間から中に入り灯華の眠る布団の傍に腰を下ろした。
『…スー……』
穏やかな寝息を立て眠っている灯華の愛らしい寝顔を見つめると、張り詰めていた緊張や責任から一気に解放されていくような感覚がした。柱という立場からの解放、とでも表現すればいいのだろうか…。
「…(待たせてしまって、すまなかったな。灯華)」
『…………』
目を細め優しく微笑んだ煉獄が、花束を枕元に置いてから灯華の頬に手を伸ばす。触れると伝わる温かな温もりに、彼女が生きているのだと実感できた。自分が任務に出ている間、不安になっていなかっただろうか、不要な心配をかけただろうか、体の具合はどうだったのだろうかと、灯華を見つめながら考える。
「…君の穏やかな姿を見れて安心した」
『………』
言いながら名残惜しげに頬を撫で、離れたくはないが渋々立ち上がる煉獄。明日の朝一番にこの部屋へ来ようと思いながら背を向けると、布の擦れる音と共に愛しい声が自分の名前を呟いた。
「…!」
『杏、寿郎…さん?』
大きな目をさらに見開きながら振り返ると、眠たそうに目を擦り、布団から上半身を起き上がらせようとしている灯華の姿が映り込んで来る。そして、寝ぼけ眼のまま月明かりを頼りに自分の存在を確かめ終えると、灯華は心底嬉しそうな笑顔を浮かべて『お帰りなさい』と迎えてくれた。
どうしてか、その姿があまりにも愛おしい。
『長らくお疲れ様でした杏寿郎さん。いつお戻りになられっ…!?』
「ただいま!灯華…!」
お帰りなさいというその言葉も、彼女の存在も、何もかもが心を満たしていくようで、気づけば灯華をぎゅっと力強く抱きしめていた。自分の居場所を確かめるかのように首元に顔を埋めて、全ての感覚を用いて彼女という存在を感じる。再び『お帰りなさい』という声が聞こえてくると、煉獄は完全に肩の荷を下ろした。
「凄く君に逢いたかった!」
『わ、私もですっ…。ご無事でよかった』
「変わりはないか?」
『はいっ。大丈夫です。先生にも良い状態だと言われました』
「そうか!それは何よりだ!…こんな時間に起こしてしまってすまないな」
『いえ。杏寿郎さん、お戻りになられたばかりですか?』
「うむ!真っ先にここへ来た」
『でしたら、お腹が空いているのでは?』
「そうだな。だが今日はもう遅いから、明日の朝君の手料理を盛大に頂くとしよう」
やんわりと体を離し灯華を見つめると、心配そうな表情を浮かべて自分を見ている。そんな彼女の気持ちを払拭させてしまうくらいの笑みを浮かべてそう言えば、灯華は『分かりました』と穏やかに笑った。
『でしたら、湯浴みを。御召し物は用意しておきますから』
そう言って立ちあがろうとする灯華の肩を押さえ、自分でやるからもう休んで欲しいと伝えると、珍しく口をへの字に曲げ『嫌です』と頑なな意思表示をされたので驚いた。
『できることは、私にやらせて下さらないとっ』
「いつもやってくれているじゃないか。今日はもう遅い。体に障るから…」
『杏寿郎さん。私は柱である貴方の妻になるのですよ?大役を担う夫を支えるのは妻として当然のことですから、甘やかされては困ります』
「…………」
ぴしゃりとそう言い切った灯華に対し、煉獄は目をぱちぱちと数回動かし意表を突かれたような表情を浮かべた。いつもは謙虚で控えめな物言いをしているが、昔から譲れない場面になると灯華の強さが現れ何も言い返せなくなることがあった。今がまさにそうだ。柱であり自分に対して物怖じすることなく凛とした態度でいる灯華の姿は、まるで亡くなった母親のようだった。
『杏寿郎さんを支えるのは、私の責務です』
「!」
『全うしなくては、それこそお母様やお婆様、瑠火様に叱られてしまいます』
「……灯華」
この数週間で、ここまで気持ちの整理をし覚悟を決めるのは容易なことではなかったのではないかと思う。
『ですから、ここに帰って来た時くらいは私の支えを頼って下さい。杏寿郎さんが身を削り多くの人の命を救っているお手伝いを、私はしたいのです』
灯華の強い意志を感じさせる綺麗な瞳が、煉獄の心の炎の灯火をより大きく燃え盛らせた瞬間であった。なんて強く、美しく、儚くて尊いのだろうと、とても表現することのできない清く高潔な魂を目の当たりにしているようだった。それと同時に募る愛しいという想い。そう遠くない未来で灯華を手放さなければならない現実から、目を逸らしたくなった。本当に、失ってしまうのか…と。
『杏寿郎さん?』
名前を呼ばれて我に返ると、無意識のうちにもう一度灯華を抱きしめていた。離れないよう、離さないよう、壊れてしまわぬようにと祈りを込めて。
祈りの華を咲かせて
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