その日この家に、不穏という名の帷(とばり)が下された。
『えっ…弁慶がいない?』
「は、はい。どうやら今朝方正門から逃げ出したみたいで…」
『コホッ…。…それで十四紀が騒いでいるのね…』
朝からいとこの十四紀が庭中を駆け回り弁慶の名を叫んでいたのはそのせいだったのかと納得した。
「元々ふらりと現れた野良犬だったので、不思議ではないですが…」
『……十四紀は可愛がっていたものね…』
「ええ…」
どうしたものかと思考を巡らせていると、縁側をバタバタと駆ける足音が響いて来る。千寿郎が様子を見ようと立ち上がるや否や、障子戸がパァンッ!と勢いよく開き息を切らした十四紀が部屋の中に入って来た。
「姉ちゃん!やっぱ弁慶見つかんねぇ!」
「十四紀君もう少し静かにね。灯華さんは具合が悪いから」
「あ、ああそっか。わりぃっ」
人差し指を口元に添えて十四紀に注意を促す千寿郎。灯華の病の詳細を知ってから数日しか経っていないにも関わらず、彼は状況や立場をよく理解していてまだ癒えぬ悲しみと向き合いながらもうまく立ち回ってくれている。本当に立派な人格の持ち主だと感心するばかりだ。
「なぁっ、やっぱり町の方もさがしてくる!」
「町まではここから往復で一時間近くはかかるよ…?」
『…駄目よ十四紀。…人通りも多いし、迷子になっては困ります』
「迷子になんてならねぇって!オレ道覚えてるし!」
「ならせめて、兄上が帰ってから一緒に…」
「杏寿郎はいつ帰ってくるかわかんねぇじゃん!」
両拳を握りしめて行き場のない感情を露わにする十四紀。物分かりのいい千寿郎とは違い、彼はまだまだ幼子だ。たかが野良犬くらいで…と大人は思うかもしれないが、十四紀にとってはとても大切な存在。一刻も早く見つけてやりたいと弁慶の安否を気にかけているのが伝わって来た。
「なあ頼むよ姉ちゃんっ!ひぐれまでには帰ってくるからさ!」
『……分かって十四紀。貴方に何かあったらって心配なの…』
「大丈夫だって!」
『家の大人たちは仕事があるから出払えないし…』
「お鶴さんも今、刀鍛冶の方の接待中です…」
『ええ。…私もこんな状態では着いていけないの…だから…』
「やだ!!」
バッと振り下ろされた両拳が空を切り、千寿郎と灯華は表情を歪めたまま顔を見合わせた。
「なんだよ!だめだめばっかじゃん!」
「十四紀君、灯華さんは君を心配して…」
「姉ちゃんは犬きらいだからそう言うんだろっ?」
『十四紀、違うわ。…そうじゃなくてっ…』
「もういいよ!」
己の言動を抑圧してくる灯華の態度に、十四紀の我慢が限界を超えた。大好きな人ではあるが、今はその思いすら頭の片隅に追いやられ、本心ではない言葉が勢い余って口を突いた。
「姉ちゃんの分からずやっ!きらいだ!」
『…!ま、待ちなさいっ…コホコホッ…!』
「灯華さんっ、動かないで下さいっ…。僕が追いますからっ」
身を翻し部屋から出て行った十四紀に手を伸ばした直後、息が詰まり咳き込んだ。千寿郎が慌てて背中を摩り横になるよう促すと、灯華は申し訳なさそうに『ごめんね…』と呟いた。
*
時刻は十七時四十五分。
夕刻を迎え、陽光が沈みかかった頃…。
鬼殺隊本部から派遣された鎹鴉たちは、各々の管轄下で見回りを始めた『柱たち』のもとに火急の任を言付けた。
「ちょっ…コレって…そんなっ、そんなっ…(煉獄さんっ…!)」
任務内容を確認した者から表情を歪め、息を呑んだ。
柱たちには迷う時間も熟考する猶予も与えられない。
瞬時に答えを出し、行動に移す。
現場に一番近い柱は誰だ?
離れた管轄を誰がフォローする?
各々の鎹鴉たちが主人からの連絡を伝えるべく飛び交う。
判断を下すまでにかかった時間はたったの数秒。
本部で柱たちからの報告を待っていた産屋敷が、薄暗くなり始めた空から降下した鎹鴉に手を伸ばし「それで?」と小さく呟いた。
「そうか…。やはり杏寿郎が向かったんだね」
瞳を伏せ、コクリと頷いた鴉を見つめる。
「十二鬼月だろうか…。念の為、しのぶにも現地へ向かうよう伝えて」
悲劇にならないことを祈るばかりだが、人喰い鬼はただ欲望のままに人を喰らうのみ。こちらの願いなど汲んではくれない。産屋敷の伝言を受け取り再び飛び立って行った鴉を見上げながら、彼は藤の花の家紋の家から届けられた文をそっと握りしめた。
"人喰い鬼出現の兆しあり。
稀血を持つ身内が連れ去られた可能性があります。
大至急、記した現地に柱を急行して頂きたく存じます。
藤の花の家紋の家.当主お鶴"
仕掛けられた罠
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