「振り向かずに走って!」
「うわぁあぁぁぁっ!!」
闇に覆われた森の中。木々の合間を抜けながら、十四紀と千寿郎は持てる力全てを振り絞り疾走する。邪魔な羽織を脱ぎ捨てて、十四紀の手を引き森の入り口を目指す。
「ガルルルッ!!」
「ガウガウッ!!」
背後に迫るは血鬼術により猛獣と化した、血に飢えた野良犬数十匹。一刻も早く人の肉に喰らい付きたいのか涎を垂らし、逃げる二人を追いかける。小石を投げ、獣たちの気を逸らしてできた数秒間の距離が次第に縮まっていく。所詮人間の駆ける速度は、四足歩行の動物には敵わない。
「(このままじゃっ…)」
「はあっ、はぁっ…!!」
加えて体力だって鬼のように底無しではない。
幼い二人に限界が近づく。
足が震え、走っているハズなのにまるで進めていないような錯覚に陥り、森の入り口が遠のいていくように感じる。何度も何度も木の根に爪先が当たり、転びそうになるが走り続ける。
「十四紀君っ……っ、こっちに!」
「…っ!」
このまま真っ直ぐ進んでは確実に追いつかれると思った千寿郎が、十四紀の手をグイッと引き寄せ右に方向転換した。そして再び、走り続ける。走って走って走って…獣たちから逃れるべく無我夢中で走り続けると、二人の前に大きな川が現れた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!か、川っ…」
「にいちゃんっ…この川っ…深すぎてっ……わたれないっ…はぁっ」
肩を上下に動かして、肺が酸素を必死で取り込む。息も絶え絶えになんとか言葉を吐き出すと、もうそこまで獣たちが迫っている足音が聞こえてきた。考えている余裕などない。川の流れからすると恐らくここは上流から中流の間。一か八か飛び込めば、あの恐ろしい獣たちから逃れることができるかもしれない。だがそれは、この先にある滝から落ちても死ななかった場合に限る。
「(…母上っ。どうか僕たちを、お守りくださいっ!)」
十四紀の手を力強く握りしめ、亡き母に望みを託す。
やるしかない。もう進むしかない。でなければ死ぬ。
獣の餌になるか、滝壺に落ちて溺れ死ぬか…はたまた生き延びるか。極限の選択肢の中で千寿郎が選んだ道は…、
「行くよ、十四紀君!深く息を吸ってっ…」
「…!し、死んじゃうよっ…」
「だ、大丈夫。多分死なないっ…!」
「たぶん!?」
「絶対に手を離さないで!!」
「ちょっ、千寿郎兄ちゃっ……!!」
ザバンッ!!!
大きな水飛沫と共に響いた水音。
今の今まで二人が居た場所には獣たちが牙を剥き立っている。悔しそうに唸り声を上げ、途切れた匂いを嗅ぎ視線を川の方へと向けた。ゴーッと勢いよく流れる大量の水。野生の本能が、ここは危険だと獣たちの動きに制止をかけた。
「あーあ。せっかく楽しく鬼ごっこしてたのに」
月明かりの届く岩の上。
獣たちの感覚を介し、二人の気配だけを感じ取っていた賢鬼はつまらなさそうに夜空を見上げ、次の瞬間には右手の人差し指についた人間の血を舐めて、ニヤリと笑みを深め肩を揺らした。
「へへへっ。腹減ったなあ」
*
ゴポゴポッ………。
「灯華さんっ」
『ん?どうしたの千寿郎君』
「一つ、聞いてもいいですか?」
『ええ、勿論です。なんでしょうか』
沈んでいく意識と体。
記憶か夢か、区別がつかなかった。
「灯華さんは、兄上を慕っていますよね」
『えっ?…え、ええ。それはその、はい…』
「どんなところが一番好きですか?」
『へっ…!?』
目を覚ますと、そこは見覚えのある生家の庭先だった。
縁側で花を生ける灯華がいて、それを眺めていた千寿郎が気になっていたことを尋ねる。とても心地よい穏やかな春の陽気。優しい風に乗りピンク色の花びらが宙を舞っているのが見えた。
『な、なぜそのようなことを急に聞くんですか…?』
「駄目でしたか?ただ知りたくて」
『いえっ。駄目ではないですけど、ちょっと気恥ずかしくて』
茎を切った花を床に広げた和紙の上に置き、子犬のような大きな瞳で見つめてくる千寿郎に、灯華は困ったような表情を浮かべた。
「兄上はこの間、恥ずかしげもなく灯華さんの自慢を和尚様にしておられましたよ」
『えっ…!?』
「花を贈った時に見せる穏やかな笑顔が、とても愛らしいと」
『…えっ!そ、そんなことを杏寿郎さんがっ…?』
「はい!」
まるで自分のことのように喜び、満面の笑顔を浮かべた千寿郎に対し灯華の頬がみるみるうちに赤くなっていく。両手を頬に添え、どうしたものかと視線を泳がせた。
「作るご飯が美味しいとか、生ける花はどれも美しいとか、他にもたくさんっ。兄上は本当に灯華さんのことを愛しておられますよ」
『え、あ…えぇっと…っ』
ついに茹で蛸のように顔を真っ赤に染めた灯華を前に、千寿郎はただニコニコと嬉しそうに微笑んでいる。内心では、なんて幸せな時間を過ごせているのだろうと思った。
「ですから、灯華さんは兄上のどこをっ…」
少し前のめりになって先程した問いをもう一度投げかけようとしたその刹那…。
「こらこら。お喋りが過ぎるぞ、千寿郎」
柱としての任を終え、いつもと変わらぬ自信に満ちた表情を浮かべた兄杏寿郎が姿を現した。
『…き、杏寿郎さんっ…』
「兄上!」
「そう全てを吐露されては、格好がつかないだろう」
「お帰りなさい!兄上っ」
兄の帰宅を心底待ち焦がれていたのか、スッと立ち上がった千寿郎が煉獄の持っていた花束を嬉しそうに見つめ「本当のことをお話していただけですよ」と笑顔を浮かべた。
「灯華、ただいま」
『お、お帰りなさい杏寿郎さん。お怪我はされてませんか?』
「勿論!それより体の具合はどうだ?病気が治ったからと言って無理をしてはいけない」
『はい。そのことでしたら今日お医者様に…』
穏やかな笑みを浮かべながら会話をしている大好きな二人を眺める千寿郎。欲しかった未来、思い描いていた幸せが目の前にある。温かくて、優しい…。灯華の病が治り、生家へ嫁ぎ、毎日笑顔で生活を送る。ただそれだけでいい。
「灯華さんっ」
『…?どうしたの、千寿郎君』
それだけで、良かったのだ。
「それで、兄上のどこが一番好きなのですかっ?」
『えっ!?まだ続いていたのっ?』
「うむ!良い質問だな!それは俺も是非聞いておきたい!」
『こ、困ります杏寿郎さんっ…』
「そう恥ずかしがるな!どう言われようとも俺は嬉しい!」
『そ、そうゆう問題ではなくてっ…』
ただそれだけで…良かったのだ。
ゴポ…ゴポゴポゴポ…。
「(…………兄上……灯華さん……)」
***.想い
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