「ゴホッ、ゴホッゴホッ…」
30を越えてからの風邪は長引くからね〜と前にハンジが言っていたのを思い出す。地下街での生活がやたらと長かったせいか、いつの間にか自分もそれなりに年を重ねていたことを思い出し怠い体に舌打ちをした。
「…クソだな…」
熱い。
着ていた上着を脱いでベルトやらを全て外した。どうせこの体じゃ立体起動装置を使って動き回るなんて無理なのだから。首に巻いているクラバットも取りそれらを全てソファに放り投げる。ブーツを脱いでベットに体を沈めると、すぐに睡魔が襲って来た。汗ばむ体に気持ち悪さを感じながら目を閉じると、わりと早く意識を手放し深い眠りについていた。
*
小さい頃の記憶なんて、思い出したくもない光景ばかりだ。薄暗いゴミ溜めの中でその日生きられればそれで上等。食べるものも飲むものもない。陽の光も、母親の愛情すら分からないカビ臭い場所での生活。娼婦だった母親は、見ず知らずの男を連れて来ては体を売る毎日。
そんな光景が嫌で、その場にいる自分が嫌で、全てが汚く見えた。汚い、汚い、汚いと何度この手を拭っても拭いきれない汚れがあって。なぜ自分はこんな世界に生まれて来てしまったのかと、絶望した。
「……」
『あれ、ここって兵長のサイン欄じゃないかな…』
「……」
『やばいどうしようっ…、ミスった!』
薄っすらと差し込んだ光。ぼやける視界の中で、人の形が見えた。一人でぶつぶつ言った後に、口を閉ざしペンを走らせている。最悪な夢を見ていたからだろうか、目に映るその光景が、陽の光に照らされたその人物の姿が綺麗だと…そう感じた。
「…クロエ…」
『はっ…。兵長!大丈夫ですかっ?』
「ああ…。ゴホッ…ゴホッ…」
『ちょ、無理しないで下さいっ』
先程より熱く怠くなった体を起こそうとすると、駆け寄って来たクロエに体を支えられ上半身だけをベッドから離す。リヴァイは虚ろな瞳で数回瞬きをすると、汗ばんだ体が気持ち悪くて「ちっ」と弱々しく舌打ちをした。
「どれくらい寝てた…」
『一時間くらいです』
「そうか…。お前、ずっとここに居たのか」
『すいません勝手に入って。水を持って来たんですけど返事がなくて、入ったら兵長が寝てたので起きるまで待ってようかなと』
「………」
『迷惑でしたか?』
「…いや。いい」
『そうですか。あ、薬を飲んでください』
先程モブリットから渡された薬と水の入ったカップを手渡すクロエ。これを飲めば少しは楽になるだろうと思っていたのだが、リヴァイはその二つを見つめたまま中々受け取ろうとはしない。どうしたのだろうと首を傾げると、水の入ったカップだけを受け取り喉に流し込んだ。
乾いていた喉に潤いが戻る。
『ちょ、薬…』
「ハンジの奴が持って来たんだろ?」
『そうですけど…』
「何が入ってるか分からん。…捨てとけ」
『え、えぇ!?ダメですよ、折角の気遣いを!』
「飲まないと言ったら飲まない。ゴホッゴホッ」
『へ、兵長っ…意地張らないで下さいよっ』
胸を押さえて咳き込んだリヴァイの背中を優しくさするクロエの行動に、体がぴくりと反応した。
「ダメだな…」
『何がですか?』
「気持ち悪ぃ」
『え!吐きそうですかっ!?』
「…バカか。そうゆう意味じゃねぇよ」
『な、なんだ。…何が気持ち悪いんですか?』
「汗だ…。着替えたい、その棚からシャツを出せ」
『え、あ…はい』
「あとタオルもよこせ」
『は、はい』
病人のくせに中々人使いが荒いなあ、なんて思いながらもリヴァイに視線を向ければ辛そうにしているから何も言う気は起きなくなる。言われた通りの場所からシャツを取り出そうとすると、さすがは綺麗好きだと思わせてくれた。しっかりとシワの伸ばされたシャツが綺麗に折り畳まれ収納されている。
男のくせに凄いと感心しながら一枚取り出し、持って来ていたタオルと一緒に手渡した。
『流石は兵長。お部屋の隅々まで綺麗ですね』
「当たり前だ」
『…あ、私外にいるので着替え終わったら声かけてください』
「ああ…」
数分後、「クロエ」と名前を呼ばれ失礼しますと扉を開ける。Yシャツからシンプルなシャツへと着替え終えたリヴァイが、ベッドから起き上がって先程までクロエが整理していた書類に目を通している姿が映り込みいろんな意味でヤバい…と慌てふためく。
「間違ってんじゃねぇか…」
『す、すみません直しますから!寝て下さい!』
「余計な仕事を増やすなよクロエ」
『はいっ!それはもうっ…。あ、兵長』
「なんだ」
『何か食べれますか?』
「要らん」
即答されたじろぐクロエ。ベッドの縁に腰を下ろし咳き込むリヴァイを見つめ、人類最強の看病は何て大変なんだと小さくため息を吐いた。
『薬も飲まない、何も食べない、寝ないじゃ風邪は治りませんよ?』
「オレなら治る」
『どんな自信ですかそれっ。とりあえず寝て下さい』
「眠くない。一時間も寝てたんだぞ、強要するな」
『あー、もうワガママだなぁ!』
「ああ?」
『ほら、早く!ベッドに入って!』
「オイ…やめろ。気安く触るな…ゴホッゴホッ」
『そら見たことか』
しびれを切らしたクロエが抵抗するリヴァイを無理矢理ベッドに押し込み寝かせると、近くに用意しておいた桶でタオルを絞りそれを額に乗せる。心地のいい冷たさを感じながらその行動に驚きクロエを見ると、心配そうな表情を浮かべ自分を見下ろしていた。
『リヴァイ兵長』
「ああ?」
『風邪をひいた時くらい、素直に頼って下さい』
「………」
『兵長は嫌かもしれないけど』
「………」
『元気でいてもらわないと困ります』
そんな顔するなと言えるほど、器用ではないしクロエに近づけたわけでもない。近くにあった椅子に腰を下ろして『無理しすぎですよ』と苦笑いを浮かべた部下に舌打ちを一つくれてやった。素直じゃないなんて、自分が一番自覚している。
口うるさい母親のようにぶつぶつと小言を言って来るクロエにはため息が出るが、何故だか悪い気かはしなかった。
『お水飲みますか?』
「勝手にやる…ゴホッゴホッ…」
『何か欲しいものとかは…』
「…ねぇよ」
そう言ったクロエにゆっくりと視線を移すと、兄同様綺麗なロイヤルブルーの瞳と目が合い逸らせなくなる。
「クロエ…」
『はい、兵長』
「…少し休む。仕方ねぇから言う事聞いてやるよ」
『あはは…。素直じゃないんですから』
「うるせぇなぁお前…」
『はいはい。じゃあ、私執務室に一回戻りますね。また時間置いてから来ます』
そう言って椅子から立ち上がろうとした瞬間、リヴァイの手がクロエの左手首を掴み動きを止める。予想外の事に視線を向ければ、落ちそうになったタオルを押さえて虚ろな目で自分を見上げてくるリヴァイがいた。
『兵長…?』
「…ここに居ろ」
『へっ?』
「聞こえなかったのか…?ここに居ろと、そう言ったんだ」
熱のせいでとうとうおかしくなってしまったのだろうか。
『兵長…』
「居て構わねぇから…」
『はいっ』
「そこの書類、全部きっちり終わらせていけ…」
『……………ちっ』
こんな休養なら悪くない
(こんな口実がなきゃ、お前を引き止める事もできない)
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