エクトル・グレースとは悪友であり戦友だった。

その妹クロエは、兄貴の分までこの心臓を捧げると言った。兄妹揃って暑苦しい。だが、そうゆう奴はどうも嫌いになれなかった。



数日前に言い渡された謎の異動命令から一週間。寡黙だが父親のようだったミケの元から鬼の下で働くことになったわけだが、初日が肝心だとクロエはリヴァイの居る部屋の前で深呼吸を数回繰り返した。この扉を開け待って居るのは地獄の日々+鬼だ。後戻りはできないし、そもそもそんな選択肢は用意されていない。上司に行けと言われたら、もうそれを受け入れるしかないのだから。

冷や汗が頬を伝い、自分でも血の気がサァァっと引いて行くのが嫌でもわかる。緊張した心臓はどくどくと脈打ちクロエを崖っぷちまで追い込んだ。心の底から助けてくれぇぇっと叫びたくなるが、意を決して木製の扉を手の甲で数回ノックした。

『失礼します!本日付でこちらに配属になりましたっ…クロエ・グレースで……す』

言い終わる前に内側から開けられた扉。差し込んで来た日の光に、クロエは目の前に現れた人物を凝視し唖然とした。会うのはこれが初めてと言うわけでないが、約2ヶ月間全くといっていいほど関わって来なかったものだから初対面と言ってもいいくらいで。

「遅せぇ」
『え、あのっ…就業開始15分前です…』
「それはここのルールだ」
『………』
「オレの下についたからには30分前にはここに来い」

嫌な汗が身体中から吹き出すのを感じた。ミケの元へ戻りたい。願わくばハンジの下で働きたかったが組織の人事なんてそう都合よくは行かない。クロエは言葉を詰まらせながら勢いよく頭を下げて謝罪した。これからは兵団のルール+リヴァイのルールにも従順でいなければ死ぬと胸に誓いながら。そんな新兵の思いなど露知らず、リヴァイは自分よりも少しだけ背の低いクロエの首根っこを掴み無理矢理部屋の中に入室させ扉を閉めた。

その行動には恐怖すら感じたが、何よりも驚いたのはリヴァイの今の格好だった。頭と口元を布で覆い、手には埃を取るハタキを持っている。ここに来るまでに出来る限りのリサーチはして来た。ハンジからは潔癖症というワードを聞いていたが、まさしくこれか!と納得がいった。

「オレの下で働くからには、まず完璧な掃除の仕方を覚えろ」
『掃除、ですか?』
「そうだ。埃はおろかチリすら排除しろ」
『……』
「毎朝この部屋の掃除をしてから仕事に移れ、いいな」
『は、はい…っ』

いいも悪いも受け入れなければその眼光だけで殺されてしまうじゃないかと内心呟く。クロエは渡された清掃用具を受け取ると、リヴァイと全く同じ格好をして部屋の掃除に取り掛かった。常日頃から綺麗にしているのだろう、どこを見ても掃除する必要があるのか?と疑問に思うほど。だがやらねば待ち受けるのは死だけだ。そう考えれば掃除とて命がけ。気づけば今までにない程の集中力を発揮して、窓を磨いていた。

「オイ…クロエ」
『は、はいっ』

綺麗にしないと死ぬんだ、清潔でないと死ぬんだ、
そう呪文のように言い聞かせ窓を磨いていたら不意に名前を呼ばれ心臓が跳ね上がる。存在が怖い上に声のトーンも低いと来たから尚怖い。クロエがビシッと敬礼し振り向くと、リヴァイは呆れたような表情を浮かべた。

「まるでウサギだな」
『へっ…?』
「何に怖気づいてるか知らねぇが…ビビりすぎだ」

頭と口を覆っていた布を取り去ると、リヴァイはそれをクロエに向かって放り投げ「洗っとけ」と言って部屋を出て行ってしまった。一人ぽつんと取り残されたクロエは呆然と立ち尽くしながら扉が閉まるのをただ見つめているしかなかった。



バシャバシャバシャッ。
バシャバシャバシャッ。

『あんの腐れ兵長…』

クロエは自分の分とリヴァイの分の布を洗いながらボソッとそう呟いた。初日が肝心だ、とか愛想を使おうとしていた自分が馬鹿みたいだ。もとより話は聞いていたし、どんな人物かは知っていた。だからそれなりに身構えていたつもりだったのだが、予想以上に我儘で自己中心的な人物だと思い知らされた。

人類最強と称されるその強さには尊敬するが、いかんせんあの態度ではこの先が思いやられる。ペコペコ媚びへつらうタイプではないが、相手が相手なだけに反論もできなかった。その内にストレスでハゲてしまうんじゃないかと心配になる。

『ああ、胸くそ悪い。死ね兵長』
「ほぅ…いい度胸じゃねぇか」
『!!!!!!』

背後から、それも割と近くで聞こえた今一番そこに居てはマズイ人物の声にクロエは一瞬死んだ気がした。土を踏む靴の音が徐々に近づき、痛いくらいの殺気が背中に突き刺さる。恐怖のあまり振り返ることが出来ずにいると、頭に重みを感じ体が跳ねた。

「なぁ、クロエよ」
『すみませんでしたぁぁ!土下座します!』

ぐいっと頭を捻られ横を向くと、目の前にはリヴァイ。クロエは決死の思いでそう叫び延命の危機を伺う。一方のリヴァイは表情一つ変えることなく怯えるクロエを見つめたままちっと舌打ちをした。

「てめぇはなんだ、死にたがりか?」
『い、いえっ…』
「じゃあなんだ」
『なんだと言われましても…』
「ああ?」
『うっ…』

威圧的に細められた目にたじろぐクロエ。
そんな二人の様子を少し離れた場所から面白そうに眺め「あはは」と笑うハンジ。その隣でモブリットは可哀想だと哀れみの視線を向けながら表情を歪めた。

「リヴァイの奴楽しそうだな〜」
「どこがですか!?…恐喝しているようにしか…」
「あれが彼なりのコミュニケーションだから」
「助けなくていいんですかっ?」
「あははっ、リヴァイに怒られちゃう」
「え?」

ハンジの言葉の真意が分からず首を傾げたモブリット。もう一度クロエに視線を移すと洗濯の仕方に難癖をつけられている最中だった。

「オイ、干す時はしっかり伸ばせ。シワになるだろぉが」
『(お母さんかよっ)…こ、こうですか』
「もっとしっかりやれ」
『ぐっ……』
「なんだその目は」
『い、いえ…』

そのあと一時間かけて、リヴァイのお眼鏡に叶う洗濯の仕方を徹底的に叩き込まれたクロエ・グレースであった。


人類最強の士長
(ただの掃除好きの潔癖症じゃないか!)


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