「エクトルのこと考えてる?」
「あ?」
「それともクロエのことかな?」

壁上に吹く穏やかな風が、二人の髪を揺らす。
眼前にある広大な大地にむけられた鋭い視線は、ここにはいない誰かを見つめているようで、リヴァイの赤く腫れた右頬を指さしながらハンジがそう問いかけた。

「人類最強が可愛い部下に殴られるとはね」
「………」
「悪いが、笑わずにはいられなかったよ」
「どっか行け、クソメガネ」

リヴァイから放たれる地獄のような威圧感を感じているのかいないのか、はたまた上手く受け流す術を心得ているのか、ハンジは呆れたような笑みを浮かべて臆することなく居座り続ける。そんな二人の様子を、固定砲の整備にあたる兵士たちが固唾を飲んで見つめている。

兄妹・・揃って君に盾突くなんて、本当面白い」
「………」
「確か、エクトルの時は軍規違反で処罰してたよね?」
「アイツは自ら懲罰房に入る馬鹿だっただけだ」

クロエの死んだ兄エクトルとは、地下街にいた頃からよく殴り合いの喧嘩をしていた。気に入らないことがあれば言葉よりも拳で語り合う間柄というか、いつまで経ってもチンピラのような一面が互いに抜けず、調査兵団に入団してからも意見の相違で殴り合いになる場面は度々あった。男二人、ガキ二人、まあそんなものだろうと思っていたが、まさかそこに妹が加わってくるとは想像もしていなかった。

「ああやって感情をぶつけてくれて、正直君も安心しただろ?」
「今に始まったことじゃない。アイツはもともとうるせぇ奴だ」
「またまた〜。クロエのこと一番心配してたクセに」

ニヤニヤと詮索するような笑みをむけてくるハンジから視線をそらし、"気持ちの悪い奴め。"といつも通りのセリフを吐く。

「ねぇリヴァイ…」
「あ?」
「こんな言い方は不謹慎だけど…」
「……」
「クロエが死ななくて、本当によかったよ」

打って変わって真剣な表情を浮かべたハンジが、かけているメガネの奥からリヴァイを見据える。背負った部下の命に、優劣などつけたくはない。みな平等であるべきだとは思う反面、人間である以上は情がわく。最初はそうではなかったものの、だんだんと親しみや愛情が芽生え、気づけば特別になっている…なんてことはよくある話しだ。リヴァイやハンジがいくら常人離れした兵士だからといっても、感情の一切を捨て去ったわけではない。

「あいつは…そう易々とは死なねぇよ」
「…ああ。私もそう信じてる」

まるで、自分自身に言い聞かせるように口にしたその言葉は、確証のないただの願望。生と死の狭間に立つ部下の命が、この手からすり抜けてしまわぬようにと拳を握るリヴァイ。ハンジも同じことを思っているのか、二人の間には切なげな沈黙が流れる。
穏やかな風が、その思いを運ぶかのように吹き抜けた。

「もう少し、待ってあげてよ」
「…オレたちは兵士だ。そんな甘さは許されない」
「仲間の死を受け入れるのには時間がかかるんだ」

絆を深めた仲間の死、巨人が人間を捕食する際の断末魔、表情、血肉が引き裂かれる音、臭い、救いを求める手、タスケテという最後の言葉…そういうすべてのトラウマや自己嫌悪を消化するのには、長い長い月日を要する。とにかく時間が必要なのだ。
私たちもそうだったろう?と、ハンジの瞳が訴えかける。

「ハンジ。クロエはな…」
「ん?」
「馬鹿なクソ兄貴に似て、そんなにやわな人間じゃねぇよ」

お前に諭されずとも、そんなことは解っている。
全てを見透かしていそうなリヴァイの鋭い眼差しが、ハンジを見つめる。

「さっきは要らないとかなんとか言ってたくせに」
「なんの話しだ」
「しらばっくれる気っ?可愛い部下を泣かせておいて!」
「オイ…。人聞きの悪いこと言うんじゃねぇ」
「ホントのことだろ?」

やれやれと肩をすくめたハンジが立ち上がり、腰に両手を当て気さくな笑みを浮かべリヴァイを見つめた。

「君が手放すなら私の班にもらうから」
「やらねぇよ」


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