#05


怪物が襲いかかってくる。正体不明の怪物。大きな胴体、鋭い無数の歯、ギラついたぎょろぎょろと動く目。油断していると飲み込まれてしまいそうになる。



中間テストが始まった。一時間目は数学だ。
E組に落ちてから本校舎の教室に入ったのは初めてだ。古くて軋む木造校舎にすっかり慣れてしまい、白くて綺麗に整えられた教室は落ち着かない。まるで入学したばかりの頃のようだ。

「E組だからってカンニングなどするんじゃないぞ。俺達本校舎の教師がしっかり見張ってやるからなー」

足を大きく開きふんぞり返って椅子に座った先生が、コツコツと指を教台に打ち付けわざとらしく咳払いをする。生憎私にはその先生が誰かはわからない。

ぴんと張った空気が無秩序に掻き乱される。けれど、もともとたいして集中していない私のリズムはそんなに乱れなかった。教師のくせにする事があまりに幼稚臭くて、テスト中だというのに教室を俯瞰してしまうせいだろう。

意識を再び机の上に拡がるテスト用紙に向ける。
殺せんせーは本校舎の教師よりも先生として優れていた。テスト勉強中、私は先生の声を聞き流すふりをしつつそこそこちゃんと耳に入れていたから、2年の時よりもすらすらと解答の糸口が掴める。
大きくて凶暴で獰猛に見える机の上の怪物だけど、私はこの“魚”の殺り方を知っていた。

殺り方はわかる。殺るための武器もちゃんと持っている。でも、私には、攻撃するだけの勇気が無い。



「A組に戻る気はないか」
浅野君にそう言われた。

赤羽君はテスト週間に入ってから私を迎えに来ない。昨日の校庭での赤羽君の態度といい、ここ数日の私は彼に泳がされている節がある。彼は私にテストをちゃんと解かせたがっているのだし、もっと絡んでくるかと思っていたけれど。
そんなわけで今日、朝から赤羽君と顔を合わす事もなく落ち着いて家を出た私を迎えたのが浅野君だったのだ。こんな日に朝から私の家に来るなんて彼の余裕が伺える。
なんて事ない雑談をしながら彼の行動の真意を探っていた私に彼がそう言ったのは、私の家から学校までの道のりを半分ほど歩いた頃だった。


「……どうして?」

「自分の意思でE組に落ちたのに、君はちっとも楽しそうじゃない」
「だから自分の意思じゃ、」
「それはもういい。2年の終わり頃から君が浮かない顔をしていたのは気づいていたさ。だから君の意思を尊重してE組行きを引き止めなかったんだ。でも今の君はますます諦めたような顔をしている」

流石、浅野君は観察眼も並じゃない。クラスどころか校舎だって違うのに、よく私の表情なんて気にしていられるなと感心する。

「…………浅野君は、学校が楽しい?」
「楽しいかと聞かれれば……どう答えるべきかわからないが、少なくとも退屈ではないさ」
「……私、何のために勉強するのかわからなくなっちゃった。夢も無いし、そもそも賢くありたかったわけじゃないから勉強に対する執着心も無い。必死に学校にしがみつく意味はなんだろう、って……」
「……僕はあの理事長の手のひらの上で転がされているのが気に食わない。だから、あの人よりも上に立つために自分を磨いてきた」

全部、諦めちゃえばいいのに。諦めてしまえば抗う気力もなくなって、理事長の事もきっと受け入れられる。

「君が本校舎に戻ったからといって椚ヶ丘が変わるわけじゃない。でも、君には、僕達とテストを競い合った頃の君に戻ってほしいんだ」
「…………でも、私、本校舎に戻る気はないよ」
「……そう言うとは思っていたさ。全校集会の日、君の奥に珍しく意志が見えたから」

『でも私、もっとかっこいい人を知ってるの』
少し前に私は彼にそう言った。A組には、本校舎には、赤羽君がいないから。私は本校舎には戻らない。



赤羽君のいない本校舎に戻る気はない。けれど、テストなんてもううんざりなのも事実で。というよりむしろ、私は、赤羽君がいない事を言い訳にしているのだろう。もともと彼と仲良くなんてなかったくせに。

テストでいい点を取ったところで簡単に本校舎に戻れるわけがないとわかっているのに解答欄を埋められないのは、もう一生懸命生きるのに疲れたからだ。
まっすぐ前を向いて歩く事を一度諦めてしまったら、再び遠くを見据えて進む気力がなくなってしまった。目標を見失って、そのまま何を目指すのかもわからず足を動かすのが怖いのだ。

私はもう地球にだって未練は無いから殺せんせーに対する殺る気も出ない。
でも、殺せんせーに出て行って欲しくない、それが国も含めたみんなの見解なのだ。その為には私も50位以内に入らなければならない。
私には50位くらいわけないけれど、あの担任の前で一度やる気を見せると後に引けなくなってしまうだろう。だから私の手は鉛でも握っているかのように動かない。

はぁ、

音を立てずにため息を吐いて、ゆっくりゆっくりテストを解き進める。殺せんせーと浅野君の言葉が頭をぐるぐると回るせいで、解くのがいつもよりスローペースな代わりにいつもより問題を間違える事を躊躇してしまう。

このまま解き続けると時間切れになって尚、50位以内に入ってしまうだろう。

もんもんとしながら解答欄を埋め、時計を見上げる。あと、5分…………。


ある問題に差しかかった時、ふと違和感を覚えた。この問題は、もしかして。
8割ほど埋められた自分のテスト用紙を見下ろして、私は消しゴムに手を伸ばした。




テストが返却されたE組はいつにも増して暗い。お通夜モードだ。

私の手元に纏められたテストを見る。五教科総合354点、186人中86位。狙ってたあたりの順位だけど、クラス内で見れば思いの外上位だった。あんなに背中を押されたにもかかわらずみんなのテストが伸びなかったのは、テスト範囲が予告されていたものと大幅に変更されていたからだ。それもテスト二日前に。

終了時刻ぎりぎりに消しゴムを手に取ったのは賭けだった。まだ習っていないはずの問題に手を止めて、E組は50位以内には入れないだろうと思った。けれど、もし私の勘違いだったら私のせいで先生はE組を出て行くんだろう。その時は、A組に……いや、本校舎に戻れるように頭を下げるしかないだろうな、なんて。
でも予想通りというか予想以上というか、クラス全員50位以内どころか100位以内すら叶っていない。

やるせないクラスメイトと背中を見せた殺せんせー、本校舎にこの学校の“異常”を訴える烏間先生をどこか遠くに眺めながら、私は息を吐いた。


みんなには悪いけど、テストを解かない理由ができた。殺せんせーが出て行っても、私だけのせいじゃない。
今回の仕打ちはみんなの心に根ざしてこれからもみんなを“落ちこぼれ”として縛り続けるのだろう。


自分の事で精一杯で、この場の空気にそぐわない安堵の表情を浮かべる私を赤羽君が見ていたのなんて気がつかない。

「……先生の責任です。この学校の仕組みを甘く見すぎていたようです。……君たちに顔向けできません」
「………………」

悪いのは殺せんせーじゃない。誰もわざわざそんな事言わなかったし、目標を達成できなかった私達は自分達がとるべき行動が何かなんてわからなかった。

隣から椅子を引く音がした。


「にゅやッ!?」ガァン


対先生用ナイフが勢いよく黒板に弾かれる。赤羽君が落ち込む先生に向かって投げ付けたのだ。

「いいの〜? 顔向けできなかったら俺が殺しに来んのも見えないよ」
「カルマ君!! 今先生は落ちこんで……」

「俺、問題変わっても関係無いし」

赤羽君が自分のテストを先生に突き出す。
彼は本校舎復帰条件である50位以内を取った上で、“E組に残る”と自分の意思を示した。

「……で、どーすんのそっちは? 全員50位に入んなかった言い訳つけて、ここからシッポ巻いて逃げちゃうの?」

殺せんせーの目前数cmにいる赤羽君の表情は最後列の私の席からは見えない。

「それって結局さぁ、殺されんのが怖いだけなんじゃないの?」

けれど、きっと今の赤羽君はいきいきとしているんだろうね。
彼の言葉がクラスの空気を変えた。

「なーんだ殺せんせー怖かったのかぁ。それなら正直に言えばよかったのに」「ねー『怖いから逃げたい』って」

「にゅやーーッ!! 逃げるわけありません!! 期末テストであいつらに倍返しでリベンジです!!」

そうやって顔を真っ赤にして息巻いた殺せんせーを見て、みんなが次々に笑い出す。“落ちこぼれ”のレッテルが形を潜めてしまうほどに。
後ろめたさで上手く口角を上げられなくって、私は一人、顔を伏せた。

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