胸を締め付けた感情の名前
ウィンターカップの決勝戦から最初の休日。いつもより少し寝坊した俺に遅めの朝食を持ってきた母は神妙な顔をしていた。
「秋山さんところの紅葉ちゃん、亡くなったそうよ」
その言葉にまず頭に浮かんだのは「誰その人」だった。秋山紅葉。母が知っているということは中学校までの知り合いなのだろうか。悲痛そうな表情を浮かべている母には申し訳ないがピンと来ないため「ふぅん」としか返せなかった。
「まさかアンタ忘れたんじゃないでしょうね」
「うっ……」
「全く、昔よく遊んでもらってたじゃない」
ため息と共に指差された先にあったのは、子どもの頃使っていた現在まるおのおもちゃと化している小さなバスケットボールで、そう言えば昔バスケの練習につきあってくれた人がいた気がするなぁとぼんやり頭の中で輪郭が表れてきた。確か黒い髪の女性だったようなないような。首を傾げた俺に母は二回目のため息をついた。
「今日午後秋山さんち行くから黒い服用意しなさい」
「え、俺日向達とストバスする約束してたんだけど」
「どうせ夜になってもしてるんでしょ?お悔やみ言うだけだから直ぐよ」
通りで朝から家の中が忙しないわけだ。なんだったら制服でもいいからと言われ、着なれてる方がいいかと頷く。後で日向にメールしないと。
忙しそうに部屋を行き来してる母の後ろ姿はいつも通りだ。しかし、今日起きてから一度もギャグを聞いてないからそこそこショックなのだろう。今日は俺も自重すべきかもなとガックリと頭を垂れた。思い付いたネタを咄嗟に口に出せないのは結構ストレスになる。さっさと挨拶してバスケで鬱憤を晴らそうと米を掻き込んだ。
***
着馴れた制服の俺と対照的に姉と妹は気合いの入った服装をしていた。おいその黒のワンピースとか初めて見たんだけど。まあ俺は服に執着ないからその分二人に回すぐらい構わないのだが、そんなことより驚いたのは姉が目を真っ赤に腫らしてプルプル震えていたことだった。曰く「小さい頃から遊んでくれててすごく好きだった。最近は連絡とってなかったけどまさかこんなことになるなんて」ということらしい。朝からビービー泣いた姉にまだ幼い妹も空気を読んで黙りこくっている。
喪服を着た母と共に家を出ること十数分。家の広さは俺んちより少し小さいがそれでも見た目は普通な一軒家に着いた。秋山と書かれた表札を横目に母がインターホンを押すと暫くして母と同年代らしき女性が出てきた。多分紅葉さんのお母さんだろう。緩く癖のついた黒髪をしていて、少しやつれているように見えた。
「この度はご冥福を…」とよくありがちな挨拶をして頭を下げた母に倣って俺も慌ててお辞儀をした。顔を上げるとおばさんは疲れが浮かぶ顔を緩ませて俺たちを家に上げた。
家の中も特筆するところがない普通の家だった。強いて言うなら少しだけ飾り気がなくがらんとした印象がある。家内が亡くなったのだ。インテリアを気にする暇なんてないのかもしれない。
「俊くん大きくなったね」と頭を撫でられどう反応すればいいかわからず「あ、あざっす」とよくわからない返事しか出来なかった。リビングのソファに腰を下ろし、運ばれたお茶に口を付けながらおばさんと母の世間話を耳を傾けた。最後に会ったのはまだ紅葉さんが中学生の頃で俺がまだ小学三年生の頃。妹とは面識すらなく、姉には中学の制服をあげるなどある程度の交流はあったらしい。気持ちがぶり返したのか隣のソファで借りたタオルに顔を埋めて泣いている姉とその背中を拙い仕草で撫で続ける妹を横目にクッキーを噛った。クッキーをくっきり焼く。キタコレ。
時計の長針が一周した頃、運ばれたクッキーを空にしたところで手洗い場を借りた。まだまだ話終わらなそうな母とまだ泣いている姉の手前言えないが、そろそろ帰れないかなぁと内心ため息が漏れる。トイレでこっそりケータイを開けば、小金井から部活のメンバーが超楽しそうにバスケしてる写真が送られてきて最早苛立ちを感じた。帰りたい。
浮かぶ青筋を押さえながらリビングに戻ろうとする俺を待ち構えていたのは更にめんどくさいことだった。
「はあ?遺品整理?」
廊下に立っていたのは母で、そんな母からこっそり伝えられた言葉に思わずバカみたいに聞き返した。
「そう。紅葉ちゃんの部屋を少し片付けてほしいって秋山さんが」
「でもなんで俺?そういう業者いるでしょ」
「バカ、察しなさいよ」
曰く、おばさん自体何度も片付けようと部屋を訪れてもまだ我が子の匂いが残る空間に思わず手が止まってしまうのだそう。それはおじさんも同じことで、あまりに急すぎる死だったからもしかして明日にもひょっこり帰ってくるんじゃないかとそんな気がしてならないらしい。もう葬儀も終えて、お骨も埋めたと言うにだ。
だからと言って、金を払って業者に作業的に娘の思い出を片付けられるのも耐えきれず、苦心の策であったがある程度気心の知れた俺たち一家に頭を下げたらしい。
「母さんが片付けてもいいんだけどやっぱり秋山さんを一人にしておけないし、お姉ちゃんは秋山さん達と同じだし、舞はまだ小学生だからそういうの出来ないし……」
消去法的にアンタしかいないのよと納得できるような出来ないような説明をされたが頷く他に選択肢はなく、気付けば部屋の前に立っていた。取り敢えず物を一旦全部出して仕分けすればいいと言われたが、それでも何をすればいいかわからない。というかほぼ他人の俺が大切な遺品に触れてもいいのだろうかという葛藤もあり、全然気は乗らない。
が、もうこうなったら仕方ない。報酬は出ると言っていたしちゃっちゃと片付けてさっさと帰ろう。
ふぅと深呼吸してゆっくり開けたドアの隙間から流れてきた匂いにつきんと頭の奥が痛んだような気がした。
姉と妹をカウントしなければ初めて入った女子の部屋だったが、呆気にとられるほどシンプルだった。もっとピンクで溢れていて至るところにぬいぐるみが置かれているイメージがあったがそんなことはなく、どこにもありそうな家具に小さな小物がちょこちょこある程度の、俺の部屋の方が味気あるとすら思える質素さだった。これが女子の平均的な部屋なのかそれとも紅葉さんが単にインテリアに興味がなかったのかまではわからないが、片付けがとてもしやすかったのは事実だった。
いや、しやす過ぎた。母の話によれば紅葉さんは五日前どこかに出掛けて帰宅した直後に脳卒中で倒れたと聞いた。本来なら食べかけのお菓子や読みかけの本の一つや二つ放置されててもおかしくないというのに、机の上にはシャーペン一本すら転がってない。何気に懸念していた女子特有のグッズも今のところゼロで黒歴史ノートもなかった。あまりに片付きすぎている。まるでこうなることを予めわかっていたように思えてゾッと背筋に悪寒が走った。いや、まさか。洛山の一年主将の能力じゃあるまいし。てかあいつも流石に自分の死期はわからんだろう。多分。出来ると言われたら信じてしまいそうな自分に目を背けながらパパッと段ボールに遺品を積めていく。
この状況に至っても顔を全く思い出すことができず、本棚の隅っこに押し込められていたアルバムに手が伸びた。高校の卒業式の写真で満開の桜の下で僅かに微笑む紅葉さんの顔に、ああそういえばこんな人だったっけなと少し感傷に浸った。でも、それだけで特に悲しみとか寂しさとか感じず片付けを再開させる。
粗方片付けも終わり、元々質素だった部屋が更にがらんと寂しさを増したところでドア横に掛かっていたバッグに手を伸ばした。この異様に生活感が薄い部屋で唯生活感が感じられたのがこれしかなかった。多分亡くなった日にこれを持って出掛けていたのだろう。肩にかけるタイプのバッグを手に取れば思ったよりずっしり重さを感じた。
女性の私物を漁る背徳感を感じながらも恐る恐るチャックを開く。財布にハンカチにエチケットセットに電車の定期。普通だった。身構えるのが無意味だったほど何にもなかった。しかし、一番底から丁寧に包装されたプレゼントが出てきた瞬間、俺に稲妻のごとき衝撃が走った。濃い青色の包みを水色のリボンで結んであるそれはどう見たって自分用ではない。ではこれは一体誰が……?脳内にサスペンス物のドラマのBGMが流れ出したが、取り敢えず横に置いてバッグ漁りを再開した。これはおばさんに見せるべきなのだろうか。現状では貰い物か渡す物かすらわからない。しかし開けるわけにもいかずどうしたものかと悩みながら一番外側のポケットに手を突っ込めば、指先に何かが当たった。
「あ、何か入っ、て……」
何も考えずに取り出したそれに、絶句した。
高校男子バスケットウインターカップ決勝戦入場チケット。
紛れもなく、俺たちが戦って日本一を掴み取ったあの試合の観戦券だった。
「な、なんで……」
くらりと頭が回るようなそんな感覚だった。見間違いじゃないかと何度もそれを見詰めるが、札より少し大きいそれはやっぱりあの試合のチケットでもう自分の目が信じられなくなった。
部屋からバスケ関連の物は一切出てこなかった。おばさんの様子から特別バスケに思入れがあるようにも見えなかった。誰かの付き添いという線もあったがそんななんとなく感覚で手に入るほどウインターカップ、特に決勝のチケットは安くない。全席指定で確か倍率は何十倍にもなったと聞いているし、何人もの友人がチケット競争に負けていたのを知っている。
じゃあなぜ紅葉さんはこんなものを。何のために?誰を見に?チケットを持つ手が震える。プリントされた座席は確か一番高い階の奥側という観戦には不向きな場所で、逆に言うなら選手に見つかりにくいところだった。
気付けばケータイで通話ボタンを押していた。
《……あ?伊月か?お前知り合いんとこに喪を服しに行ってんじゃなかったの……》
「悪い日向頼みがある。大至急決勝のときの写真を送ってくれないか。出来るだけ多く、特に観客席が映ってるやつ」
《写真って、どういうことだよ。しかも観客席って……》
「今は説明してる時間すら惜しい。頼む日向……一生の頼みだ」
ケータイの向こう側で日向が酷く狼狽えているのがわかったが、気にかけれるほど俺の精神状態は安定してなかった。少しの間が空いて、色々言いたいことをぐっと我慢したようにふぅと大きく息を吐いた日向は仕方ねぇなぁといつもの調子で返した。
《つっても俺もそこまで持ってねーから他の連中にも声掛けてみるわ》
「悪い。本当にありがとう……」
《特にどこらへんの席がいいとかあるか?》
「ああ、それはな……」
チケットの席を伝えれば《わかった。多分めっちゃメール来るだろうから覚悟しとけよ》とカラリと笑った日向に釣られて俺の頬も緩む。持つべきものは懐とツテが広い友人だ。戦国オタクだけど。
通話が切られても作業を続けられるほどの冷静さがなかった。口にたまった唾を飲み込んでつるつるしたチケットを何回も撫でた。そういえば、紅葉さんが亡くなったのは決勝戦の日だった。
最初のメールが届いてのは電話してから五分も経っていなかったが、体感時間的にはもう何時間も経ったように思えた。最初の送信者は黒子だった。『事情はよくわかりませんが、ただ事じゃないのはわかりましたのでキセキのメンバーにも声掛けさせてもらいました。メアドも勝手に教えました。すみません』と共に貼られていた写真をズームするが、チケットの席の反対側で、一応あの黒髪を探すが見つからなかった。次はリコからで同時に水戸部からも来た。皆俺を心配するようなメッセージと共にいつでも味方になるとエールを送ってくれて思わずジンと涙腺が弛みそうになる。何枚もの写真を目を皿にして隅から隅まで凝視するが、やはりどの写真も選手主体に撮られていて観客席は僅かにしか見えなかった。ただでさえ座席は最上階。全体写真ですら映るかどうか危うい場所で誠凛からの写真は全滅だった。しかし、落胆している間もなくぴろんと新しいメールは届いた。
『テツくんから聞きました!桐皇の桃井です!本当なら他校にデータを提供するのはご法度なんですけど、なんだか大変なことになってるそうなので写真ならいくらでもあげます!もっと欲しがったら言ってくださいね!』
『黄瀬っす!黒子っちから聞きましたよ〜!今知り合いのカメラマンに写真送ってくれるよう頼んでるんでちょっと待っててくださいっす!あ、お金とかは心配しなくても平気っすよ?知り合いのカメラマンさんとは昔から─』
『チース!秀徳の高尾でーす!写真なんですけど超適当に撮ったもんばかりなんでブレブレですけど笑ご参考程度にどうぞ!』
『いつもタイガがお世話になってるからね。ささやかなお礼みたいな物と思ってほしいな』
鳴り止まぬ着信音に誠凛の皆がどれだけ声掛けてくれたのかが見えたような気がした。俺は本当にいい仲間を持った。
「……ありがとう」
返信は後回しにして、一枚一枚丁寧に写真を確認していく。しかし、これだけの枚数が見つからない。やっぱりこれは何かの間違いだろうか。そう諦め掛けていたとき、暫く沈黙していたケータイが鳴った。
『この座席付近をズームアップしたときのテレビ映像があったので画像化しました。もしよければご活用ください』
赤司からだった。流石アイツやることがちげぇなと脳みそのどこかでそう思いながら震える指で画像を開いた。明瞭な画像解析度。ズームせずとも、その姿ははっきりわかった。
「もみじ、さ……」
ぴょんと跳ねる黒髪を左耳の下で緩く結われた女性の姿。すぐ脇に置いてあったアルバムと比較しても、間違いない。紅葉さんそのものだった。
白熱する試合に爆発のような歓声が脳内で甦るとき。冬の寒さを吹き飛ばす程の熱気に会場は包まれていた。
周囲の皆が興奮する中、一人少し前屈みで試合を見詰めている。茶色のダッフルコートは部屋に掛かっているそれと同じで、表情は険しいけれど何故か優しさを感じられて、その顔を見たし瞬間、遠い昔の記憶がよみがえった。
真っ赤な夕焼けに染まった公園。今の胸辺りより小さい俺があの小さなバスケットボールを両腕で抱き抱えて誰かと話していた。
『へぇ。バスケ始めたんだ』
紅葉さんだった。写真で見たときより少しだけ幼くて、うちの中学である黒いセーラー服を身に纏ってベンチに腰掛けていた。
『そーだよ!おれコーチにうまいって言われたんだ!』
『へぇー。シュートうまいんだ』
『シュートもうまいけど相手のボールとるのもできるんだ!』
『そりゃすごい』
『あとね、コーチにお前はクーカンハークノーリョクが高いって言われたんだけど、クーカンハークノーリョクって何?凄いの?』
『空間把握能力じゃね?えっと……チャンスを見逃さないというか、味方に貢献できる能力だよ』
やったことないからよく知らないけど。そう言って頬杖を付いた紅葉さん。なんとも適当な返事だったけど、当時の俺はバカだったから褒められたことしか頭になかった。
『ほんと!?俺すげー選手になれるかな!?』
『いっぱい練習すればね』
『よし!おれ日本一目指す!ういんたーかっぷってやつ!昨日テレビでやってたのに出る!』
『おー頑張れ頑張れ。競技人口クソヤバイけど。……流石黒バスの世界』
『?なんか言った?』
『ううん。なんにも』
にっこり笑われてはぐらかされた気がしたが、いつものことだった。紅葉さんは自分のことを話したりせず俺の話を聞くのに徹していた。そうだった。いくら頼み込んでも誕生日すら教えてくれなかった。それが当時の俺には許せなくて、そんなにも俺が嫌いなのかと一時期悩んだときもあった。でも紅葉さんは「お前は知る必要はないだけよ」とへらりと笑って頭を撫でるだけだった。悔しいけど、あの困ったように眉を下げて穏やかに微笑む表情に、俺は情けないぐらい弱かった。
『じゃ、じゃあさ!もしおれがぜんこく大会に出てけっしょーまで進んだらさ、なんかちょうだい!』
『は?プレゼント?』
『中身は任せるから!それと試合もちゃんと見にきてね!』
『えー…ルールわかんないから行っても意味ないと思うけど……』
『いーから!ぜったいだよ!指切り!』
指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます。
指切った。
『約束だよ!』
『………わかったよ。約束ね』
ああ、なんで忘れてたんだろう。
ポタポタと目から涙が溢れてチケットにポタリと落ちた。
そうだ。そうだった。約束してたじゃないか。何が他人だ、何が知らない人だ。馬鹿なのは俺だ。紅葉さんはずっと約束忘れないでくれてたのに。俺は、俺は。
「う、っうあ…、うあぁ……」
涙が止まらない。その場で踞ってよれたカーペットを爪で掻いた。
あの笑顔が好きだった。へにゃりと困ったように笑って、でも仕方ないなぁって許してくれたあの慈愛溢れた瞳がいとおしかった。初恋だった。ずっと好きだった。だから決めていたんだ。全国優勝したら告白しようって。今のままじゃ本気にされないのがわかってるから。本当に好きだった。なのに、なんで忘れてたんだ。
「っ、もみ……、もみじ、さ」
好きです。好きです。何よりも貴女が好きです。ずっと俺を見守ってくれた貴女が好きです。愛してます。本当に本当に、何度言っても伝わりきれないほど貴女に惚れていたのです。ずっと、ずっと側にいてほしいのです。好きです。紅葉さん。なんで死んじゃったんですか。なんで思い出させちゃったんですか。忘れていれば気付かなかったのに。忘れていなければ救えたかもしれないのに。ああ、俺はなんてバカなんだろう。紅葉さん。俺は。
嗚咽混じりの告白は誰にも届かない。
目を真っ赤にした降りてきた俺に気付いたおばさんは、俯いてどこかわかっていたように「そう。あの子は色んな人に愛されていたのね」と薄く微笑んだ。
その笑顔が、記憶のあの儚い笑顔と被ってまた泣きそうになった。
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