四つ足の獣の(自称)王様であられるアンと、そのお供であるこの私、なまえは絶賛捕らわれ中であった。

「大丈夫……アンのせいじゃないよ」
「あ、当たり前だ!この私が…………うう、くそぅ、違う……今回の件は完全に私のミスだ」

 いつもはピンと空を向いている耳も今はへにょりと垂れている。この小さな相棒と旅を続けてもう三年になるが、彼のこんな姿を見たのは初めてだった。
 慰めるように指先だけで眉間を撫でてやると、ふひゅう、と漏れたアンの鼻息で前髪が揺れた。

 改めて自分の姿を見下ろす。首と手首を一枚の板で固定され、足には懐かしの鎖が付いていて、修道服は破られ腿が見えている。
 初めて足首に拘束を付けられたあの日よりも、成長してしまった身体が男性にそういう目で見られることは何となく分かっていたけれど、こうしていざ自分の身に獣欲を向けられると困惑が勝ってしまう。
 当然操は無事だ。一度神に捧げたこの身体を、あんな汚い人間に与えられるわけもない。

「大丈夫だよアン。これぐらい何とも無いよ」
「うぐぐ、ええい、静かにしていろ……なまえの傷が増えたのは私のせいだ。必ず私が助けてやるから、お前は大人しくしていればいいのだ……」

 相変わらず項垂れた様子のアンは力なく言う。いつも尊大なアンにしては珍しい。こんな状況にもかかわらず、私はくすりと笑ってしまった。

「ふん、笑えるのなら笑うがいい。でも、お前がそうして笑っていられるのは悲しいことなのだからな。この馬鹿め。間抜けめ。あとで覚えておけ」

 空を飛ぶ元気も無くなったのだろう。先ほどまで懸命に私の顔に近づいていたアンは、鎖の重さに負けて地面へ落ちた。ガチャン、と鎖の音が無機質な部屋に響く。
 先ほどまで襲われていた私を守ってくれたのはアンだ。彼の膂力は当然のように人を凌ぎ、私に近づいた男を薙ぎ払っては吠え、ほとんど動けなかった私を守ってくれていた。青い毛の色が血で赤くなっても動くのを止めない彼を――商品を殺すことも出来ない人間達は諦めてこの部屋を去った。アンが弱るのを待つつもりなのだ。

 こうなったのも、決して彼のせいなんかではない。
 それを伝えたかったけれど、アン同様私も疲れていた。暴れたせいで首も手首も擦れて痛いし、久しぶりに熱も出ている気がする。石造りの冷たい壁に背中をつけて寄りかかると翼の付け根が痛んだが、ただ立っているよりも楽になった。
 座り込みたいけれど、首と手首を固定する木の板は別の鎖によって壁と繋がっている。ただただ不快だが、少なくともアンの体調が戻るまでは大人しくしていなければ。

 恐怖は無い。ただ、漠然と疲れがあった。
 まただ。また、騙された。今度は温和な顔つきの、恰幅の良い商人の男だった。

 ”天使の居た島”を知っている、”神に誓う”、と言ったから、男の招待に応じたのに。
 実際男は私とアンを歓待してくれた。食事が終わるその時まで、本当に男は使用人に慕われ、妻子に尊敬され、街でも悪評の無い善良な商人だった。

(わぁ、おいしそうですね)
(そうでしょう、そうでしょう。島でとれる様々な果物をお持ちしました。折角こうして来ていただけたのです、日々の蓄財を天使様への貢ぎ物に使わずしていつ使いましょうか)
(そんな、申し訳ないことです)
(良いのです!これは私が好きでやっていること。ささ、お連れの……お犬?様にもどうぞどうぞ)
(彼は私の相棒で、えー……え?……(自称)四つ足の獣の王であらせられます)
(なんと!獣の王とは! 獣王様、どうぞこちらの肉を献上させてくださいませ。ははは、気に入っていただけたようで!)

 陽気に笑う商人の男に勧められ、アンはあれもこれもと食べた。賢い彼は当然人間の言葉が分かるし、情緒も深いので煽てられれば気分も良くなる。そんな彼に釣られるように私も食事を頂いた。
 そう、痺れ薬入りの食事を。

「ああ。くそ。この私が……まさか酒に酔うなどと」

 石畳に突っ伏してぶつぶつと呟くアンは不満気に尾を揺らしている。彼に付けられた鎖と枷は私のものに比べて何倍も厚く重そうだったが、重さはさして問題ではないらしい。初めて飲んだ酒の酩酊感と、普段は効かないはずの薬にしてやられた後悔によって彼は地面に伏せていた。アンの身体に付いた血の殆どが返り血だった。
 三方を石で囲われ、唯一廊下に面している壁は鉄格子。奴隷用の首輪がハマっていないだけマシだけれど、現状を打破するには何が必要か。漠然とした願いにかけられるコストを今の私たちは持っていない。

 神への供物に出来るのは自分自身だけ。当然、髪の毛や爪のようにいくらでも生えてくる物は対価としては安いものに当たる。願いが抽象的であればあるほど、それに必要なコストは当然上がる。
 アンは私と会話が出来るようになって初めてそう教えてくれた。彼は神が使わせた獣だった。

 冷たい石が体温を奪っていくことを感じながら、私は静かに目を閉じる。このままでは私だけでなく、アンまで傷つけられてしまうかもしれない。せめてアンだけでも、と考えたところで、アンの唸り声に瞼を押し上げた。

「なまえ、余計なことはするなよ。お前、まだ、加護を切ってないだろう」
「……うん」
「一人分くらい切れ。それで十分お前の体調は戻るかもしれんぞ」
「やだ」

 少しの沈黙。獣であるのに、アンは正しくため息をついた。そんな彼の姿に苦笑いして、幼い姿の弟達が瞼の裏に描くと、彼らはニコニコと笑って私に手を振っていた。その後ろには淡い光が輝いている。
 弟たちと別れて四年以上が経った。私はもう十五歳で、すっかり大人と大差ない姿になっている。つまり、彼らももうあの時の姿のままではないということだ。
 どれくらい成長したのか分からないけれど、私はお節介にも、彼らへ祈ったあの加護を願い続けていた。

 私に出来るのはこれくらいなのだし、アンに何を言われようと折れる気はない。それが分かったのだろうアンは、表情豊かに私を睨むと前足で器用に自分の頭を抱えた。彼は自分が恐ろしい様相の獣だと思っているようだけれど、そうした姿はサイズ感も相まって非常に愛らしい。
 それを告げれば怒られるので決して言わないけれど。ほんわかした気持ちを隠しアンを見つめると、アンは再度ため息をついて口を開いた。

「……はぁぁ。 仕方がない、お前は祈るなよ。この私が祈るのだからな。 神よ、我が――」
  ガシャーン!!!

 突然の轟音にアンの言葉が遮られる。目を見開き、その身体を起こしたアンは私を守るように鉄格子に向かって鼻先を向けた。
 壊されたであろう石作りの壁の隙間から、音に遅れて土埃が舞い上がりこの独房へ流れ込んでくる。鼻に皺を寄せ唸るアン。私も同じく、ただじっと壁の向こう……侵入者と思わしき誰かを睨みつけた。

「あっ!」

 煙をかき分けてきたのは、大きな影。私やアンからしたら、ほとんどの生き物が大きいこの海では珍しいことでは無い。が、その影は私たちを視認すると、何とも間の抜けた声を上げてその指先をこちらに向けた。

「て、天使だ!本当に居た!!キャプテーン、本当に居たよ!!」

「……ぐるるる。 なんだこいつは。ミンク族か?ただの熊か?」
「ただの熊は喋らない、んじゃないかな」
「ならミンクだな。この私を知っており、かつキャプテンを呼ぶのなら、賊か!」

 恐らくかの熊が言っている天使は私を指している。けれど当然のように自分が天使だと思っているアンに突っ込むことも面倒なのでしない。私はいかにも真面目くさった顔をして頷いた。

「キャープーテーン!こっちこっち」
「ったくうるせェぞべポ!今行くから大声出すな!!」
「うっ、声がデカくてすいません……ってシャチのが声大きいだろー!!」
「お前らどっちもうるせェ……バラされたく無ければ間合いから抜けろ」
「えっ」

 わいわいがやがや。何人いるのか、男たちの声が騒がしく聞こえた時には土埃は下に落ちて、私にも壁の向こうが見えていた。ぎゃー!と叫び声が聞こえたかと思えば、薄青色の透明な壁が……膜と言っても過言ではないそれが壁を越えアンを超え、私を超えて通りすぎる。
 一閃。

 アンが吠えた。

「貴様ァ!!この私の!!翼を!!!」

 壁越しにもかかわらず、石を切り鉄格子を切り、私の前に居たアンの翼の先端が一刀のものに切り捨てられる。一瞬の判断で避けたのだろう、切られたのは羽の数枚だけだが、はらりと舞ったそれが地面に落ちる前に、四足の獣は切断された鎖を引きずり侵入者へと飛び掛かっていた。
 なまえの瞬き一つの間のことだ。

 脳みそが現状を理解する前にアンの小さな顎が牙を剥いて、侵入者の首を――と思えば、白熊が背の高い男の前に出て、そのままアンの身体を横から殴り飛ばす。が、獣は咄嗟にそのツナギで覆われた腕に牙を強く食い込ませ、吹き飛ばされるの防いだ。中型犬ほどの大きさの彼は”空中”で踏ん張るとそのまま腕の持ち主を投げ飛ばす。
 轟音と共に白熊が石壁に突っ込むのを確認せず再度アンが侵入者の男へ向かい空を駆けた。

「この!!この、私を!!鎖に繋ぐに飽き足らず!!人間ごときが!!」
「アン!だめ!!」

 完全に頭に血が上っている!
 彼を止めようと前傾したが、ガチン、と鈍い音と共に身体が壁近くに戻された。アンは身体中の毛を逆立てて再度咆哮する。ただの獣のように牙を剥き涎を撒き散らしながら男に噛みつこうとして――

「躾のなってねェ犬だ」

 ――アンの首が、落ちた。

「―― ぁ」

 恐ろしい形相のまま、首が落ちて瓦礫の上で跳ねる。身体はしばらく浮遊していたかと思えば、ぐらりとバランスを崩して壁にぶつかり、そのまま地面に倒れた。
 侵入者はそれを目にも追わず私を見る。背の高い男の手には、同じく刀身の長い刀が。
 いいやそんなことはどうでもいい。
 アン。

「あ……」
「これが天使か?まぁ、見てくれだけなら確かにそう見えてもおかしくはねェな」
「あん……」

 口が閉じられない。ふつりふつりと身体の奥から湧き上がるのは、何だ。これは何の感情だ。

「――か、みさま 」

 地面が揺れている。私は今何を願うべきだ。アンの蘇生?男の排除?拘束を解いて貰う?幸運を祈る?
 なんだ。何をすればいい。グラリと世界が揺れ、腸が煮えくりかえるようだ。

「きゃ、キャプテン、いきなりすぎますってェ。天使ちゃん、可哀相に絶句してんじゃないッスか」
「あ? 噛みつきに来た犬を切って何が悪い」
「ごほっ、ごほっ、うわぁ、やられちゃった。そいつめっちゃ力強い!」
「ベポ、腕は」
「折れたぁ……」

 侵入者の男は、小さな小さなアンの頭を鷲掴みすると、私に見えるようにして持ち上げた。
 揺れる。私の身体は震えている。これは何の感情だ。何と言う名前の感情だ。これを捧げるには名前がいる。これはなんだ。腹の底から湧いて出るこれは。

 瓦礫から出てきた白熊も、不思議と慌てているツナギの男も、帽子を目深に被っている侵入者も、私達を騙した人間も、全て全て。

「――」

 視界が赤く染まった。

「なまえ!!ダメだ!やめろ!!」

 弾かれるように私は口を閉じる。
 男の手にあるアンの頭が動いていた。どういう――

「――お前、アンの身体を使っているの? 神の意志に反して? 魂の無い身体を、弄んでいるの?」

 ギョロリ。見開かれた目玉が男を見据えた。ガラス玉のように丸い、きらりと光るその目玉の奥に、燃えあがるような黒い炎が巻かれているのを、侵入者、トラファルガー・ローは確かに見た。そして彼の目もまた見開かれる。白い翼を持つ、最早修道服とは言えないほど乱された服を纏った女の――天使と呼ばれたその女の、足元が触れている地面が、少しずつ黒く濁って朽ちていくのだ。
 手の平の中の獣が甲高い声で鳴く。大きく鳴いたその声に女はもう反応しない。
 暴れている獣の身体をベポが慌てて持ってきて、許可もしていないのにローの手からその生首を取り上げた。

「キャプテンごめん!」
「おま、」

 青い毛の獣が人間のように何事か呟く。ローにとっては獣の鳴き声でしかないそれもベポには違うようで、彼は折れていない方の手でローを抱えると、「ごめんキャプテン!でも、これ、ダメだ!」と叫び後ろへ跳んだ。
 何がどうなっているのか分からないが女から発せられるあまりにも異様な気配に眉根を寄せる。ローの後ろで慌てるシャチや、騒ぎに駆けつけてきたペンギン。困惑しながら片腕でローに抱き着くベポ。
 そして、翼のある獣が吠えたかと思えば、女は拘束もそのままに全身の力を抜いた。違う。気を失っただけだ。気づけば彼女の翼も輝かんばかりの白に戻っている。

 なんだったんだ今のは。一体あの女に何が出来たというのか。ローは一瞬考え、やめた。今はとにかく、女の拘束を切らなければそのまま窒息して死ぬだろうことが分かったからだ。
 一応天使を目的としてこの屋敷を襲ったローにとって、今回の襲撃が無駄になる方が問題だった。

「おい、天使屋の犬。言葉は分かるな。俺は医者だ。そいつを助けてェなら言うことを聞け。暴れたらその女は死ぬだけだ」
「……フン、ぎゃうぎゃう」
「聞いてやらんでもないから早く動け、だって」
「あ?俺に命令するな……と言いたいところだが、チッ。おらどけ、死ぬぞ」

 木の板を叩き割り、崩れ落ちた女の身体を持ち上げる。翼の分だけ重いのかと思えばそんなことはない。シャチとペンギンがベポに「お前腕ェ!!接ぎ木ィ!!」「うう、さっき止めたの、キャプテン怒ってるかなぁ」「なんだなんだ。何があったんだ?」と、詰め寄っているのを背中で聞きながら女の容体をザっと確認する。
 獣は静かに、けれど警戒はそのままにローを見つめ、彼の腕の中に居る天使に向かい何事かを言うと、そのまま彼の後を追ってくるのだった。

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