無表情のマスクに僅かな色が乗ったのを見て、アンは静かに胸を撫でおろした。
 にわかに騒がしくなった室内ではなまえが顔を赤くして、目が溶けそうな程涙を流しながら男と白熊にじっとりとした視線を向けている。あれだけ顔色が優れているのならきっと身体も大丈夫だろう。
 全く、心配をかけさせる……前回は己の失態から招いたことではあったけれど、それ以外はあの間抜けななまえが人間を簡単に信じたから起こった面倒ばかりだ。
 今回も、きっと同じようになるだろう。それでいい。それがいい。
 この私が居るのだから、それぐらいで調度良いのだ。

 青い毛の獣は一つ息を吐いて、自分をベッドから落とした不届きものに蹴りを入れるべく地面を蹴った。

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「あのなァ、俺は医者だ! そもそもお前の裸なんぞ治療中に嫌でも見てる!その貧相な身体でよくもまァそこまで騒げるな」
「うぅ、へ、変態ドクター……!!」
「あ? 今すぐテメェをバラバラにしてやっても良いんだぞ」
「性犯罪だけでなく猟奇殺人まで……!?」
「よーし気を楽にしろ、今すぐ望みどおりにしてやる!!」

 売り言葉に買い言葉。少し違うが、そんな状況。静かだった病室は混沌としていた。

「ええい!!うるさいぞお前ら!!特になまえ、この私を転げ落としておいて詫びの一つも無いとはどういうことだ!」
「きゃあ!? い、痛いよアン……!ごめん、ごめんなさい。でも、待って、シーツが脱げるから……!」
「あ、そうだキャプテン、黒電伝虫が海軍船の電波をキャッチしたんだ。距離が近いから潜った方がいいかもってペンギンが」
「チッ、鬼哭は隣か。 仕方ねぇ、命拾いしたな天使屋。ベポ、こいつらを見とけ」

「ぐすっ、うぇ、今海軍って言いましたか?あれ、じゃあこの船って」

 目を擦り、ベポと呼ばれた白熊を見上げる。愛嬌のある顔が殊更可愛らしく、にっこりと笑った。
 アンは怒りが収まらないのか人のズボンをガシガシと噛み始めるし、キャプテンと呼ばれた男はとっくに部屋から出てここにはいない。彼らの会話から、何となく自分の現状は理解出来たけれど、もうどうしようもない。

 とにかく今は服が欲しい。長い髪がさらりと肩から落ち首元をくすぐった。そうだ、ベールだって無くなっている。前来ていた服はきっとボロボロになってしまったのだろうから、修道服が良い等と贅沢は言わないので上着が欲しかった。全ての思考はそれからだ。

「ベポ、くん?」
「なんだ? お前、なまえっていうんだろ。アンから聞いた!災難だったけど、傷、治して貰えて良かったな!」
「……ありがとう。 あの、何か服を貸して貰えませんか?出来れば背中に穴をあけても良いものを……」

 彼の陽気な態度に安心して、私はアンを抱き上げながら言った。ベポくんはう〜ん、と一度首を傾げたけれど、私の惨状を見て哀れに思ったのか、眉を下げ、良いよ。と言った。

「でもおれ、お前のこと見張ってないとだからさ、一緒に来てもらってもいいか?」
「う……分かりました。あの、シーツは持ってっても……」
「良いよ!それ無いとシャチ辺りが騒ぎそうだし!」
「フン、私は此処に残る。私は眠いのだ」
「アンはなまえが寝てる間ずっと起きてたもんな〜。この部屋から出ないでくれよ!」

 ミンク族のことは知っていたけれど、アンの言葉が分かるのか。ベポはアンの頭を肉球の付いた手で優しくぽんぽんと叩いた。妙に親し気な彼らを見て驚く。この二人――二匹?はお互い敵対していなかったか。眠っている間に何かがあったのだろうと推測出来るが、普段のアンの姿を知る私には何があればこうなるのか想像もつかない。
 アンは私の腕から抜け出すと、ふわりと浮いてベッドに着地。大きくあくびをした。

 シーツを手繰り寄せ簡単に上半身を隠すと、私もベポ同様、ベッドで丸まったアンに近づきそっと耳の後ろを撫でた。

「アン、心配かけて、ごめんね」
「……フン、早く行け。布団が変わると寝つきが悪い」

 人を布団扱いする彼に苦笑いし、もう一度頭を撫でてからベポと扉の外に出た。

 船内は清潔だった。通路は天井がそこそこ高く、私が翼を広げても十分なスペースがあって、”海賊船”に見られる血や油や、酒の汚れ等は無い。無機質さを感じる道をベポの背中を追いかけ進むと、急にベポが立ち止まった。
 彼は振り返ると、何だか困ったような顔をして私を見つめ、前足を顎の前に持っていく。愛らしいポーズに見えるが、彼は至って真面目なようだ。

「なまえ、歩くの遅いね」
「えっ、そう、かな?」

 身長の問題かと思ったが、確かに、海賊船に乗っているのは殆ど男性だろうから、ベポからしたらそうなるかもしれない。特にあのキャプテンは身長が高かった。駆け足で彼に近寄ると、ベポは思いついた!と言ったように手を打つ。 今度は私が困った顔をすることになった。
 柔らかい毛に包まれた腕で、ベポは私を抱き上げたのだ。片腕に抱えられるようにして彼は私を持ち上げると、その耳をぱたぱたと動かし、「これで早いね!」と通路を進みだす。

 なるほど、このスピードで普段から動いていたのなら私の歩みは陸上の亀と思えただろう。
 取り立てて急いでいるようには見えないのに、ずんずんと進む速度は私のおよそ二倍以上はある。
 シーツをしっかりと握りしめ身体を隠しつつ、もう片方の手で彼の頭の後ろの毛を握った。痛くない様に優しく掴んでいるだけではあるが、気遣ってくれているのだろう、私の身体はそこまで揺れることなく安定して彼の腕の中に納まっている。ベポは時折鼻を動かしつつ進み、くるりと先ほどよりも近づいた顔を私に向けた。

「なんか……フンフン、なまえって良い匂いするな」
「良い匂い?」
「おう。なんか、甘い匂い……?あー、甘いもの食べたくなってきた!」
「なんだろう、果物ばかり食べてるからかな」

 そうなの?とベポは朗らかに笑う。手のひらや自身の肩口に鼻を近づけ匂いを嗅いでみるけれど、消毒液の匂いと仄かに獣の匂いがするだけで、けっして良い匂いなどしない。白熊である彼と私では嗅覚に差があるのだろうが、こうして言われると妙に恥ずかしかった。
 誰ともすれ違わず通路を曲がり、階段を上り、時折思い出したかのようにUターンして回り道をする。ベポに運ばれている間、彼は様々な話をしてくれた。

 キャプテンと呼ばれていた男はトラファルガー・ローという名前で、彼らの船長だということ。
 ベポは航海士で、沢山勉強をしたこと。ローは医者でとても頭が良いこと。アンは私の治療中、ずっとローを睨んで目を離さなかったこと。ハートの海賊団はグランドラインに来たばかりだということ。

 彼の話は、彼の部屋についても終わらなかった。ベポの昔のTシャツを貸して貰ったけれど、昔のものと言いつつ随分と私には大きい。それの背中に器用に穴をあけてくれている時も、私がそれを着ている時も、彼は敬愛しているローの話をしてくれた。
 首回りが少し開いているが、大きめのワンピースと思えば十分見れる姿になった。律儀に後ろを向いてくれていた彼に向き直り、微笑む。

「ありがとう、ベポくん。 ベポくんって、本当にローさんのことが好きなのね」
「どういたしまして! 当たり前だろ、キャプテンは本当に凄いんだ」

 心の内よりそう思っているであろう彼を見ていると、どうにも胸が暖かくなった。片手で口元を抑え、ひきつる口角を揉む。どうしてか、上手く、笑えない。

 ……ロー、さん。再度会えたら、その後どういう扱いをされようと、しっかりお礼をしよう。彼は"死者の蘇生"……もしくはそれに準ずるものを探しているんだったか。そう脳内にメモをして、私はベポくんに近付いた。

「あ、お腹減ってない?食堂行こう!」

 そうしてまたベポは私をひょいと持ち上げると、頭を打たない様屈んで扉をくぐる。
 今思い出しました、と言わんばかりの倦怠感を身体に感じながら、私はふかふかとした毛並みに埋もれ苦笑いをした。

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