6
これは病気ではなく、持って生まれた物なのだと言えたならどんなに良いだろうか。
「天使屋。そこに寝ろ」
簡易ベッドを前にして、私は私を見捨てたアンに恨み言を言いたい気分だった。
+
『良いかなまえ、神の力を海賊に話すなよ』
鼻と鼻がくっつく。湿った鼻は私を濡らしたけれど、アンはむしろ念を押すようにぐいぐいと私に近づいてそう言った。獣の鳴き声も無い。アンテナを使った、世界で私とアンと、神様にしかできない会話だ。
『分かってるよ』
『本当か?ほんっとうに分かっているか?』
『わ、分かってるってば。これまで誰かに言ったこと、無いでしょう?』
『それはこの私が目を光らせていたからだ』
「ええ……?」
思わず声に出してしまい、アンにぎろりと睨まれる。腰掛けていたベッドからそっと視線を扉に向けたけれど、そこに人の気配はしなかった。
自分たちに宛てがわれた部屋は、ベポくんの隣の小さな物置のような場所だった。埃も無く清潔なものだが、狭いその部屋には小さな簡易ベッドとテーブルが置かれているだけで、あとは良く分からない機材が辺りを埋めている。
そんな小さな部屋にもきっと見張りはいるのだろう。もしかしたら、ベポ自身がそうかもしれない。けれどアンの言葉はミンクであるベポにしか分からないし、そもそも私もアンも、お互いだけで話すなら言葉を外に出す必要はない。
身体を少し離せば、小型の猫のような彼はその柔軟な体で私の胸元へ身体を擦り付けて、その固い翼の骨で私をバシバシと叩く。痛みに耐えながら眉間を人差し指で掻いてやれば、彼は満足そうに私の腕の中に納まった。
アンの主張は微妙に納得がいかないけれど、彼の言葉に抵抗したところでやり込められるのは分かっている。押しの弱い私は曖昧に肩を竦めるだけに留めた。代わりというように、私は兼ねてからの疑問を彼に飛ばす。
『そういえばアン、この船から逃げようとは言わないよね。此処の人たちは平気なの?』
『ぐるる……一宿一飯の恩というやつだ。それにあの白熊は私の管轄と言えなくもない』
『その自称獣の王様って、神様に怒られない?』
『神はこの程度の戯れお気になさらん』
フン、と鼻を鳴らしアンはくるりと身体を丸める。翼を布団のようにして、彼は器用にも空中で横になった。
『私は良いのだ。どうにでもなる。問題はお前だけ』
『言わないってば。そりゃあ、この間の料理は少し量を失敗しちゃったけど……』
『”ちょっと”?』
『……弟達は、あれぐらい食べるもの』
視線を逸らす。獣の世界では敗北を認める行為だ。アンは呆れたように私を見て、重力に逆らうことをやめ布団へと落ちた。それからあくびをすると、『とにかく、あの海賊だか医者だかに言うなよ。なまえは神父やシスターや、医者に弱い』と言って瞳を閉じた。いつも一緒に付いてきてくれていたのに、今日は来てくれないらしい。
それも仕方ないことか、と自分を納得させてベッドから離れる。まだ子供と言っていいアンはよく眠るのだ。今まで夜に起きて、付いてきてくれていたことの方が珍しい。
彼の成長した姿を示唆するように太い足の、ふにふにとした肉球を軽く撫でてから、名残惜しくそれを離し私は部屋を出た。
この船でお世話になるようになってから日課になりつつある、検査の時間だった。
+
どうやっているのかは分からないけれど、お手軽に翼を身体から離され心細くなり眉が下がる。そんな私を置いてローさんは「早くしろ」と私を急かした。
ああ、神様。抵抗できない私をお許し下さい。いや、抵抗したんですよ。とってもしてるんです。でも、医者は患者を診るものだと言われてしまうと、どうにも弱くて。……あと顔が怖いんです、このお医者様……。
固い身体を自覚しながら診療用のベッドに仰向けになる。ローさんは手からまた青い膜をドーム状に作成し首を傾げたり、ぶつぶつと何かを小声で言う。医療用語なのか、私には理解が出来ないものが大半だった。
「天使屋。お前そもそも年齢は?」
「十四、です」
「見た目通りだな。血液型は?」
「えっと……ABです」
「は?」
ひぃ。もう帽子は被っていないはずなのに彼の目元を陰が隠す。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。神様に聞いたことは無いけれど、恐らく、そうだった。翼を得る前の記憶は酷く曖昧だけれど、確かにそうだった、気がする。
「ABなんて型はねェ。どこで調べた」
「えっ!? え、あの、こ、今生では調べて、無いです」
「あ?今生?……まァ良い。調べるぞ」
「!? な、何でですか!? 外科手術は必要としていません!」
「お前の身体はどう見ても他人より抗体が足りていない。どうにも異常は見えないが、外傷の治る速さにも明らかにムラがあるし、次大怪我した時にその速さが適用されるかも分からない。で、あれば血液を採取して調べておくのも当然だ。何より――」
ローは言葉を止め、寝転がる私を見下ろし悪い笑顔を見せた。
「ーー背に羽のある種族なぞ、滅多に調べられねぇからな」
「す、すっごく私欲!!わ、私を心配してくださってるのかとばっかり……!」
なんで俺がお前の心配をするんだ。と素っ気なく返したローさんに、すっかり私は力を抜かれていた。
いや、まぁ、そうですけど。でも熱心に治療や体調を管理してくださろうとしていたから、私はてっきり。そう考えて、ゴミ山にいた唯一のお医者様を思い出し口元が緩んだ。顔を隠し笑った私をローさんは怪訝そうに見てから採血の器具をサイドテーブルに置いた。
「昔、貴方みたいなお医者様に診て貰ったこと、あります」
「そうか。腕出せ」
二の腕にぐるりとゴムで出来たチューブが締められる。わにクリップで先端を止めると、彼は私の肘裏をアルコールで拭った。何故だか妙に、ローさんへと親近感が湧いていた。
子供のころ。あの治療院では輸血なんて出来ないし、あの山で過ごしている人の大半は自分の血液型なんて知らなかった。私もドクも、外科手術に関してはまるで門外漢なのに、来るのは外傷の人だらけ。
いつからかドクは怒りながらも患者さんの持ってきた本を使って、「この天才に出来ぬことなぞあるか!」と外科にまで手を出しては「本職は薬師だぞ俺は!!」と頭を抱えていた彼の姿を思い出す。
「ふふ……とっても凄いお医者様だったんですが、うっかり屋さんだったんですよ。腹痛を治す代わりに、”死ぬほど”発疹が出る薬を患者様に使おうとして、発疹の解毒薬を渡し忘れてしまうような人で」
「…………そうか。親指を内側に入れて握れ」
ローの言う通りにする。青く見える血管へ針が刺さるのを静かに見つめた。指先が冷えるようだ。
「それで、私、そのお医者様のお手伝いをさせて頂いていたんです。本当に汚い場所だったから、注射器なんて人の身体に入れられなくて……」
「力抜け。あと一本取るぞ」
頷いて、手をゆっくりと開いた。針から流れていく血は当然だけれど赤い。ドクドクとシリンダーへ流れていく血液から目を離さず、けれど私は過去のあのゴミ山を見ていた。
「もし、私の故郷に……ローさんのようなお医者様が居たら、きっと、」
「……」
「きっと、沢山の人を助けられたでしょう。あ、でも、酷いところだったから、高街に行ってしまっていたかしら」
「……」
「私もドクからお薬のことや簡単な怪我の手当は教えて頂いたのですけれど、自分のことで手一杯で……全然身にならなくて」
彼は相槌も打たずに注射針を抜いて、腕にガーゼを押し当てた。抑えていろ、と一言告げてシリンダーと共に部屋を出る。私は簡易ベッドに置き去りだ。先ほど感じていた親近感が空気に霧散していくのを感じて、私はため息をついた。貧血というほどでも無いけれど、頭がくらくらしていた。
数分して、ローさんは部屋に帰ってきた。彼は横たわる私に視線をやると、手に持っていた御盆を採血道具の無いサイドテーブルに置いて、その上にあるマグカップを私に差し出す。
「飲め」
暖かそうな湯気が出ていて、甘い香りがする。ココアだ。上半身を起こして肘を抑えていない方の手でそれを受け取った。困惑気に彼を見上げると、ローさんは首に手を当て少し困惑したように続ける。
「悪かったな。そんなに緊張するとは、思っていなかった」
「……!」
緊張。していたのだろうか。私は。
よく回っていた口は、緊張から来ていたのか。妙に納得して口を閉ざす。
自覚してしまえば、今度は恐怖がお腹の奥でとぐろを巻いたのが分かった。ずるりずるりと這い上がってくるそれは背筋を泡立たせ、身体の末端に毒を吐く。いや、違う。そんな気がするだけだ。そんなことはあり得ない。恐怖なんて、感じるはずが無い。
受け取ったココアのマグカップが重くて、それをそっと膝に置いた。
「……なんも入っちゃいねェ」
ローさんは私の手首を掴むと、私の手ごとマグカップを持ち上げ口を付ける。近づいた顔にドキリとする間も無く彼はココアを一口飲んで離れた。
「飲んどけ」
あっっま。と舌を出して、彼は自分用のコーヒーへ口を付けた。私はそれを見て、自分のマグを見て、瞬く。
一瞬、私とアンを騙した数々の人間の顔が巡ってたけれど、此処までして貰って置きながら飲まないという選択肢は私には無かった。
そっと彼の口が付いた部分を指で拭ってから、同じ場所に口を付け中身を傾ける。
「……甘い」
「ああ。シャチの野郎が張り切って馬鹿みたいに砂糖入れてたからな」
「……思ったなら、止めて、ください」
「もし次があればな」
俯いた私の頭に、大きな手の平が乗る。いつもに比べて酷く優しい彼の手は、私の髪の毛を軽く撫でるとすぐに離れた。
「それ飲んだら戻れ。それからすぐ寝ろ」
はい、と声に出せたか分からない。涙など出ないし、感情だってもうほとんどないはずだ。だって、それらは神に捧げたものだから。私が感じるはずの無いものだ。私は心を捧げたのだ。神様に。私の、私達の神様に。
なのに、何故か彼らへ期待してしまっている自分がいる。
早くこの船から出たい。私は、わたしは。
私は天使なんかじゃ無い。
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「天使屋。そこに寝ろ」
簡易ベッドを前にして、私は私を見捨てたアンに恨み言を言いたい気分だった。
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『良いかなまえ、神の力を海賊に話すなよ』
鼻と鼻がくっつく。湿った鼻は私を濡らしたけれど、アンはむしろ念を押すようにぐいぐいと私に近づいてそう言った。獣の鳴き声も無い。アンテナを使った、世界で私とアンと、神様にしかできない会話だ。
『分かってるよ』
『本当か?ほんっとうに分かっているか?』
『わ、分かってるってば。これまで誰かに言ったこと、無いでしょう?』
『それはこの私が目を光らせていたからだ』
「ええ……?」
思わず声に出してしまい、アンにぎろりと睨まれる。腰掛けていたベッドからそっと視線を扉に向けたけれど、そこに人の気配はしなかった。
自分たちに宛てがわれた部屋は、ベポくんの隣の小さな物置のような場所だった。埃も無く清潔なものだが、狭いその部屋には小さな簡易ベッドとテーブルが置かれているだけで、あとは良く分からない機材が辺りを埋めている。
そんな小さな部屋にもきっと見張りはいるのだろう。もしかしたら、ベポ自身がそうかもしれない。けれどアンの言葉はミンクであるベポにしか分からないし、そもそも私もアンも、お互いだけで話すなら言葉を外に出す必要はない。
身体を少し離せば、小型の猫のような彼はその柔軟な体で私の胸元へ身体を擦り付けて、その固い翼の骨で私をバシバシと叩く。痛みに耐えながら眉間を人差し指で掻いてやれば、彼は満足そうに私の腕の中に納まった。
アンの主張は微妙に納得がいかないけれど、彼の言葉に抵抗したところでやり込められるのは分かっている。押しの弱い私は曖昧に肩を竦めるだけに留めた。代わりというように、私は兼ねてからの疑問を彼に飛ばす。
『そういえばアン、この船から逃げようとは言わないよね。此処の人たちは平気なの?』
『ぐるる……一宿一飯の恩というやつだ。それにあの白熊は私の管轄と言えなくもない』
『その自称獣の王様って、神様に怒られない?』
『神はこの程度の戯れお気になさらん』
フン、と鼻を鳴らしアンはくるりと身体を丸める。翼を布団のようにして、彼は器用にも空中で横になった。
『私は良いのだ。どうにでもなる。問題はお前だけ』
『言わないってば。そりゃあ、この間の料理は少し量を失敗しちゃったけど……』
『”ちょっと”?』
『……弟達は、あれぐらい食べるもの』
視線を逸らす。獣の世界では敗北を認める行為だ。アンは呆れたように私を見て、重力に逆らうことをやめ布団へと落ちた。それからあくびをすると、『とにかく、あの海賊だか医者だかに言うなよ。なまえは神父やシスターや、医者に弱い』と言って瞳を閉じた。いつも一緒に付いてきてくれていたのに、今日は来てくれないらしい。
それも仕方ないことか、と自分を納得させてベッドから離れる。まだ子供と言っていいアンはよく眠るのだ。今まで夜に起きて、付いてきてくれていたことの方が珍しい。
彼の成長した姿を示唆するように太い足の、ふにふにとした肉球を軽く撫でてから、名残惜しくそれを離し私は部屋を出た。
この船でお世話になるようになってから日課になりつつある、検査の時間だった。
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どうやっているのかは分からないけれど、お手軽に翼を身体から離され心細くなり眉が下がる。そんな私を置いてローさんは「早くしろ」と私を急かした。
ああ、神様。抵抗できない私をお許し下さい。いや、抵抗したんですよ。とってもしてるんです。でも、医者は患者を診るものだと言われてしまうと、どうにも弱くて。……あと顔が怖いんです、このお医者様……。
固い身体を自覚しながら診療用のベッドに仰向けになる。ローさんは手からまた青い膜をドーム状に作成し首を傾げたり、ぶつぶつと何かを小声で言う。医療用語なのか、私には理解が出来ないものが大半だった。
「天使屋。お前そもそも年齢は?」
「十四、です」
「見た目通りだな。血液型は?」
「えっと……ABです」
「は?」
ひぃ。もう帽子は被っていないはずなのに彼の目元を陰が隠す。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。神様に聞いたことは無いけれど、恐らく、そうだった。翼を得る前の記憶は酷く曖昧だけれど、確かにそうだった、気がする。
「ABなんて型はねェ。どこで調べた」
「えっ!? え、あの、こ、今生では調べて、無いです」
「あ?今生?……まァ良い。調べるぞ」
「!? な、何でですか!? 外科手術は必要としていません!」
「お前の身体はどう見ても他人より抗体が足りていない。どうにも異常は見えないが、外傷の治る速さにも明らかにムラがあるし、次大怪我した時にその速さが適用されるかも分からない。で、あれば血液を採取して調べておくのも当然だ。何より――」
ローは言葉を止め、寝転がる私を見下ろし悪い笑顔を見せた。
「ーー背に羽のある種族なぞ、滅多に調べられねぇからな」
「す、すっごく私欲!!わ、私を心配してくださってるのかとばっかり……!」
なんで俺がお前の心配をするんだ。と素っ気なく返したローさんに、すっかり私は力を抜かれていた。
いや、まぁ、そうですけど。でも熱心に治療や体調を管理してくださろうとしていたから、私はてっきり。そう考えて、ゴミ山にいた唯一のお医者様を思い出し口元が緩んだ。顔を隠し笑った私をローさんは怪訝そうに見てから採血の器具をサイドテーブルに置いた。
「昔、貴方みたいなお医者様に診て貰ったこと、あります」
「そうか。腕出せ」
二の腕にぐるりとゴムで出来たチューブが締められる。わにクリップで先端を止めると、彼は私の肘裏をアルコールで拭った。何故だか妙に、ローさんへと親近感が湧いていた。
子供のころ。あの治療院では輸血なんて出来ないし、あの山で過ごしている人の大半は自分の血液型なんて知らなかった。私もドクも、外科手術に関してはまるで門外漢なのに、来るのは外傷の人だらけ。
いつからかドクは怒りながらも患者さんの持ってきた本を使って、「この天才に出来ぬことなぞあるか!」と外科にまで手を出しては「本職は薬師だぞ俺は!!」と頭を抱えていた彼の姿を思い出す。
「ふふ……とっても凄いお医者様だったんですが、うっかり屋さんだったんですよ。腹痛を治す代わりに、”死ぬほど”発疹が出る薬を患者様に使おうとして、発疹の解毒薬を渡し忘れてしまうような人で」
「…………そうか。親指を内側に入れて握れ」
ローの言う通りにする。青く見える血管へ針が刺さるのを静かに見つめた。指先が冷えるようだ。
「それで、私、そのお医者様のお手伝いをさせて頂いていたんです。本当に汚い場所だったから、注射器なんて人の身体に入れられなくて……」
「力抜け。あと一本取るぞ」
頷いて、手をゆっくりと開いた。針から流れていく血は当然だけれど赤い。ドクドクとシリンダーへ流れていく血液から目を離さず、けれど私は過去のあのゴミ山を見ていた。
「もし、私の故郷に……ローさんのようなお医者様が居たら、きっと、」
「……」
「きっと、沢山の人を助けられたでしょう。あ、でも、酷いところだったから、高街に行ってしまっていたかしら」
「……」
「私もドクからお薬のことや簡単な怪我の手当は教えて頂いたのですけれど、自分のことで手一杯で……全然身にならなくて」
彼は相槌も打たずに注射針を抜いて、腕にガーゼを押し当てた。抑えていろ、と一言告げてシリンダーと共に部屋を出る。私は簡易ベッドに置き去りだ。先ほど感じていた親近感が空気に霧散していくのを感じて、私はため息をついた。貧血というほどでも無いけれど、頭がくらくらしていた。
数分して、ローさんは部屋に帰ってきた。彼は横たわる私に視線をやると、手に持っていた御盆を採血道具の無いサイドテーブルに置いて、その上にあるマグカップを私に差し出す。
「飲め」
暖かそうな湯気が出ていて、甘い香りがする。ココアだ。上半身を起こして肘を抑えていない方の手でそれを受け取った。困惑気に彼を見上げると、ローさんは首に手を当て少し困惑したように続ける。
「悪かったな。そんなに緊張するとは、思っていなかった」
「……!」
緊張。していたのだろうか。私は。
よく回っていた口は、緊張から来ていたのか。妙に納得して口を閉ざす。
自覚してしまえば、今度は恐怖がお腹の奥でとぐろを巻いたのが分かった。ずるりずるりと這い上がってくるそれは背筋を泡立たせ、身体の末端に毒を吐く。いや、違う。そんな気がするだけだ。そんなことはあり得ない。恐怖なんて、感じるはずが無い。
受け取ったココアのマグカップが重くて、それをそっと膝に置いた。
「……なんも入っちゃいねェ」
ローさんは私の手首を掴むと、私の手ごとマグカップを持ち上げ口を付ける。近づいた顔にドキリとする間も無く彼はココアを一口飲んで離れた。
「飲んどけ」
あっっま。と舌を出して、彼は自分用のコーヒーへ口を付けた。私はそれを見て、自分のマグを見て、瞬く。
一瞬、私とアンを騙した数々の人間の顔が巡ってたけれど、此処までして貰って置きながら飲まないという選択肢は私には無かった。
そっと彼の口が付いた部分を指で拭ってから、同じ場所に口を付け中身を傾ける。
「……甘い」
「ああ。シャチの野郎が張り切って馬鹿みたいに砂糖入れてたからな」
「……思ったなら、止めて、ください」
「もし次があればな」
俯いた私の頭に、大きな手の平が乗る。いつもに比べて酷く優しい彼の手は、私の髪の毛を軽く撫でるとすぐに離れた。
「それ飲んだら戻れ。それからすぐ寝ろ」
はい、と声に出せたか分からない。涙など出ないし、感情だってもうほとんどないはずだ。だって、それらは神に捧げたものだから。私が感じるはずの無いものだ。私は心を捧げたのだ。神様に。私の、私達の神様に。
なのに、何故か彼らへ期待してしまっている自分がいる。
早くこの船から出たい。私は、わたしは。
私は天使なんかじゃ無い。