☆ 速さのへいがい
「エネル様……ゲイア様のご様子が」
「分かっている。お前達は控えていろ」
ゲイアの声で目が覚める。呻くようなその声は幼いときよりある発作のようなものだった。
侍従と神官共は足音静かに廊下を辞すると、やれゲイアに水を、汗をかかれているかもしれないから布を、と動き回っている。
エネルも音を大きく出さぬよう、自分の足を使って廊下に出た。ゲイアの部屋はエネルの部屋に程近い。
「ゲイア、入るぞ」
唯一エネルが入室時に声をかける部屋の薄い戸を開ければ、部屋の真ん中で頭を抱えて呻く兄が居た。泣いているでもなく、苦しんでいるでもなく、けれど獣のように歯を食い縛って、何かに耐えようとしている兄の姿が。
ゲイアは緩慢な動きでエネルを見て、詰めていた呼吸を吐き出した。
「エネル……」
暗い夜の帳が降りて、アッパーヤードは夜を迎えたはずだった。けれど大樹の茂る森はチカチカと明るく光っては消え、至るところで明滅を繰り返している。
ゲリラどもが、タイミングの悪いやつらめ。舌を打ちたい気持ちを抑え、そっと後ろ手で戸を閉めた。
「エネル、身体が、上手く纏まらないんだ。まるで此処にある空気全てが俺だ。エネル、エネル、俺は今ヒトの形をしているか?」
「しているとも。落ち着け兄よ。…………厄介な。今になって心鋼が使えるようになったのだな、ゲイア」
「まん、とら。これが」
かつて幼いときに兄が求めて、けれどついぞ手に入らなかった心鋼。力を持ちながらもそれを制御仕切れぬらしいゲイアは、自分の身体をかき集めるように強く、強く自分の身体を抱き締めた。
ああ本当に厄介な。何もこんな時に得なくとも良いものを。柄にもなくそう思った。
発作と心鋼、その二つが合わさって、いつも浮かべているへらへらとした笑みが消えている。
今やゲイアは空気に触れるあらゆるものを感じ取ってしまっているのだ。
「ゲイア、目を閉じるな、わたしを見ろ」
「……エネ、ル」
「そうだ。我が姿を見ろ。お前と同じ似姿の、おれを見ろ」
「エネル、エネル……、……駄目だ、おれ、帰りたい。帰りたいんだ」
「ああ、分かっている」
譫言を告げる口はわなわなと震えている。エネルに伸ばされた手を握り返してやれば、ゲイアは耐えきれぬというようにボロボロと涙を溢した。
昔から。昔からそうだ。ゲイアは此処では無い何処かへとずっと帰りたがっている。
真夜中に部屋を抜け出すこともあれば、こうして部屋で踞って、ひたすら何かに耐えて、帰りたい帰りたいと。
「私がいる」
まるですがるように抱き付いてきた身体を、通り抜けないようゆっくりと抱き締めた。
「帰りたい……帰りたいんだ。おれは、おれ、かえり、帰りたい」
朝になると本人は忘れてしまうゲイアの発作。これを治められるのはいつだってエネルだけ。寝巻きを乱して泣く男の背中を優しく叩いてやるだけで、エネルは腹の底が甘露な充足感で満たされるようだった。
誰にでも公正で、感情豊かに笑い、そして掴み所の無い兄が、唯一こうしてすがるのは、神たるエネルただ一人。
強く抱き締めてやりたい衝動を堪え、そっとゲイアの身体を少しだけ引き離して、兄の耳元に唇を近付けた。
「帰ろうゲイア、おれと共に」
「……おれ、帰れるの」
「帰れるか否かではない。帰るのだ。我らが故郷に帰ろう」
「エネル……うん、ああ、帰りたい、おれは、おれ……」
そうだ。帰ろう。神の国へ。
森は未だに明滅を繰り返し、ゲリラの抵抗を強く感じさせた。
力の抜けた身体を横たわらせて、ゲイアはエネルの顔を見つめている。
(そのために此処まで来たのだ)
エネルも力の籠った瞳でゲイアを見つめ返した。
「もう眠れ。朝になればアッパーヤードも鎮まる」
「けれど……」
「ヤハハハ、兄上が空気とならぬよう、私が見張っておいてやる。この私を寝ずの番につけるのだぞ、安心して眠れ」
「……うん、ありがとう、エネル。おれの、おとうと……おれの、」
そう言って、ゲイアは波が引くように意識を失った。その輪郭がぶれることもなければ、触れて空気になることもない。
エネルは寝具に倒れるゲイアの傍らであぐらをかいて、膝に肘を押し当て頬杖をついた。
「……方舟の建造を急がせるか」
自分に良く似た姿の、けれどすぐに見分けのつく片割れの顔を見下ろす。
自身の半分。神に並び立つ只一人。果たして並び立っているのはお前か、それとも。
「ヤハハ」
夜が更ける。エネルの耳にも届いていた喧騒が遠ざかる。暗闇が濃くなっていくほどに、天上の月は存在感を増していくようだった。