☆ とおいむかしに聞いたうた
あにうえ、あにうえ、と、声に出しては彼の後を追っていた。
「エネル」
彼の優しい笑顔が与えられるのは自分だけだと知っていたからだ。
聞きなれぬ楽器の音色に目を覚ます。ああ、またか。寝こけていた身体を持ち上げれば、団扇で風を送っていた侍女の一人が飲み物を持って傍に立った。それを飲み干し、また耳を澄ます。兄の、ゲイアの奏でる音だ。
うっとりと目を細める文官共も、神兵も、己の傍に侍る女ですら及ばない。
このエネルに唯一並び立てるのは、兄であるゲイアのみ。それをありありと示す程の力と美しさが、この音色にはあった。
「一体どこでこのように美しき調べをお学びになったのでしょうな」
神兵長であるヤマが、目を覚ましたエネルに気付き言う。
「さァな。アレは幼き時よりあのように、この空の誰も知らぬような事を知っていた。この音色もまた、その人知れぬ知識の中の物だろう」
ゲイアは幼い頃からエネルに出来る事を殆ど出来なかった。同じ顔、同じ背丈、同じ女の腹から産まれた筈なのに、彼は心鋼も未だ満足に使え無いし、身体の動かし方も上手くない。頭の回転の問題なのかどうにも知識の使い方が下手でもある。
ビルカに居た頃はそのせいで肩身の狭い思いをしていた。
私の兄なのだから、堂々としていれば良かっただけの事なのに、ゲイアは変に真面目な気質だったから。隙を見せては、馬鹿な輩に突かれていた。
だがその代わりと言わんばかりに、ゲイアには誰も教えたことのない知識があった。知識というよりは、彼に染み付いた常識のようなそれを、有効に活用出来たのはエネルだけだった。
他の者もゲイアの稀有な知識に気付いてからはそれを引き出そうとしていたけれど、結局彼が齎した情報を"使える"ものに落とし込めたのはエネルぐらいのものだったし、ゲイアにとっては常識のそれを、聞き出す事すらあのアホ共には出来なかった。
そう、例えば、黄金の使い道、だとか。
ゲイアはいつだって、エネルに有用な情報ばかりを嬉々として溢すのだ。
戯れに返したエネルの言葉を聞いて、ヤマも文官も侍女たちも、うっとりと音色に耳を澄ませる。
「ヤハハ、やはりアイツにエアエアを食べさせて正解だったな」
「まっこと美しき音色ですな」
「ええ、お優しいゲイア様にピッタリの、優しい音色ですわね。この楽器はなんていう物なのかしら……」
弦楽器とも青海のピアノとも違う。耳を揺らしたことのない不思議な音だ。
思わず笑いが漏れる。せっかくのエアエアの実も、ゲイアに掛かれば楽器と大差ない。
エネル達が聞いていることにようやく気が付いたのだろう、ゲイアはピタリと音を止め、キョロキョロと辺りを見回すように動いたかと思うと、その場から掻き消えたのが心鋼で分かった。
と、思えばすぐ近くに彼の姿が現れる。
エアエアの実を食べておきながら、ゲイアは人を傷つけるためにそれを使おうとは決してしない。せいぜいがこのように、移動であったり防御的な動きであったりだ。
曰く、「俺は争いごとが苦手!」と。
エネルだけは、彼がこっそりその力を訓練している事を知っているけれど。きっとこの社に居る誰もがゲイアがそのように力を使うなどと思っていないだろう。
「エーネル。おや、皆して盗み聞きか?恥ずかしいな」
「ヤハハ、お前がアッパーヤード中に響くほどの大きさで音を奏でていたんだろう」
「えっ、しまった……制御が甘かったか」
すぐ近くに姿を現したゲイアに驚くことなく、侍女たちはゲイアに飲み物を渡す。エネルとは正反対に着込んだ服は、薄い布が何枚も重なってひらひらとしていた。
ゲイアはエネルの横に腰かけて飲み物をすすると、文官の一人がにこやかに声をかける。
「ゲイア様、先ほどの楽器はなんというのですか?」
「ん?ああ、あれは……なんだろう。なんていう名前か分かんないな」
「ではやはりゲイア様が御作りになったわけでは無いのですか?」
「ハハハ、そんなまさか。多分どっかで聞いたんだろうな。ほら、俺は空気人間だから」
笑うゲイアを見つめる神兵も、文官も、侍女たちですら、心底ゲイアを敬っているのが分かった。そりゃあそうだ。此処から青海の音など聞こえやしない。であるならば、我々が知らない音色を、エネルすら知らない音色を、”何処かで聞いた”と言われれば、やはりそれは人知を超えた場所に他ならぬ。ビルカでは有名な話だった。
「ゲイア、戯れにもう一曲何か奏でてみよ」
「ええ?やだ。制御甘くて恥ずかしいし、面倒」
「兄上、先ほどの曲でいいぞ」
「もーしょうがないなぁ!」
デレっと顔を蕩けさせたゲイアは、目を細めてエネルを見て、それからすっと目を閉じた。
空気を揺らして音を奏でるのに集中を要するのだろう。背もたれに身体を預けて指揮棒のように指を振ると、先ほどとは少し違った音色が再び社に響きだす。
エネルは隣でそれを聞きながら、ゲイア同様目を閉じて、自分の為に奏でられる音楽にその身を浸すのだった。