▼2025/08/21:毒を矯める、ひと時であっても
気になる書籍がある。最近見始めたYoutubeチャンネル主の精神科医の先生が書いた『私の中の希死念慮ちゃん』と言う、結構可愛らしいイラストの本。分類は実用書になるのかな。割りと昔から日本人って自分で自分を殺す事を美徳みたいに感じてしまう文化みたいなものがあるけれど、輪廻転生が信じられてきたことが背景にあるのかな。ひとつ言っておくと、私が自分を殺したいって訳ではないよ。ただ、自分には明日も明後日も変わらず未来が来ることを信じられないってだけ。今世の前には前世があって、今世の次には来世があるとして。『自分』と言う存在が終わってしまうのなら私は死にたくない。やりたい事が山ほどあって、知りたい事も同じくらいあって、きっとこれからもどんどんと増えていく確信がある。ただ、面倒になっちゃう可能性は否めないからこの本が気になってる。著者の先生はYoutubeで毎日19時に動画を投稿してるんだけど、時々視聴しては勉強になるなぁと思う。ちゃんと患者を診てくれるタイプの人なんじゃないかなと思うと同時に、たまに居る『患者を診ないお医者さん』って初めは何を思ってこの道を志したのかも若干気になるなぁと考えたりする。高い志を持っていないといけないと言い切る心算はないけど、無いならないなりにビジネスとしてきちんと職務を全うするべきなんじゃないの? と感じる。でも幾ら志が高く保たれていても技術や知識が伴わないなら志よりもそっちなんだろうな。結局、救う術がないなら何も救えないし。
私の身近な人達には、心に病みを抱えた人が多い。SNSを覗いたら『この世の皆死んじゃえばいいのに』って小さく書かれた真っ黒い写真を投稿している子も居れば、必死で家族と自分を生かす術を模索している子も居る。当事者じゃなくて関係者の子も居るし、守りたい人が病みを抱えている人も居る。
何て言うかね、この世界って人間の為に作られたものじゃないと思う。当たり前なんだけども。『社会』は他人が創り出したものだけど、人のコントロール下にはないように感じる。『社会は厳しいものだ』って言う人も多いし多分実際そうなんだけど、あまりにも多くの人が生き辛さを感じてるのって同じ人間が作ったにしては出来が悪すぎないかな。もっと優しい世界があればなぁって感じる出来事が、私が観測できる場所でもたまに起きるんだよね。もっとどうにかならなかったのかなって、ちょっと泣いちゃったりするような出来事が。
このサイトの前身だった『斜陽』は措置入院してた時に作ったんだけど、あの病院で出逢った色んな人達は今どうしてるんだろう。あの時私を生かしてくれた人達は今をどう生きてるんだろう。よく思い出すんだよね、消灯後の病棟で眠れずにナースステーションに行くと灯りがついてて、看護師さんが迎えてくれて、話したければ話せばいいし、ただ居たい時は居るだけでも良いの。『優しい世界』ってああいう場所の事を言うのかもしれない。でもあれくらい限られた場所じゃないと『それ』が成り立たないかもしれないのは悲しいかな。
全ての人の味方にはなれない。正義の裏は別のベクトルの正義だから、全方位に良い顔をするならそれはもう正しいとは言えない。誰かが泣くから誰かが笑う。逆も同じ。けど、出来るだけ悲しんだり苦しむ人が少ない世界って目指せないものなのかな。
二次創作とは言え小説を書く人間だから日常的に何かしらの妄想(症状じゃない方の)をするんだけど、前にも書いた通り、私は救われなかった自分を救う為に書き始めたんだよね。もっと生きやすい世界が、スカッとして快い気持ちになれる世界があったって良いんじゃないかって。理想を描けるって意味では良い趣味だと思う。多少嫌な事があっても妄想に昇華して文章に出来れば気が済む時の方が多いし。
私にとって文字にする事は、現実を生きる為に、理不尽さに対しての或る種の抵抗手段なんだよね。それが一時的な鎮痛剤であっても副作用もない良い薬だよ。前のサイトの時に『賄い薬』ってコンテンツがあったね。多分今にも引き継がれてると思う要素のひとつ。他の誰にも処方してもらえない、自己流の処方薬。
人間って同じ行為や作業を繰り返す事で幾らかはそれらが洗練されていくものだと思ってるんだけど、あの頃の私に誇れるくらいには文章を書く事が得意になった。漫画家を目指してたのにそっちは良いのかって訊かれたら『ごめんね。駄目だった』って謝るしかないけどね。でもイラストを描く事はその頃より上手になったから許して欲しい。創作業で食べてる人に『貴女は文章でも生きていける』って評価されたし、最近だと人形も作れるし。
二次創作って『現実ではそうならなかったけど、他でもない自分が読みたい話』を味わえる限られた手段の一つだと感じてて、自分の中にしかない妄想を形に出来るのって幸福な事だと思う。発表して他の誰かにも賛同してもらえたら本当に嬉しい。せめて文字の上では大好きなあのキャラを幸せに出来るんだって思えるし、同じ思いを持つ仲間が存在してるって知る手段にもなるから。
話がそれたね。大脱線だ。『希死念慮』って要は自分を消したい気持ちの事を言うけど、誰かが綴った文字が他の誰かを救う一方で別の誰かを崖から突き落とす事がある。悲しいけど、言葉は諸刃の剣みたいな道具だから仕方ない。考えを特定の音に載せて、文字と言う形を与える事でこの世界に送り出すのはみんな一緒。でも目的が違う事の方が多い。慰めようとした言葉がうっかり相手には傷口に塩を塗る禁句だったり、何の気なしに零した一言で見聞きした誰かが絶望から救われちゃう事もあるから、結構な確率でエラーを起こしてるよね。
学生のころ読んだエッセイに似たようなことが書かれてたんだけど、『私達は本来個々人の脳内にしかない世界を、共通のものと認識することで社会を営んでる』んだと思う。
私が見てる空の青を同じそれだと認識してる人はどれくらいいるだろう。でもその色を『青』と呼ぶことで共通の認識を持てる。日本じゃない国の人だと大分ズレそうだけどって言うのは置いておいて。
つまり、人間は『言葉』にしないと『思い』を掴みづらい生き物なんじゃないかな。勿論『察する』とか『推測する』とか『想像する』って言う手段はある。でもそれって自分以外に伝えるなら分かり易い形を与える方が効率がいい。
で、希死念慮とは長い付き合いだから分かって来たんだけど、端的に『死にたい』って感じても大体の場合は深堀すると違う感情も出てくる。『これが嫌だから逃げたい』『辛いから誰かに慰めて欲しい』『現状の何もかもが不満で気に入らないから自分の命を人質にします』とか、私の場合は一番最後が多かったかな。結構な子供だね。あくまでも個人的な意見だし、発売前の本らしいからまだ読んでも無いのに考察みたいなのをしてるのはおかしいかもなんだけど。
思考の癖みたいなのなんだよね。口癖みたいな。
初めは本当にそうしたいんだって思ってたかもしれない。でも初めて実行しようとした時『怖くて無理だ』って思ってやめた。痛いのが怖かったんだと思うけど、じゃあそれで気が済んだって事は、本当にそうしたかったわけじゃないって今は思う。思うし、あの時やらなくて本当に良かったって思う。
人間ってね、一年前の悩みを思い出せない人の方が多い生き物なんだって。一つの出来事で苦しいのって割りと短い間の事らしい。本当かは若干疑問なんだけどね。同じことで悩み続けてても、少しずつベクトルが変わるのかな。ただ、これは本当だなって感じるのは『何事にも終わりが来る』って事。これは事実として、私は永遠には生きられない。どんなに苦しんでも、悲しんでも、嬉しくなっても、楽しくなっても、怒っても、いつかは絶対に終わりが来る。この事が腑に落ちた時に何となく諦めがついた。
どうせいつか終わっちゃうなら、生き辛くても生きていこうと思えたんだよね。
不思議な話。ゴールが見えた途端に楽になっちゃった。自分じゃ決められないゴールなのにね。希死念慮は今でも常にうっすらとあるよ。でもそれ以上に生きたいって思える内は大丈夫かな。書いてないネタも山ほどあるし、作りたいものだって沢山ある。後50年くらいは尽きないと思うし、増えるかもしれない。
ただ、本当に辛かった自分を置いてきぼりにせずに生きたい。彼女が居たから私が居るしね。同じような事何回も書いちゃってごめん。辛かった時、それでも生きるのをやめないでくれてありがとう。私を生かしてくれた皆の為にも、今日も思いを文字にし続けるよ。多分、それが一番私を救うから。