memo

▼2025/10/23:織り上がるタータン、ベロアのリボンを結ぼう

下の記事が不穏すぎるね。たまに訪れる鬱な時間に書いてしまった。鬱な時間もそう長くは続かないのが私の症状なんだけど。
病名が変わるかもしれないという話を以前書いたのが、多分本当になりつつある。ただ名前が変わったとて症状に変わりはないし投薬内容にも変更が無いから何の意味があるのかって、私の中の納得値の問題以外特にないと思う。今の主治医がきちんと私と対話して病気と向き合ってくれる人なのもあって、彼に『病名は病名でしかない』っていう、文字にすると意味が分かり辛い言説もスッと入った。名前が変わっても中身が変わらないならラベルの貼り替え作業でしかないからね。
昨日友人と会って話したんだけど、私は大分幸運な人間らしい。病院にせよ相談室にせよ就労移行支援にしろ、大体のサービスに容易にアクセスできるかお膳立てして貰えたし、大抵の担当者とは気が合った。私自身が来るものを拒まないタイプなのもあってか気に入られる事も得意だ。良くない言い方をすると『気に入られるように振る舞える要支援者』って事。お互いに求められる返事を出来るから会話って進むじゃない。日本語を話しているのに日本語を理解していない人って結構居るから、言葉を使うのが上手な私は比較的有利なんだと思う。
自分の思いを言語化するのが習慣になって結構経つ。意見を求められたり、仕事のセミナーでの質疑応答でも挙手したりするのも苦手じゃない。自分の言いたい事を巧いこと伝える為の言葉を探す作業が好きだ。
友人は専門学校からの一番古いリアルでの友人で、私も彼女も家族に色々と事情を抱えてる。私は実父がああだし、彼女はお兄さんが多動の診断を受けているらしい。んで、今就労の事で悩んでる。お兄さんはある障碍者就労施設で働いてるんだけど、周囲の他の障害者の人達とぶつかることが多いんだって。話を聞いてると私にも身に覚えがあるタイプの言動をしているそうで、昔の私が嫌われていた(今がそうじゃないかって言われたら自信はない)原因に心当たりがあるなとか、私もそこで躓いたなとか感じて、支援の介入する余地は結構ありそうだった。ただ、なかなか良い支援機関に繋がれないらしい。一応『強制はしないよ』と前提を述べた上で私の言ってた就労移行支援を紹介だけして置いた。
今って色んなサービスが形だけは存在するのに質に差がありまくりだから、こういうミスマッチが起きるんだろうな。お兄さんの話を聞いてると、過去私が関わった人達の言動も思い出した。言っている事は決して間違いじゃないのに、言い方の問題で周囲とぶつかる人って結構居るじゃない。そんな感じ。自分の中の感情をそのまま言葉にしてしまったり、それを言ったら相手がどう思うのか想像するのが難しいし、何で駄目なのか、嫌なのかを察するのが苦手だから教えて欲しいのに、教えてもらえないから周囲との溝が深くなる。私がお兄さんと一緒に働いているなら似たような特性持ちからアドバイスできるかもしれないけど、それが望まれるとも限らないしね。
この前主治医から『本音と建て前を巧く使おう』『誰も傷付けない嘘は積極的についた方が良い』みたいなアドバイスを貰ったと書いたね。私がそれを実行できるのは、或る程度コミュニケーションで失敗を繰り返したからなんだ。そして、その失敗を責めずに改善する方法を考えたり教えてくれた人たちと繋がれたから。
其処が幸運だと感じる要因だし、素直に聞き入れる事が出来るのは長所の一つらしい(学生時代の成績表参照)。
去年の今頃に書いた覚えがある話もした。非定型発達の人間は、一般的な健常者の人よりも脳が出来上がるスピードが遅いってやつ。私の場合、32歳を過ぎてから急に楽になった。その辺りで脳が完成したのか、考え方の癖とか認知が歪む原因を何となく理解して察知できるようになった。
この話を教えてくれたのも今の主治医だ。カウンセリングを受けられる病院に移れた事も功を奏して今は大分安定した。今日も精神科の診察で、ずっと感じてきた解離の症状を少しづつ治療していくことになりそう。常に自分じゃない自分で居る感覚の根っこにある『もう一人の自分に押し付けてきた傷を受け取る事』はもう出来た訳だから、これからもう一人の自分と私を統合していくらしい。でも、それをするのは少し怖くもある。それが出来たとして、今の私はどうなるんだろう。違う人格になってしまわないか、怖い。過去の忘れていたトラウマが復活しないかも怖い。勿論先生は無理強いはしないと思う。けど、もしも今の調子が良くなってきた私のペースが乱れる様な事が起きたらどうなるのか予測できない。下の記事に書いた事と矛盾するけど、私は今全く死にたくない。死んだら何も出来ないんだから。やりたい事が沢山ある。作りたい物も沢山ある。現状が良い方向性ならトラウマに見て見ぬふりをするのと、とことんまで向き合って治療していく(多少の痛みや苦しみは伴っても)のと、どっちが正しいんだろうか。適しているんだろうか。

これ以上苦しみたくない。と言うのは昔から変わらない。でも、必要な苦しみがあるんだとしたら。
これは甘えだろうか。甘ったれてたとしても、私は余計な痛みや苦しみは負いたくない。見て見ぬ振りも処世術だし。こんな風に考えている時の私は本当の私だろうか?


←前へ | 次へ→