memo

▼2025/11/07:凹みが無いと埋まらないでしょう、その尖った感性。

暫くの間、小説を書いていない。
私の第一の趣味と言える文章を書く事、及び物語を綴る事。二次創作BLだけでなく、一時創作の妄想は蔓延っている。ただ、何となく書く気にならなかった。他にしたい事も多いし、何もしない時間が休養となって心が休まる事を知ったから。物づくりはそれなりにしている。この前も髪飾りやバッグを作った。手帳をつけるフォーマットも試行錯誤の最中だし、料理や運動も欠かさないし、英語だって毎日勉強している。
人間と言う生き物は、自発的な行動の方が続くらしい。『これを学びたい』と感じて自らそれを極めようと考え行動すると継続しやすいと聞いた。ただ、その動機が『他の誰かの為』ではなく『自分の思う未来の自分の為』でもなく、『今を楽しむ自分の為』の方が続きやすいように思う。最近それを実感しているのが英語の学習である。デュオリンゴで英語を勉強しようと思ったきっかけは前に書いた通り『英語で画かれた漫画を読みたいから』で、それを読みたいのは『癖に刺さった新キャラのパートを読みたいのに、翻訳されるまで何年かかるか分からないから』だ。ビジュアルが癖に刺さるのは勿論の事、彼の過去も持っている特殊能力も非常に良いので読みたくて、しかし翻訳されるまで十年単位待つのは嫌だった。から、『じゃあ原典で読めばいい』と結構軽いノリでデュオリンゴをダウンロードした。私は昔から、変な所でフットワークが軽い。
結局その読書の目的は続かず(一話当たりが900円弱は高すぎる)、英語の勉強はそれなりに楽しいし遣り甲斐もあるしで現在に至っているが、何でか世界のどっかの人が私をフォローして応援してくれるようになった。しかし私は彼等彼女等のことを何も知らないし分からないので、ただ『楽しむ自分の為に』勉強している。大分英語を聴いたり読んだり書いたりは出来るようになって、苦手な英作文もそれなりに出来るようになった。但し発音は変わらずカタカナだ。しかし毎日練習していると若干ではあるが良くなっているようで、デュオリンゴの発音練習も点数が貰えるようになってはいる。
英語の曲を聴きながら運動することも増えた。何となくでも言っている事や伝えたい事が掴めるようになってきて楽しい。運動しながらネバービーアローンを口パクで歌ったり、カウンティングスターズをシャウトしている気分に浸ると踏み台昇降の30分はあっという間だ。米津さんの曲を英訳したものを唄う挑戦もしている。我ながら自分が何処に行きたいのか分からないが、まあまあ面白いから良いと思う。
運動の他に料理も趣味の一つだし、裁縫やハンドメイドアクセサリーの製作、ドールを愛でる活動、美容とメイクの研究、イラストを描く事もインテリアをコーディネートする事も、このブログを書いたり手帳をつけたり、まあまあやる事は多い多趣味な人生だ。総てをやり切ろうとするとかなり疲れるし、恐らくは不可能なのでどれかは力を抜くわけだ。私はよく、趣味の一つ一つを調理中の鍋に喩える。どれも焜炉の上でコトコトと煮えているわけだが、火加減の調節をしながら巧い事続けているように感じている。そして、焜炉が足りないこともままあって、そう言う時は鍋敷きの上で休ませているのだ。その鍋のうちの一つが今現在、『小説を書く事』なのかもしれない。こういう考えで居られる時はその趣味と巧く付き合えている状態に感じる。何だろう、やっていない事に罪悪感を覚える事があるというのは趣味に於いてはあまり良い状態ではないように思えるのだ。趣味とは余暇活動の一つなので、これが仕事なら或る程度の成果を求められるけれど、個人の活動でしかないなら誰に強制されることも無い筈なのである。しかし、自分に罪悪感を覚えるのは何となくわかる。自分をいちばんに扱えていないように感じてしまう事が私にもある。人生は有限だし、やりたい事も書きたい事も尽きない。でも、本当に自分をいちばんに扱うのであれば、『今は書きたくない気持ち』を尊重して良いように思う。誰の許可も取らずに書いているのなら、書くか書かないかは自分の裁量で決めて良いのだ。
『推し活』と言う言葉が広まって少し経つけれど、『推す事』に義務感を覚えたら一旦離れようと考える人も多いらしく、それが長く適切な形で推しを推す事に繋がりもするらしい。
ただ、オタクと言うのは厄介な生き物なので『推していない自分』や『書いていない自分』を過去の『推してきた自分』や『書いてきた自分』に申し訳なく思ってしまうんじゃないだろうか。これまでの自分に恥じない自分で在りたいからこその罪悪感かもしれない。
しかし、私は多分こんな事を書きつつも『これからも書き続ける為に今は書かないのだ』と唱えてしまう。細く長くいきたいと考える事が増えた。そして、いつか商業作家になってみたいなぁと思いながら一時創作のネタを温めている。書きたい話について調べ、必要な知識を勉強して身につける。イメージソングを決めて妄想を繰り返す。これらも文字になっていない創作の一部の様な気もする。多分これは言い訳でしかないんだけど、趣味なんだしこんな感じでも許されると思うし、私は許している。
『趣味』と『愛好』は少しニュアンスが違う様な気がしていて、でもよく似た姉妹くらいの関係だと思う。趣味は仕事にすると病む事があるけれど、愛好『家』なら職業に近いと言うか、称号のようにも思える。うまく言えないんだけれど。
つまるところ、書いていない自分も好きだし、書いている自分も良い。同じくらいに。今は煮詰まったジャムを冷ましている所なのか、それとも煮物の味を沁みさせているのか。丁度良い温度になったら次の段階に行くし、もしくは何かしらの手を加えるかもしれない。多分私のキャパシティ的に三口焜炉以上なのは確定なので、そろそろ炎の上に戻すかもしれない。
面倒に感じる事もあるし、でも出来上がった成果物を味わうと格別なのも本当。焦げ付かない程度に熱していられれば良いんじゃないか、鍋ごと駄目にするよりは、一度火から下ろして置けるならそれで。

このスタンスを取れるようになって、大分楽になった。出来る日も出来ない日も、やりたいのに出来ない日もあって良い。と言うか、許可を出さずとも存在する。そう実感できて腑に落ちて、急に楽になれた。非定型発達の人間は、人間として成熟するスピードが定型の人の7割くらいらしい。と言う事は私の精神年齢は23〜24歳くらいなんだろうか。それにしては時折子供すぎるし、別な時には老成しているけれども。

自分を俯瞰で見られると、人はそれまでよりも少し楽に生きられるらしい。メタ認知とかメタ思考とか呼ぶらしく、自分の中の感情と自分を切り離して外側から眺めてみる、のだとすれば、私の離人症状はそれに近いものがある気がする。良いんだか悪いんだか。
これまでの我武者羅でストイックな自分も悪くなかったとは思う。今は大人になって、大人ならではの楽しみ方を身に着けている最中なんだろう。情熱はとろ火になっても燃え続ける物だし、結局好きなものは好きなままだ。焜炉の数を増やしたいなとたまに思うけれど、ガス代がかかって仕方ないよりはいいのかもね。


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