memo

▼2025/11/24:罅の入った砂時計、零れ落ちるのは時間じゃなかった。

久しぶりに鬱転している。今日は仕事を早退してしまった。職場で泣き崩れたのは初めてかもしれない。
私は普段、軽度の躁状態にある。常に幾らかは希望や将来への夢を持っていて、その為に努力するのが好きだ。継続して何かに取り組むのも好きだし、自分がやりたい事や主張ははっきりしている。この前、或る人に自分の抱く夢を否定されたような気がして。馬鹿げているとか現実をみられていないとかではなく、叶えるのは難しいんじゃないかとやんわりと言われた気がする。きっとその人にそんな心算はない。ただ、受け取った私の心のどこかに、して欲しくない触れ方をされたのだと思う。私自身気づかぬうちにいつの間にかスコンと底が抜けてしまって、一気に沈んでいった。

こういう時、人はどんな風に浮上するんだろう。或る程度までは沈むに任せた方が良いように思えて、それでも沈んでいる過程もそれなりに辛いものがある。本当の底に辿り着いた感覚はまだない。じゃあ、いつ浮上できるのだろうか。
たまに聞くけれど、どん底まで落ちちゃえば後は登っていくだけ、と言う言説。私の底は何処だろう。何処まで沈めば浮上できるだろう。
今、『現実を生きているという感覚』が普段以上に欠落している。何処か空虚な感覚がする。現実と言うよりも、居心地の良い悪夢を見ているかのような。そんな解離が起きている。普段以上に。
元々私は、現実を生きている感覚を見失いがちだ。常に自分を言う人間を演じている。これは持病の統合失調感情障害によるものらしく、しかし、この病名が与えられた人達全てに当て嵌まる症状じゃない。
一番顕著なのはお風呂に入ったり髪の毛を乾かす時だ。自然と鏡や自分の身体が目に入る。これは自分なのか疑問に感じる。これまでの人生、私じゃなかった事は現実には一度もなかった筈なのに、これは私だろうかと自問する瞬間が此処の所すごく多い。非常に奇妙な感覚だ。
唯一良かったと思っているのは、私は絶対に死にたくないと強く思えていること。私には夢がある、やりたい事も沢山ある。作りたい物も、食べたい物も飲みたい物も、着たいお洋服だってたくさんある。なのに、それ等への執着は今、驚くべき程に希薄なのだ。今なら何を手放しても後悔はないかもしれない。でも、後悔以上の何かが襲ってくるだろう。
今日も私はその危機感と共に生きている。

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